翌朝。


 譲ってもらった寝室で起床した椿月。外から鳥の声が聞こえていて、障子からまぶしい光が差し込んでいる。きっと雪が止んで晴れているのだろう。


 椿月は上半身を起こした後も、ぼうっとしたままでいた。


 初めてしてしまった、昨晩のあのこと。


 昨日の感覚を思い出して、指先を唇に触れさせる。


 私の見た夢ではないのよね、とたしかめるように。 


 一晩眠りを挟んでしまうと、なんだか夢の中の出来事だったような気さえしてしまう。明るく照らされる室内には、昨日の薄闇の名残の片鱗も見られない。


 椿月は寝室で簡単に身支度を整え、布団を畳んだ。出来る範囲でだが借りた部屋をきれいにして、廊下に出る。


 するとやはり外は見事に晴れていて、家を囲む築地の向こうには薄く淡い水色の空。庭の地面や植物には真っ白に積もった雪。朝の強い日差しを受けて、キラキラ輝いている。


 そんな美しい朝の景色に見とれていると、雨戸を開けて回っていた誠一郎と遭遇した。


 互いにハッとして、


「お、おはようございます」


「あっ……おはよう」


 と、気もそぞろな挨拶を交わしてしまう。


 何となく、相手の顔が見られない。


 誠一郎はたどたどしくも訊いた。


「あの……大丈夫でしたか?」


「えっ、あ、うん……」


 椿月には彼が一体何のことを指して大丈夫かと言っているのか分からなかった。


 人の家で眠れたかということなのか。部屋の寝心地は悪くなかったかということなのか。寒かったが大丈夫だったかということなのか。はたまた、気持ちを伝えあったことなのか。昨晩のあのことなのか。


 よく分からなかったが聞き返すのは恥ずかしかったので、反射的に「うん」と返してしまった。


 椿月は胸の前でぎゅっと両手を握って、自分たちが昨夜ついに恋人同士になったのだという事実を信じられない気持ちで思い出していた。


 会いたくても会えなかった、今までのことを考えると、嘘みたいで。


 交際しているということは、抱きついても許されるのかな。口づけをしても、良いはずなんだよね。恥ずかしくて自分からはとても出来ないけれど、などと、椿月の思考が忙しく飛び回る。


 色々考えてしまって、視線を逸らしたまま動きが止まってしまっていた。


 誠一郎も同じように思考に意識が行って動きが止まっていたので、お互い様ではあったのだが。


 目もろくに合わせられないままだったが、とりあえず誠一郎は椿月を洗面所に案内する。きっと女性は早く朝の身支度を済ませたいだろうと思って。


「この手拭を使ってください」


 清潔なものを取り出し、そう言って彼女に手渡した時。


 不意に指先が触れ合って、思わずはっと目を合わせて互いを直視してしまう。


 昨夜のことを思い出して、途端に顔が赤くなってしまう。自分は昨晩、この人と。


 誠一郎は自分が立ち去るしかないのだと気づき、「し、失礼します」とぎこちない身のこなしで洗面所を出て行った。ともすれば、慣れているはずの我が家で壁に正面から激突しそうになりながら。


 受け取った手拭を抱きしめたまま、赤面して固まってしまっていた椿月だったが、ようやく体の緊張が解けてくる。


 でも、気を抜くとまた色々思い出してしまいそうなので、いつもよりも気合を入れて、冷たい水で顔を洗った。


 椿月が身支度を終えて彼の元へ戻ると、外はすっかり雪が止んでいるようで、誠一郎は昨晩の食器を返すがてら朝食ももらってきてくれていた。


 椿月は今日こそお世話になったお礼を伝えに同行したいと言ったのだが、「雪が積もっていて危ないですから」とやはり頑なに断られた。どうせこれからすぐ出るのに、と不思議に思った。


 二人で食事をいただいて、椿月が食器をきれいに洗うと、もう家を出て劇場に向かわないといけない時刻だった。午前の稽古の準備をしなくてはならないし、雪道で普段よりも時間がかかるだろう。


 椿月が名残惜しそうに掛け時計を確認した眼差しをとらえると、


「お送りします」


 と言って、誠一郎も自分の外出用の羽織や防寒具を取りに自室に戻った。


 荷物をまとめて支度を終えると、椿月は玄関で振り返り、家に向かって、「お世話になりました」と頭を下げた。


 それを誠一郎が不思議そうに見ていると、「大家さんに言えない代わりに、おうちにお礼を言っておいたの」と軽く頬を膨らませて言われる。誠一郎は、「すみません……」と謝るしかない。


