結論から言うと、天崎の熱心な直談判の結果、彼の希望通り椿月が相手役を務めることになった。稽古が始まってから配役を変えるのはめったにないことだが、主役を張る俳優がどうしてもと言うのなら仕方がない。しかもその人は、他劇場の看板俳優という大事な客人なのだ。


 もちろん、椿月の意志も確認した。天崎に席を外してもらい、館長と椿月の二人できちんと話した。


 椿月としても、館長が天崎に対して断りにくい立場だということは分かっている。だから、これも自分を成長させる良い機会だと前向きに受け入れた。前々から、いずれ転機が必要だとは思っていたのだ。これからのことを考えたら、いつまでも悪女の役だけをやっているわけにはいかない。


 そういう経緯で、椿月は素の姿で初めて稽古に参加した。


 以前に一度、自分の好きなように脚本・演出させてもらった劇があったが、あれはその時限りの無名役者として特別に出演させてもらっただけ。


 あの悪女役でおなじみの彼女が本当はこのような姿をしていて、女優“椿月”としてヒロイン役を務めるのは初めてのことだった。


 椿月は身支度の姿を他の者にほとんど見せることがなく、彼女の正体を知る者は、誠一郎以外だと、親代わりの館長と、同期の神矢、あとはほんのわずかな劇場関係者くらいしかいない。


 当然、周囲は驚きを隠せなかった。


 しかし、それよりももっと彼女が周囲を驚かせたのは、その演技の幅だった。


 これまで悪女役ばかりやっていたとは思えないほど、素の姿に近い娘役が、その見た目も相まって非常に様になっていた。そういう意味では、たしかに天崎の見る目に間違いはなかったのだろう。


 周りは、「どうして今までああいう役だけをやっていたの?」と、休憩時間など事あるごとに尋ねていた。椿月からすると、それはこれまでの流れでなんとなくそうなっていた、としか言いようがないのだが。


 結果として、彼女が新たな段階に踏み出すにはちょうど良い時期だったのだろう。


 相手役に強く推薦した天崎も、稽古の度に自分の判断の正しさを肌で感じ、満足していた。自分もまた、彼女という相手役を得て、いつも以上の力を発揮できていることを実感している。


 けれど。天崎には唯一、不満なことがあった。


 稽古の合間の短い休憩中に、椿月にたびたび会いに来る地味な男。お洒落とは対極にある垢抜けない丸眼鏡に、古臭い着物。平均的な男性より勝(まさ)っているところといえば、多少人より上背があるくらい。


 そのくらいのぼんやりとした認識だったが、天崎は彼に良い印象をいだいていなかった。はじめはその不快感が何なのか、天崎本人にもよく分かっていなかった。


 周りの人間に聞くと、どうやら彼は椿月の付き人や使用人などではないらしい。ひょんなことからこの劇場に関わりを持ち、それから定期的に彼女に会いに来ているそうだ。


 地元劇場の看板を務めるような人気役者である天崎。今まであんな男を視界に入れ、疎ましく思ったことなどなかったのだが、彼の心の中に説明のつかない不愉快さが確かにある。


 そんな気持ちを抱えていた折。天崎が百貨店に一人、仕立てたスーツを受け取りに行った時のこと。


 ふと目にした、陳列棚に展示されていたゴールドのネックレス。宝石があしらわれたそれは豪華で美しく、きっと椿月に似合うだろうなと思い、気づいたら「それも包んでくれ」と言っていた。


