落ち鱚釣り

ninjin

落ち鱚釣り

 スピニングリールのベールを外し、ラインを右の人差し指に掛ける。

 振りかぶって投げ出した竿の先から、赤い天秤の仕掛けが『ビュッ』と空気を切り裂いて跳びだし、それは緩やかな弧を描きながら沖を目指す。

 手元のリールから『シュルシュル』と音を立てながらラインが伸びていき、そして『ポチャン』と仕掛けが着水して、そこから仕掛けが海底に沈んでいくまで、『パラパラ、パラパラ』と、スプールから更にラインが放出されると、やがて、動きを止めた。

 ベールを元に戻し、一度竿を引き、弛んだ分のラインを巻き取ると、僕は竿立てに竿を置き、ポケットからタバコとライターを取り出した。

 煙草に火を点け、竿先から伸びたラインの先を確認し、浜の砂利に腰を下ろして、今度は竿先とそのずっと向こうの蒼く広がる空の、どちらを見るでもなく、ただぼんやりと眺めるように目を細める。

 久しぶりに帰省した田舎での休日。

 昨夜は少々飲み過ぎて、予定より一時間遅く浜に出てきたのは午前八時半だった。

 夏の終わりとはいえ、今日も暑くなりそうだ。

 海面を叩いて、穏やかに吹く風は、今はまだ涼しささえ感じるのだが、このままあと一時間もすると、恐らくは『夏』そのものの陽射しが照り付け、熱風に変わるのだろう。

 おや、今、竿先がコツコツッと、震えたか?

 いや、ぼんやりしていたから、気のせいかもしれない。

 竿先に意識を集中してみるが、それでもまだ竿を手に取る訳ではない。

 暫し見つめる竿先は、波の寄せ、引きに合わせて、ゆっくりとそして規則的に小さく曲がり、それから元に戻る。

 やはり気のせいか・・・。

 煙草の灰を落とそうと、竿先から目を逸らす瞬間、右目の視界のほんの端っこで、竿先がクククッと海に向かって沈み込むのを捉えた。

 キタッ。

 それでも僕は慌てることなく、ゆっくりと竿に手を伸ばし、今灰を落とした煙草を唇の左端に手放しで咥え、左手で竿のグリップを掴み、右手をリールのハンドルノブに添える。

 竿を持ち上げた時に弛んだ分のラインを二巻きほど回収し、それから確かめるように小さく竿を引いてみた。

 コツッ。

 瞬間、今度は一気に大きく竿を持ち上げると、同時にゴツンッとグリップを握った左手に衝撃が伝わり、竿先は深く折れ曲がった。

 乗ったぁっ。

 僕の右手はスイッチの入った機械のように回転を始め、ハンドルがグルグルと回る。

僕は竿を引き、巻き取り、そしてまた竿を引いては巻き取った。

 竿先が右に左に持って行かれ、回転するハンドルにも重みを感じるのだが、不意にスッと抜けたようにハンドルが軽くなる。

 あれ?バレたか?

 もっと慎重に巻き上げれば良かったのか・・・。後悔にも似たモヤッとした余り心地のよくない何かを、みぞおちの辺りに感じながら、それでも手を止めることなくリールのハンドルを回していく。

 そして、目視できるほんの数メートル先まで仕掛けが上がって来たところで、巻き上げる回転を少し緩めてみた。

 あっ

 再度ククッと竿先に感覚があり、仕掛けの先で身を捩じらせる銀色が、キラッ、キラッと、その鱗を輝かせた。

 僕がゆっくりと最後の巻き上げをして、海面から引き抜かれた仕掛けの先には、美しい流線型の白銀の魚が、威勢よく尾びれを振り乱していた。


 二十センチを超えるくらいの中々良いサイズの白ギスを、海水のたっぷり入ったバケツに入れ、取り敢えずそれを放置し、再び仕掛け針に餌を付け直して、竿を振った。

 そして、先ほどと同じようにラインの弛みを回収して、竿を立て掛ける。竿先から伸びるラインが海面に辿り着く位置を目で追って確認してから、振り返り、僕はゆっくりとバケツの中を覗き込んだ。

