日が暮れ、電気を頼るようになった頃。


 誠一郎が外の様子を見に行くが、近年稀に見る大雪はいまだ止む気配すら見せない。


 暗くなっているため帰りは送るつもりだったが、家の前の通りからなんとか先に出てみるも、積雪がひどく視界も悪く、何度も雪に足を取られそうになる。住宅街から大通りに出るだけでも、男の足でも一苦労。椿月を連れて無事に家まで送り届けるのは、難しいと言わざるを得ない。


 外から戻ってきた誠一郎は、髪や服に積もった雪をはたいて落とし、玄関で出迎えてくれた椿月にこう訊いた。


「うちに来ていることは、館長はご存じですか?」


「あ……誰にも言って来てないの。どうしましょう……」


 椿月としては黙って抜け出してこっそり戻るつもりだった。雪がここまでひどくなると思っていなかった。


 彼女の父親代わりである館長も、きっと心配しているだろう。


 誠一郎は少し思案して、彼女に提案した。


「……大家の方のお宅がすぐ近所にあるので、そこで電話を借りてきます。とりあえず、椿月さんが今は無事でうちにいることを館長に伝えます」


「なら私も一緒に」


 そう言い出した彼女の言葉をさえぎって、誠一郎は言う。


「あ、いえ……。椿月さんは家で待っていてください」


 普段彼女の申し出を断ることなどめったにない彼が、なぜかそこは譲らなかった。


 すごい大雪であるし、心配をしてくれているのかしらと思い、椿月はそれを了承した。


 戻ってきた足でそのまま出ていく誠一郎を、


「行ってらっしゃい、気をつけてね」


 と、玄関で見送る。


 まるで夫婦のようだ、と心の中でむずがゆく思ったのは、誠一郎だけではなかった。


 しばらくして戻ってきた誠一郎は、荷物を持ってすぐに大家宅と自宅を二往復した。


 最初は客用布団と女物の寝巻。次は膳。


「まあ、どうしたの?」


 ずっと玄関で待っていた椿月は、彼が雪の中持ってきた大荷物に瞳をパチパチとさせる。


 誠一郎は少し言いにくそうに、それでも努めて事実だけを伝えるように言う。


「館長とは電話で話せました。今この天候で無理に帰すのは危ないので、出来たら一晩置いてやってくれないかと言われて……。その話をしたら、大家夫妻が色々と貸してくれました。いつも食事をよく分けていただくんですが、今夜も二人分くらいならと快くいただけました」


 まさかの事態に少々赤面して驚きつつ、椿月は道理のようにこう申し出る。


「そ、そうなの……。あっ、私もご夫妻にお礼を言いに行きたいわ」


「……僕がちゃんと伝えましたので、お気になさらないでください」


 至極当然の希望も、誠一郎は柔らかい口調ながら頑なに同行させることを拒否する。


 椿月は不思議に思ったけれど、玄関で大荷物を抱えている誠一郎をこのままにはしておけず、とりあえず二人で室内へ向かった。


 客用布団を貸してもらったのは大正解で、誠一郎は自分の布団以外まともに用意をしていないし、押し入れに押し込みっぱなしの布団はもうどのくらい日を浴びていないか分からず、出すことすら恐ろしい。


 誠一郎は椿月に自分の寝室を譲った。


 もちろん彼女は遠慮したが、他の部屋は広すぎたり、外に近すぎたり、ちゃんと全ての戸を閉めることができなかったり、あまりに掃除が行き届いていないため、ここくらいしか彼女に使ってもらえそうな部屋はなかったのだ。もちろんここも、お世辞にも掃除が行き届いているとは言えないのだが。何分急なことなので致し方ない。誠一郎は居間でもどこでも寝られるので、横になれさえすれば適当な場所で構わなかった。


 また、女物の寝巻も押し付けられるように渡されたのだが、それも今となっては正解だったと誠一郎は思う。


 使っていない、洗濯された自分の男物の寝巻を使ってもらえばいいかと思っていた。しかしよく考えてみたら身長や体格が違いすぎて、椿月にはとても着られそうにない。着崩れどころでは済まないと思う。