 後日、劇場の稽古で会ったときに、天崎はそれを椿月に渡した。


「私の大事な相手役だから。これからよろしく頼む」


 と、それらしい言葉を添えて。


 しかし、予想に反し、椿月は喜ぶわけでもなくただ焦っていた。


「こ、こんな高価なものいただけません……!」


 天崎からすると、派手な役者業界の中で彼女の考えはとても慎ましやかなようだった。普段も目立つ装飾品といえば古風なかんざしを一つ挿しているくらい。


 次第に天崎は、どうしたら彼女が純粋に喜んで受け取ってくれるかを考えるようになっていた。


 装飾品がだめならば、洋服はどうだろう。置物や調度品はどうだろう。高価な洋菓子はどうだろう。


 次から次へと贈られる高価な品物。椿月は困っていたが、彼女以外の周りの人間には感付くものがあった。そしてその積極的なアプローチをおかしいと思われないくらい、今の素の姿の椿月は女性として成熟する手前の瑞々しい魅力を持ち合わせていた。まだ誰の手にも落ちることのない、木に生った赤い果実。


 だが、天崎は次第に気づいていく。自分の感じる不愉快さの正体に。


 椿月があの男と話している時の表情が、どうしようもなく嫌なのだ。


 時折頬を赤らめ、困ったように眉を下げてみせたり。かと思えば可愛らしく唇をとがらせたり。無上のほほえみを浴びせたり。彼女は彼といるとき特に饒舌で。隠そうとしても出てしまう少女の無垢さと、純真なときめき。出ていることにも気づいていない、女の色香と巧みさ。


 その眼差しが自分に向けられない理由に気づいた天崎は、自分の嫉妬に気づかないまま、さも常識知らずをたしなめるかのように、いつものように劇場を訪れた誠一郎を捉まえてこう告げた。


「君。椿月くんは今、新しい役に挑戦しようとしている。悪女の役を演じるのとは訳が違うんだ。君が何度も会いに来ていては、役者として気持ちの切り替えが大変なんだよ。彼女は今、私だけに恋をしなければならないのだから」


 誠一郎は演劇のことなどまったくの門外漢だ。いつもと変わらない表情の変化に乏しい顔の下で、気づいていなかった自分の至らぬ点の指摘に衝撃を受けつつ、最後の一言には少し引っ掛かりを覚えた。


「今、彼女は心から私の恋人になる必要がある。他の男がたびたび会いに来ていては、彼女の役作りを妨げるとは思わないかね?」


 いかにももっともらしい理由。同業者が聞いたら苦笑いしそうな理論だったが、役者業界に無知な誠一郎に付け込むには十分なものだった。


 最後に天崎は、確認するように問いかける。


「別に、彼女の恋人などではないのだろう?」


「……はい」


 誠一郎はそれを認める返事をするしかない。


 まったくもって天崎の言う通りなのだ。


 定期的に会う約束はするし、間接的にだが贈り物もした。勇気を振り絞って手を握ったこともあるし、彼女をつい腕の中に抱きしめてしまったこともある。でも、別に何を契ったわけでもない。


 この劇場の大事な客人である他劇場の看板役者に、見栄えの良くない駆け出しの無名作家が何を言えるだろうか。こうして目の前に立たされているだけで、そのあまりの差に惨めな気持ちがするくらいなのに。


 普段ならこういうことは神矢に相談するのだが、あいにく彼は天崎と入れ替わりで他劇場に行っていて不在。


 だから、誠一郎は自分だけの判断で、椿月に会いに劇場へ行くことをやめた。それも何もかも、彼女のため、彼女の舞台の成功のためと思って。






 何の事前連絡もなく、突然パタリと会いに来なくなった誠一郎のことを、椿月はもどかしく思っていた。以前なら、長く会いに来られないときは「しばらく会いに来られません」などと予め言ってくれていたのに。


 また体調不良で寝込んでいるのではないかと不安に駆られたが、館長から「深沢くんはきっと原稿で忙しいんだろう」と聞かされた。


 実と言うと館長は察するところがあったのだが、天崎の手前、自分の勝手な憶測を吹聴するのははばかられた。自分の娘の胸にある誠一郎への想いには、以前から何となく気づいてはいたのだけれど。


 椿月は誠一郎の家に行ったことがあるし、場所は分かっているのだけれど、連日の稽古で訪ねる時間はとても作れそうにない。前に二人で出かけようと街中で待ち合わせた時は、本当に貴重な半日休みだったのだ。それも結局は、二人のものではなくなってしまったのだが。