 キスは、その白く優美な流線型の身体をくねらせながら、青いバケツの中を円を描くように泳ぎ回っている。

 元気だな。

 サイズも悪くない。

 それに、何より、美しい。


 暫くの間、バケツを覗き込んだ後、僕はジーンズの尻のポケットから携帯電話を取り出して、その画面を確認する。

 着信も、メールも無し・・・か。

 そりゃそうだよな・・・。


 何を思うでもなく、ただぼんやりと携帯電話の画面を眺めた後、それを元のポケットに戻して、立て掛けた竿先に目を遣ると、再び竿先が震えた。



 その後、小一時間ほどで、同じように落ちギスを五匹釣り上げたが、最初の一匹より大きなサイズを釣り上げることは出来なかった。

 それでも一時間少々でキス六匹の釣果は、決して悪くはない。

 さて、そろそろ仕掛けを変えて、今日の本命を狙っていくか・・・。

 僕は六匹目のキスを針から外してバケツに入れると、その仕掛けを全て取り外し、今迄付けていた三段針から、サイズアップした一本針に付け替えた。

 餌を生き餌から、長さがあり、千切れることの無い人工ワームに切り替えて、今ほどよりも更に遠くに投げ込む為に、おもりにも吊鐘つりがねおもりを一つプラスした。

 準備が整うと、僕は先ほどの倍の力を込めて、海に向かって竿を振り出す。



 どれくらい時間が経っただろうか。

 ジリジリと照りつける太陽の陽射しは、九月とは思えないほどの熱量で、僕の身体を焼き尽くそうとしている。

 恐らく三十分、いやそれより遥かに長い時間が過ぎていると思われる。そういえば、時間を計っていなかった。

 それでも僕は砂利の上にジッと膝を抱えて座り込んだまま、竿先とその先に在る青い空を眺め、そして時々、携帯電話を取り出してみた。

 勿論携帯電話には、最新ニュースのお知らせと、企業アピールのメールしか入って来ない。

 竿先には何度か反応はあった。

 それでも僕は、ラインが弛めば、その弛んだ分の巻き取りはするものの、それ以外は完全に放ったらかしで、兎に角待っていた。竿が持って行かれるくらいの大きな当りを・・・。

 狙いはヒラメ、あわよくばコチなのだ。

 小さなサイズの獲物では、まず呑み込めないくらいのハリスにサイズアップしている以上、細かい当りは気にしても仕方がないのだ。

 ただひたすら待つのみ・・・。


 そして更に時間だけが過ぎていく・・・。

 流石に投げ直した方が良いかも知れないと思い、起ち上がり、竿に手を伸ばそうとした、その時、

 竿先が、これは本当に折れてしまうんじゃないかというくらい、一気に大きくしなり、それを目にした僕の胸と眉間を繋ぐ《気》の流れが、見る見るうちに高潮していき、鼻の付け根辺りは熱を帯び、鼻血が出そうなくらいの興奮が襲ってくる。

 キス釣りとは違って、今度は右手で竿のグリップより下の付け根の部分を腹に固定するようにして持ち、左手はグリップのずっと先に指をしっかりと巻き付けるように握り締めると、僕は一息にグイッと、竿を持ち上げた。

 重いっ。

 緊張と興奮、そして、巡ってきたチャンスに、失敗は許されない、でも失敗してしまうんじゃないかという不安感が入り乱れる。


   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


 もう目の前だった。

 あとは慎重に、相手に合わせて竿先をコントロールし、なだめるように、優しく釣り上げるだけだった。

 僕が強引過ぎたのか、それとも気を抜いてしまったのか、はたまた針の掛かりが甘かったことに気付かなかったのか。

 僕の真剣さが足りなかったのかもしれないし、逆に想いが強すぎて、タイミングを読み違えてしまったのかもしれない・・・。

 いや、それよりも、僕の釣り道具と僕の釣りの技術では、手に余るほどの大物だったってことなのか・・・。


 僕は、一度は海面にその姿を現し、そしてプツリと糸が切れ、何事も無かったかのように悠々と泳ぎ去る大きな魚の黒い影を見送りながら、その場に立ち尽くすだけだった。


   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


 ああ、そういうことか。

 あの日も、僕は、君の後ろ姿を、立ち尽くしたまま見送ることしか出来なかったっけ。


 昼間の釣りで起こった出来事を思い出しながら、僕は携帯電話を取り出し、その画面をジッと見詰め、小さく「さよなら」と呟いて、彼女の携帯電話番号を削除した。




   おしまい

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落ち鱚釣り ninjin @airumika

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