一方、その頃の誠一郎はというと。


 劇場を訪ねられない時期が長くなるにつれ、なんとか一目だけでも会えないかと、手紙でも書こうかと便箋を引っ張り出していた。


『――お変わりありませんか。寒さの厳しい日が続きますが、お風邪を召されてはいませんか』


『もし許されるならば、一目貴女にお会いしたく……』


 そこまで書いて、いや、やはり迷惑だろうかと、ため息とともに書いた文を消した。


 同業のプロがああ言っていたのだから。彼女の大事な“椿月”名義としての、初めての素の姿の舞台を邪魔してはならない。


 会いたい人に会えない苦しさで、胸が痛い。こんな種類の痛みがあるなんて、誠一郎は初めて知った。


 だから、ただ筆を執る。


 彼女も舞台のために稽古を頑張っているのだから。彼女はいつも自分のことを、「頑張って」と笑って応援してくれているのだから。この辛い気持ちも全部作品にぶつけよう。


 便箋を探していたときに、夏の盛りに書いた手紙を見つけた。今はあの時とは違うのだ。別に心が致命的に離れてしまっているわけではない。彼女に拒絶されたわけでも、永遠に会えなくなったわけでもない。彼女の今の舞台が落ち着いたら、きっとまた二人でゆっくり会える日がくる。それを心の支えに。


 でも。もし彼女が素の姿で売れっ子の女優になったら、以前のように何度も会いに行ったり、堂々と二人で歩いたりすることは出来なくなってしまうのだろうか。


 それどころか、今回のような舞台が連続して続くとなったら、会いに行くことはこれからもずっと難しくなってしまうのだろうか。今のような会えない状態がずっと続いてしまうのだろうか。そして自分のことなど忘れてしまうのではないだろうか。


 彼女が好きな演劇の世界で、女優として活躍することはとても喜ばしいことのはずなのに。それを素直に喜べないでいる自己中心的な自分の考えが垣間見えたことにも気が滅入った。


 誠一郎は気分転換に文机を離れると、貴重品入れとして使っている戸棚からあるものを取り出した。


 それは、自分の手を心配して椿月が贈ってくれたクリーム。婦女子が好みそうな可愛らしい装飾の箱に入っている。


 あれ以来もったいなくて一度も使っていなかったのだが、無聊の慰みに初めて自分で蓋を開けてみる。


 不慣れなためか、はたまた自分では上手く出来ないからなのか。自分で塗ってみても椿月がしてくれた時のようにはならない。あの時は手全体が温かくなり、清楚で爽やかでありながら芳醇な花の香りに、胸が満たされたのに。


 正直、通常の心持ちであれば自分でこんなことはしなかっただろう。でも、血迷うくらいには、心にぽっかりと穴が開いたようだった。


 会いたい。少し声を聞くだけでもいいから。


 それから。ただの何でもない自分が、これからも堂々と彼女に会いに行けるのか。その未来を確かめることも不安だった。






 心にわだかまりを抱えた、ある日の朝のこと。


 朝というには遅すぎる時間に起床した誠一郎が、障子越しに差し込む光がまぶしいと思って、寝巻に羽織を肩にかけ廊下に出てみると、外にははらはらと雪が舞っていた。


 地面に目をやると、うっすらとだがすでに積もり始めているようだ。


 ついに今年の初雪が来たか、と曇り空を仰ぐ。時期としてはそろそろ降雪があってもおかしくはないと思っていたが。


 雪が音を吸い込むのか、いつにも増して静かだと思った。キンと冷えた空気を味わいながら換気をする。


 一段と手足が冷える。炭を熱し、火桶を文机の傍に置いた。


 殺風景な庭を彩る雪景色を横目に、原稿に取り組んで、詰まったら少し休憩。


 朝から変わらぬ勢いで降り続く雪に、この初雪は大層積もるだろうと他人事のように思う。仕事柄、長く家に引きこもることができる人間の強みだった。


 椿月に会えない日々は見てくれもなおいっそう気にかけないので、ぼさぼさの髪を時折がしがしと掻きながら、一文一文と格闘するいつも通りの静かな時間が過ぎる。


 気づけば夕刻も近づきつつあり、日が沈むだろうかという頃。空に敷き詰められた灰色の雲は夕暮れの橙色すら見せず、時間の経過を錯覚させる。


 誠一郎は休憩がてら、雪景色を楽しみながら縁側で煙管を吸ってぼうっとしていた。雪は朝よりも密度を増して降り続き、地面に厚く積もっている。明朝の雪かきは免れないな、などと考えていた時。


 戸を開けるカラカラという音と共に、聞こえてくるはずのない声が聞こえてきた。


「ごめんください」


 まさかの声に慌てて立ち上がり、急いで声の元へ行こうとして、出していた煙草盆の角に思いきり足の小指をぶつけた。全身の力が抜けるほどの痛みにぐっと耐えてから、器用に片足だけに体重を乗せながら玄関へ向かう。