 せめて誰かに相談したり不安な気持ちを話したりしたいものなのだが、いつもなんだかんだ言いながらその役を担ってくれていた神矢は、他劇場に出張中。


 だから椿月はここ最近の稽古の合間はもっぱら、ため息をつき、ぼうっとして、窓辺で憂いの表情を浮かべていることが多くなった。それはまさしく恋煩いの典型のような姿だった。


 天崎はそんな椿月を見かねて、彼女をディナーに誘った。


 劇場や館長の手前、断れるわけもなく。椿月はドレスで着飾り、天崎の寄越した迎えの車に乗って高級レストランへ向かった。


 洋館をそのまま店として使っている、洒落た店内。夜だけ営業するため、大人のための瀟洒(しょうしゃ)な趣に特化している。


 敷き詰められた厚みのある赤絨毯。テーブルには炎が揺らめくロウソク。明るすぎない落ち着いた店内。少人数楽団の前に出すぎない演奏が、食事を楽しむ人々の雰囲気を静かに盛り上げる。


 スラックスが映える長い脚で、椿月を座席にエスコートする天崎。


 対する椿月も、タイトな赤いドレスが普段の着物姿を忘れさせるくらいとてもよく似合っている。金のバレッタで髪をまとめ上げてすっきりした首筋が、外套を脱いで露出された両肩にかけて、柔らかい曲線をえがく。悪女役の時とはまた違う美しさがあった。


 周りの人々が思わずちらりと視界にとらえてしまうほど、絵になる二人だった。


 向い合って座った二人は、グラスを目の高さに上げて乾杯した。


 堅苦しいテーブルマナーも天崎は優雅に行う。椿月も一応教養として一通り覚えてはいるので問題はないのだが、肩が凝るような感覚がする。


 天崎は食前酒のシャンパーニュを楽しみ、後にワインに切り替えた。見た目も華やかなつき出しと前菜で、テーブルが彩られていく。


 十分に雰囲気が作られてきたところで、天崎は椿月に言った。


「君はそのままの姿が一番美しい」


 整った唇から白い歯をこぼし、まっすぐに彼女を見据えて。


 見つめる先の椿月の姿をとらえて、天崎は思う。彼女にもっとドレスや宝石を贈りたい。街中を見ていると、彼女はきっとこれが似合うだろうと考えることが多い。自分の白いスーツと並んで映える洋服を、選んでやりたいと思う。


 椿月は「ありがとうございます」とだけ答えた。


 その顔に一瞬にじんだ困ったような表情と、事務的で無感動な言葉の響きから、天崎は自分の言葉が彼女の心の奥にまでは届いていないことが分かる。


 だから、それらしい言葉で彼女の心を開こうとする。


「……椿月くん。君は最近、どこか上の空なことが多いと周囲から聞く。稽古の時は集中できているから構わないとは思うのだが、普段の自己管理も役者の仕事だ。悩んでいることがあるなら、一人で抱え込まずに近くの人間を頼るのも大事だ。違うかね?」


「あ……はい」


 椿月の返事が一瞬遅れたのは、不意に天崎が手を伸ばして、テーブルの上の自分の手に、覆うようにして彼の手を重ねてきたからだ。


 大きくて男らしい手。


 でも、ときめかない。手に触れられている時でさえ、別の人の手のことを考えている。これがまさに恋煩いなのだろうけれど、まだ年若い彼女にはそれがよく分かってはいなかった。