 女性を家に泊めるということでものすごく驚かれ、それなりに恥ずかしい思いもしたのだが、結果的に相談して良かったと思う。


 寝床を整えたあと、分けてもらった夕飯を二人で食べた。


「ちゃんとお膳まで用意してくださるなんて、とても親切な方々なのね……」


 思わぬ厚遇に驚く椿月に、「たしかにそうですね」と誠一郎も認める。普段恵んでもらう時のほとんどは丼でご馳走になるのだが、ご婦人がいるのならと張り切られて特別な気遣いをされたのは黙っておいた。


 椿月は食事を共にしながら、誠一郎が男性にしてはきれいな食べ方をしていることに気がついた。考えてみれば、二人できちんとした食事をするのはこれが初めて。神矢とは何度か劇場の食堂などで同席したことはあるが、あの神矢でもかきこむように早食いすることもままあるので、男の人というのは皆そういうものなのかと思っていた。


「誠一郎さん、お箸が上手ね」


 普段はめったに人に感心してもらえることなどない誠一郎だったが、まさか椿月に箸使いを褒められるとは思ってもいなかった。


 いつもと変わらない表情づくりの苦手な顔に、出来る限りの苦笑をにじませる。


「こんなことばかり器用で」


 そう言って椀の中の小さな豆を、流れるような動作で一発でつかんでみせる。


 椿月は「すごいわ」と目を丸くして感嘆していた。


 こんなたわいないことを話しているだけで、椿月は自分の心がじんわり幸福を覚えているのを感じていた。あの高級レストランとは、場所も環境も、食べているものだって全然違うのに。あの夜とはまったく違う。心の底から素直に楽しいと思っているし、今の時間がずっと続けばいいのにな、と思う。


 食事を終えると、大したお礼にもならないけれどと思いつつ、椿月が食器をきれいに洗った。


 実を言うと、彼女は家事の類があまり得意ではない。幼少の頃から演劇のことばかりで、料理などは自信がないことが多く、見栄も大いに込めてなんとか人並みと言えるくらい。


 だが、彼女にも演劇に触れる前の人生がある。捨て子だった彼女は物心ついた頃にはもう拾ってもらった奉公先にいて、そのお屋敷の使用人のそのまたお手伝いのようなことを、住み込みでさせてもらっていた。一人前の使用人として扱われていなかったのは、まだ幼かったため難しい仕事が出来なかったからだろう。


 今改めて考えてみると、大した労働力にもならないそんな小さな子供を、よく家に置いてくれていたものだと椿月は思う。


 そんな幼い彼女が任されていたのは、誰にでもできる簡単で単純な仕事。食器洗いだけは昔からよくやっていたのだ。汚れが残らないようにピカピカに磨き上げる。漆塗りの重箱は指をこすると音が鳴るくらい、と子供にも分かりやすいように教えられたのは今でも覚えている。


 でも、そこまで思い出してから、意識的に考えるのをやめた。


 そう、この記憶の糸をたどれば、行きつくのはあの辛い思い出。思い出さないように努めて、こうやって何とか記憶に蓋をしてきたのだから。


 いつか、そんなこともあったな、と笑って振り返れるまで。辛い記憶は封印しておくのだ。


 食器洗いを終えると、譲ってもらった寝室で寝巻に着替えてみた。大家夫妻の奥さんの昔の寝巻だというが、椿月の体にぴったりだった。


 居間に戻ると、電灯の一つの明かりが夜の薄闇を散らしていた。


 しばらくして、家中の雨戸を閉め終えた誠一郎が戻ってきた。椿月に寝巻が合ったことにほっとしつつ、あまりじろじろと見るのは失礼かと思い、視線を逸らす。


 それから、


「寒くありませんか?」


 と気づいて、自分の着ていた羽織を脱いで勧めた。


 お礼を言って遠慮なく椿月が羽織ると、布地に彼の体温が残っていてほんのり温かい。袖を通すとぶかぶか過ぎたので、肩にかけて指先で支えた。


 椿月は寝巻に着替える際に、いつも下ろし髪に結っているリボンを解いていた。見慣れぬその下ろしただけの長い髪に、誠一郎は彼女がいつもよりも無防備な姿をさらしているように感じられる。


 眠ってしまうのがもったいなくて、というよりすぐには眠れそうになくて、二人はそこに腰を落ち着けて、いろんなおしゃべりをした。


 大した話ではないけれど、夜の時間を二人でのんびり過ごせるなんてめったにないことだから。こんなに長くいられる貴重な時間。今までや、これまでの分ももっと話していたい、と思った。