 そこにいたのは、やはり。


「椿月さん……?!」


 幻でも何でもなく、椿月本人がそこにいた。薄い桃色の着物姿で、しっかり防寒具を身に着けて。


 一瞬夢かとも思ったが、夢だとしたらこんなに足の指がジンジン痛むはずがない。


「あの……急に来ちゃってごめんなさい。上がらせてもらっても大丈夫かしら?」


 遠慮がちにあごを引いてまばたきをする椿月。長い下ろし髪がさらりと肩をすべる。


 こんな雪の日に、椿月は約束もなく誠一郎の家を訪れた。それもこれも、稽古の合間を縫うとなるとこの日の夕刻以降しか空き時間がなかったからだ。


 ふと視線を下に落とした誠一郎が、椿月の着物の膝から下についた雪と土に目をに留める。


 その視線に気づいた椿月が、


「あ、何度か雪に足を取られて転んじゃって……」


 と、恥ずかしそうに弁明する。


 誠一郎は急いで室内へ促した。


 すぐに火桶のそばに彼女を招く。


 雪の水分と寒さで真っ赤になった彼女の細い指先が、一生懸命すり合わされている。


 火桶で暖を取りながら、しばらくすると。椿月がいたずらっ子のように拗ねた顔を見せた。


「会いたくて、来ちゃった。誠一郎さん、最近全然会いに来てくれないんだもの。そんなに忙しいの? 具合悪くしたりしてない?」


 そう尋ねる彼女に、誠一郎は自分の考えていたことを説明するのだが。


「あ……その。実は、椿月さんの役作りの邪魔になってはいけないと思いまして……自分なりに考えていたんですが……」


 椿月はきょとんとした顔で小首をかしげている。


 そのピンときていない表情を見ていると、自分は見当違いな気遣いをしていたのだろうかと不安になってくる。


 誠一郎が渡した手拭で、椿月は雪で湿った髪を拭う。


 久々にそばで感じる互いの香り。本当は久しぶりに会えた喜びと会えなかった恋しさで抱き着きたいくらいだったけれど、衝動のままにそんなことをしてはいけないとぐっと我慢していた。双方共に。


「最近は毎日、朝から晩まで一日中何かしらの稽古がみっちり入ってるの。でも今日の夕方以降は珍しく空いてたから」


 そう理由を話しながら身だしなみを整え終えた椿月が、誠一郎の目を見てほほえむ。


 久しぶりに見る彼女は、そんなに長い間が空いた訳でもないのになんだか大人びて見える。もしや自分が知る彼女から変わってしまったのではないかと不安に思うくらい。


 でも、その緊張は彼女も同じように感じていることで。


 探り合うような、差し障りのない会話から始まって、いつもの感覚を取り戻していこうとする。


「朝からすごい雪よね」


 彼女の言葉に外に目をやるが、雪景色が見えるはずのガラス張りの窓は手垢で曇っている。普段からきれいにしておけばよかった、と誠一郎が後悔すると同時に、椿月が窓ににじり寄ってはぁっと息を吹きかける。借りていた手拭で拭いてくれて、雪の庭が見えた。椿月が「見て」とでも言うようにほほえみかける。見事に真っ白だ。


 誠一郎は一瞬、まるで二人で暮らしているみたいだ、などと邪念が頭に降ってきたので、さりげない咳払いで思考を振り払う。


 二人はすぐに、会えなかった時間を埋めあうように色んなお喋りを重ねた。そのほとんどが、椿月が話し、誠一郎が聞く、椿月が質問し、誠一郎が答える、といったものだったのだが。それでも二人はこの時間を何物にも代えがたい幸せなものだと感じていた。


 不意に誠一郎がくもったレンズを拭こうと眼鏡を外した時、椿月が首をひねりながら尋ねた。


「あら……? 誠一郎さん、誰かに似てるって言われたことない?」


 そんなことは一度も言われたことがないので、胸中では困惑しながらも「いえ、特には」と答える。


 考え続けていた椿月も、誰に似ている気がしたのかよく思い出せなかったようで、気のせいかもしれないと思い直した。


 するとその時、椿月は机の上にあるものを見つけた。


「あっ。使ってくれてるのね。嬉しい」


 そう笑顔で取り上げたのは、あれから出しっぱなしにしていたクリームの小瓶だった。もったいなくてほとんど使えず、会えない間に一度手にしたくらいだったのだが。


 こんな機会でもなければ言えなかっただろう。誠一郎は勇気を出してこう口にした。


「これを……また塗っていただけませんか?」


 椿月は少し恥ずかしそうにしながらも、「いいわよ」とうなずいてくれた。


 たおやかな所作で、指先を滑らせるようにクリームを取ると、手になじませる。


 彼女の両の手が、彼の手に触れる。


 彼女の滑らかな手に包まれると、幸福感が全身を充たす。のばしたクリームをさするように馴染ませてくれる動作、触れる指先が心地よく、ずっとこうしていてもらうにはどう言い訳したら良いだろうかなどと真剣に考えてしまう。


 すると椿月が、思わぬことを言ってきた。恥ずかしそうに、上目遣いに。


「……誠一郎さんも、私に塗って?」


 誠一郎は驚いて答える。


「椿月さんのように上手には出来ません」


「こんなことに、上手い下手なんてないわ」


 椿月はおかしなことだと笑うけれど、誠一郎としては上手い下手は大いにあると思う。


 自分もクリームを手に取って伸ばし、彼女の手を握ってみた。


 椿月の手は思っていた以上に小さく、細くて薄い。その白魚のような手指は、柔らかく繊細すぎて、力の入れ具合がよく分からない。


 椿月はたまらず言う。


「そんな、ほんの少しだけ触れるような触り方、くすぐったいわ」


「す、すみません」


 そう言われて、しっかりと手を握る。こうしてちゃんと、女性の手をベタベタと触ることなど人生で初めてのことで。白くて柔らかいそれが同じ人間のものとは思えず、改めて彼女が自分とは違う性別の人間なのだということを感じた。

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