 椿月は重ねられた手に向けていた視線を持ち上げると、気になっていたことを口にする。


「あの、天崎さん……。どうして私をお食事に誘ってくださったんですか?」


 周囲からは一目瞭然な事実も、当事者となると途端に勘が鈍くなるらしい。


 答えを求める澄んだ瞳に、天崎は言った。


「二人の時は忍と呼んでくれないか」


 言葉を求める熱い眼差しに抗えず、椿月はぎこちなくその名をなぞった。


「し……忍、さん」


 きっとこれは、普通の女性にとっては夢のような時間なのだろう。雰囲気のある高級なレストランで、誰もが惹かれる男にエスコートを受け、見つめ合う。


 でも椿月は天崎を目の前に、彼の名前を呼びながら、意識はどうしても違うところに行ってしまっていた。


 誠一郎さん、今頃どうしてるのかな。おうちで一人でご飯を食べてるのかな。具合を悪くしてたりしないかな。







 その後も何度か天崎に食事に誘われたが、椿月は館長に頼んで夜に発声などの個人指導を入れてもらうことで理由を作って断っていた。


 すると今度は、劇場内に併設されている専用食堂でのお茶にしょっちゅう誘われるようになってしまった。


 稽古の都合上、二人の休憩時間が一緒になることがほとんどなので、必然的に頻度も多くなる。


 椿月としては、こう何度も同席していては天崎に変な噂が立って誤解されてしまうかもしれないと懸念していた。周りは天崎の気持ちなどとっくに察していたので、それは椿月の杞憂に過ぎなかったのだが。


 だから最近は、誘いをかわすために部屋の扉をたたく音に気づいていないふりをすることも増えた。


 もともと各部屋の作りがしっかりているので、廊下の物音も聞こえにくい。本読みに集中していて気がつかなかったなどというのはよくあることだった。


 今日も椿月は、短い休憩時間に自分にあてがわれた部屋にこもっていた。


 窓から外をのぞくと、曇天の下、すっかり葉がカサカサになった木や裸になった枝が見える。道を行く厚着の人々の息は白く、打ち付ける乾燥した冷たい風に身を縮こまらせ、否が応でもその歩みを速めさせられている。


 誠一郎は今日も会いに来ない。もうどのくらい顔を見ていないだろう。


 往来を行き交う人の中に、自然とその姿を探してしまう。


 館長はきっと仕事が忙しいんだろうと言っていたけれど、本当にそうなのだろうか。また病気で寝込んでいたりして。そうしたらまた、家事の上手な見知らぬ女の子が看病していたりしないだろうか。


 もしかして、自分のことはもう気にならなくなってしまったのか。会いに来るという優先順位が下がったから姿を見せなくなってしまったのか。それはもちろん、自分たちは交際しているわけでも何でもないのだから、彼を責める資格などないとは分かっているのだけれど。


 何となく息が苦しくて椅子に座ったけれど、その苦しさはまだ変わらない。胸がきゅっと痛い。


 様子を見に行きたいけれど、夜まで稽古が入っていて、誠一郎の家を往復する時間は取れそうにない。


 お手紙でも書こうかしら、とぼんやり考え始めた時だった。


 コンコンと、小さなノックの音がした。


 いつものように、申し訳ないとは思いつつ無視しようと思ったのだが。


 扉越しでくぐもった、まさかの声が聞こえてきた。


「――深沢です」


 椿月は反動で椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がった。


「誠一郎さん……?!」


 だが。勢いよく扉を開いた椿月の前にいたのは天崎で、一歩部屋に踏み込むと、ドアが閉まる音と同時に強く胸に抱きすくめられていた。


 突然のことに思考と動きが止まってしまった椿月に、天崎はその低い声で耳元にささやく。


「君は、あの男を好いているのか?」


 本当ならきっと、とてもときめく場面なのだろう。天崎ほどの男に抱きしめられるなんて。


 でも。


「離してください……。お願いします」


 驚いたのはもちろんだけれど、それ以上に落胆した気持ちがあって。椿月は先ほどまでの胸の高鳴りが醒めていくのを感じていた。


「こんなところを見られたら、皆さんびっくりしてしまいますから……」


 表現を選んで、彼の行動を遠回しにたしなめる。


 他の男性に抱きしめられている時にさえ、考えていることは一つだけ。


 椿月は一番会いたい人に会えない心の切なさが決壊したのが分かった。


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