 いつも話す時とは違う明るさ、時間帯、服装、場所、静けさ。


 はじめは緊張を悟られないように、少しドキドキしながら話していたけれど。次第にいつもの調子になれる。


「……大家さん、いつもご飯のこと気にかけてくださるなんて良い方ね」


 椿月はそう言って誠一郎にほほえみかける。


「そうですね。僕の祖父母に昔世話になったというご縁があったそうで、ご厚意で安く家を借りさせてもらっているんですが、僕のこともいろいろと子供のように気にかけてくれているんです」


 だからこそ、女性が泊まることになったなどという話になったときは結構な騒ぎだったのだが。


「あ。小説の調子はどうなの?」


「頑張っています。……でも、椿月さんに読んでもらうのはまだ少し待っていただけますか」


 そう言われて、椿月は仕方なさそうに苦笑する。


 誠一郎は以前から、椿月にはまだ自分の作品を読まないでほしいと伝えてある。自分の書く小説が、自分の心や哲学を反映したものであるがゆえに、どうにも気恥ずかしさが拭えなかった。その抵抗を払拭できるくらい読んでほしいと思える作品を書き上げることが出来たら、とは思ってはいるのだが。


「いいわ。待ってるから、ずっと」


 椿月はそう、笑うように言う。


 ずっと、というのがいつまでなのか。誠一郎の胸に永遠を意識する言葉が広がる。


「そういえば、神矢さんはまだしばらくは劇場にいないんですか?」


 ふと思い出したことを尋ねる誠一郎。神矢がいないとなんだかんだ相談役に困るのは、二人とも一緒だ。


「ええ。期間中はあちらにずっとお世話になっているから、戻らないようなの。すごく重責を感じていると思うわ……。でもきっと、辰巳なら大丈夫よ。それに、自信家だからこのくらいの重圧がちょうどいいかもしれないわ」


 と、冗談っぽく言って笑ってみせる。


 誠一郎もつられて自分の口元がゆるむのを感じた。


「私の今の役ね……。そのままの姿での演技って本当に久しぶりなの。誠一郎さんが最初に見に来てくれた時以来かな。あれもかなり珍しいことだったのよ。あの時はよそから来た無名役者っていう扱いだったんだけど」


 椿月が過去を思い出しながら語る。


 そういえばあの時は、椿月の誘いを一度断っていたのだ。今の誠一郎が考えると信じられないことなのだが。でもあの時は、こんなに苦しいくらい彼女に惹かれてしまうことになるなんて思いもしなかったのだ。


「私も頑張るからね……」


 寒いから、を理由に自然と二人の距離が近づく。椿月は彼の腕の傍らに身を寄せて、ぎゅっと袖をつかんだ。


 誠一郎はドキッとしたが、平然としたふりをして、「はい」とだけ答えた。


 距離が近くなって、椿月が顔を見上げて話すようになる。誠一郎もおのずと見下ろすような形になる。


 そばにいる相手が近すぎて、意識しすぎて、話している内容が遠くなる。


 今何を話しているんだろう。口から、頭の判断を待たずに言葉が出されている気がする。


 ほとんど一体と言えるような距離で、雪夜の寒さが言い訳になる。


 ふと途切れた会話のあと。二人は静かに見つめ合う。静寂を散らす言葉が出てこなくて。そのまま自然と顔が近づく。


 すんでのところで、アッとなる。


 あとほんのわずかで触れ合いそうな至近距離まで接近した二人を、誠一郎のかけていた眼鏡が当たって邪魔をしてしまった。


 その時にハッと我に返ってしまった。寸前でとどまれて良かったのかもしれない、という気持ちと、それ以上に占めるひどく残念だと、失敗したと思う気持ち。


 人と、女性と近づくときに眼鏡が邪魔になるなんて、そんなことはどこにも書いていなかったし誰にも教わっていない。きっと自分が人並みに経験を積んだ男だったなら、そんなことは自然と分かるんだろうけれど。


 椿月も同じくハッと気づき、今まさに起ころうとしていたことを意識して、恥ずかしくなり耳まで真っ赤になった顔を下に向けた。


 我に返った二人の接近はもう終わってしまったものかと思われた。


 でも。誠一郎は無粋な音をさせないように眼鏡をゆっくり外して床に置くと、うつむく彼女のあごに手を添えて、そっとこちらを見上げさせる。熱を湛えた椿月の顔が、再び誠一郎と向かい合う。