 一歩外に出ると、今までいた屋内とは別世界のような、深い雪の世界だった。一面真っ白でまぶしい。


 強い朝の陽ざしをもってしても厳しい刺すような冷気に包まれ、フワフワした夢見心地の気分から一気に通常の感覚に戻される。


「すごい雪ねぇ……」


「そうですね」


 こんなに積もった雪を見るのは、椿月も物心ついてから初めてではないかとすら思う。


 見慣れない真っ白な景色に、あたりを興味深く見回しながら歩く。


 すると。


「きゃっ」


 足元への注意がおろそかになっていて、滑って転倒しかける。そこをがしっと、誠一郎に片手で腕を支えられた。


「滑ります。足元お気をつけて」


 お礼を言って体勢を立て直すと、自然と手を出された。彼の意図していることが分かって、椿月はそっと手をのせ、彼の手をつかんで支えにした。


 内心で彼女が、「恋人っぽい……」とぽうっと思っていたことは言うまでもない。


 大通りに出るといくらか道は除雪されていて、滑ることに気を付けてさえいれば問題なく歩くことができた。


 椿月の案内で、館長の家の前の通りまでたどりつく。


 もうすぐというところで、「家までは大丈夫だから」と、恥じらうように言われて、誠一郎は色々と察して「はい」と了承した。


 何度も振り返って手を振ってくる彼女の去り行く姿を見送りながら、こんなに可愛い人が自分の恋人に、と信じられない気持ちでいた。こんなに美しい人と、自分は昨夜口づけを交わしたのか、と。


 現実であることを確かにするべく、いつもより強めに、一歩一歩雪を踏みしめるようにして帰路を歩いた。


 実は昨晩のあの後、誠一郎はほとんど寝られなかった。フワフワと夢の中にいるような感覚で、あれこそまさに夢見心地というものだったのかもしれない。今もまだ、寝不足のせいもあり頭がぼんやりとする。昨日の夜のことが嘘でないかたしかめるように、歩きながらさりげなく自分の唇に触れた。







 そのすぐ後の劇場での稽古にて。


 演者や劇場関係者が、昨日から今朝にかけての大雪の話題で盛り上がる中。椿月はいつものように「おはようございます」と挨拶しながら稽古場に入った。


 すると、いつもと変わらない行動のはずなのに、なんだか妙に視線を集めた。


 別に、何か特別見た目が変わったとかそういうことはない。


 だが、雰囲気が今までと違うことを多くの人が何となく感じていた。


 彼女の表情は見たことがないくらい瑞々しく、輝いている。


 勘のいい何人かの女性たちは、具体的な内容は知らないまでも、なんとなく察するところがあるようだ。


「なんだか今日の彼女、いつにも増して美人ねぇ」


「前からよ。この格好をしていなかったから、魅力が出ていなかったのよ」


「いいえ。それを差し引いても、よ。なんだかすごく表情がきれい。それに、色っぽくて可愛らしくて、目がキラキラしてるわ。肌もつやつやしてるし、笑顔が素敵。愛されてるって感じ」


「殿方かしら?」


「でしょうねぇ……。うふふ、純粋で可愛いわね~」


 最後に天崎が稽古場に現れて、すぐに今日の練習が始まる。


 天崎はすぐに彼女の変化を察知した。


 彼女の表情は自信に満ち、自分の恋人役を演じている時も、本当に恋をする切ない顔、明るい顔。一晩にして役者として急成長したかのような。


 天崎は鈍い男ではない。分かってしまった。ああ、あの男だ、と。


 会えないようにさせたって、想い合う二人の前では何の障害にもなりしないのだ。


 悔しいというよりも、ああ、してやられたな、負けたな、という感じ。


 天崎と話すときも、これまではどこか少し困ったように、遠慮がちに対応していた椿月だったが、相変わらず礼儀は正しいながら、目を見て堂々と話すようになっていた。


 椿月の心の中で大きな変革があり、自分の好きな人の恋人として、胸を張っていたいと思ったからかもしれない。


 天崎は稽古の合間に、椿月に大人の余裕をもってほほえみかける。


「何か良いことが?」


 椿月は笑顔で答えた。


「はい」






 雪道を時間をかけて自宅に戻った誠一郎は、玄関の戸に配達された郵便物が挟んであることに気がついた。


 引き抜いて差出人の名を確認すると、すぐにその場で開封し、黙って中身を読んだ。いつもの感情を表しにくい表情に、難しそうな影がかかる。


「そろそろ、きちんと話すべき時なのかもしれない……」





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