 夜の静けさと薄暗さが背中を押す。


 椿月が息もできないくらいの緊張のあまり何も言えず、何の身動きも出来ずにいると、そのまま誠一郎が自分から唇を重ねた。


 袖を通さずに肩にかけていた、彼から借りた羽織が、するりと滑り落ちる。


 初めてなのに、教わった訳でもないのに、自然とそうできた。そうすることがふさわしいとばかりに、体が動いた。


 椿月も緊張で体がこわばりながらも、初めての、互いの気持ちをたしかめ合うような、触れるだけの優しい口づけを受け入れる。


 どのくらいそうしていたのか。しばらくして誠一郎が唇をゆっくりと離す。


 椿月の唇から、小さな吐息がこぼれた。つぶっていた目をそっと開けていく。


 瞳に写る、自分を見つめる誠一郎は、火照ったみたいに、酔ったみたいに顔が赤らんでいる。椿月は、きっと自分も今同じような顔をしているんだろうなと、のぼせたような頭で思った。


「……すみません……」


 何をどう言えばいいか分からなくて、とりあえず出ただけの言葉だというのが分かる。


 愛を語り合った中でも、契り合った恋人でもなく、唇を重ねたのだから。


 でも、二人とも自然と惹かれ合って、そうしてしまった。それが道理であるかのように。


 椿月は全身が心臓になったみたいに、自分の動悸を感じる。緊張と興奮で口が乾いて、意識して唾を飲んだ。いつもはあんなにおしゃべりなはずなのに、言葉が喉からうまく出てこない。


 でも、だからこそ椿月は、恥ずかしさで視線を逸らしつつも、ぎこちないながらしっかり首を横に振った。嫌じゃない、と精一杯意思を示すために。


 すると再び彼の手が伸びてきて、また唇を奪われた。不意打ちと緊張で、「んっ……」と小さな声がもれてしまったけれど、先ほどよりも上手く受け止められたような気がする。自分の腕を力強くつかむ彼の片腕の裾を、ぎゅっと握った。


 他人の唇の感覚を自分の唇で感じたのなんて初めてで。しかもそれは、いつも自分に話しかけてくれる大事な人の唇。


 ただ唇を合わせているだけなのに、とても甘い。


 苦しいくらい、ドキドキが止まらない。切なさと気持ち良さが共存する、不思議な感覚。


 それは誠一郎も同じだった。


 椿月が首を振って示してくれた意思を理解すると、今まで感じたことのない衝動に突き動かされて、間髪入れず自分からまた唇を重ねてしまった。


 彼女の小さな唇は柔らかく、そのふにふにとした感覚をたしかめるように唇を動かすと、自然と彼女の吐息が漏れた。


 その可愛らしい声にたまらなくなって、本能のままにその柔らかさをもっと味わおうと唇を動かす。もっともっとと相手をむさぼっていくと、さらに深く奥へ追い求めた先、歯同士がカチリと当たってしまって、ハッと我に返った。


 気づけば自分の息さえもほんのり上がっていて、自分のむさぼるような口づけになんとか精一杯応えていた彼女も、同じく熱っぽい顔と湿った息をして、瞳をうるませてさえいた。


「す、すみません……」


 ようやく我に返った誠一郎が、無我夢中になり押し倒しかけてさえいた椿月から顔を離す。とっさに出た言葉は、今度こそ本当に心からの謝罪だった。


 荒くなる息を整えながら、赤面した顔で、椿月も「大丈夫……」となんとか答えた。


 互いに今したことがまだ認識として追い付いてこなくて、少し放心してしまってから、誠一郎は椿月を抱きしめた。


 こうしてしまった以上、順序はおかしいが、すべてを伝えるしかない。


「椿月さん……。少し長くかかるとは思うんですが、聞いていただけますか。僕の話を……」


 彼女の全身を後ろから抱くようにして、夜を語り明かす。初めて伝える、彼の気持ち。温かい腕の中で聞く、彼の想い。ついに伝えた、彼女の心。


 どれだけあなたが好きで、どれだけあなたに会いたくて、どれだけあなたのことを考えていて、どれだけあなたを想っているか。


 二人は気持ちを通わせ合うことが出来たあと、再び唇を重ねた。


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