第90話 魔神の戦い その九

「オラァァァッ!!」


 裂帛の気合いが大気を揺らす。悍ましき怪物、哀れなメイドの成れの果てを前に、最後の兵士が剣を振るう。


「っ……!」


 ……そして残された者がいる。状況打開の鍵として、歴戦の兵士たちが命を賭して守った姉弟がいる。


「なんで……!!」


 すぐ近く、視界の隅で繰り広げられる死闘からなんとか意識を逸らしながら、ナトラは内心で叫んでいた。

 なんで自分がこんな目に、こんな大役を任されているのだと。こんな地獄のような事件に巻き込まれた挙句、屋敷にいる人間全ての命を背負わされているなど、一体どんな悪夢だと。

 ナトラは平凡な少女だ。魔術の才にこそ優れているが、生まれも育ちも一般的な町娘の域を出ない。職人の娘としての気の強さはあるが、人死にが出るような荒事とは程遠い人生を送ってきた。

 それが今はどうだ。生死を賭けた死の遊戯に参加させられ、顔見知りの兵士たちが彼女を守るためだけに死んでいった。最後に残った者も、今もすぐ傍で戦っている。

 足元まで這い寄る死の気配が恐ろしい。気の良い兵士たちが、自分のために死んでいったという事実に泣きそうだ。屋敷に務める者たち、不慣れな自分たちになにかと世話を焼いてくれたハインリヒにアズール、なにより主にして大貴族であるリーゼロッテの命が、自分の双肩に掛かっていることに吐き気がする。

 いっそのこと、全てを投げ出してしまいたい。それができればどれだけ楽か。


「ね、姉ちゃん! 急いで、急がなきゃ……!」


──だができない。自暴自棄は許されない。唯一にして最愛の肉親の蒼白な表情が、折れそうな心をどうにか繋ぎとめていた。


「大丈夫っ、大丈夫だから!」


 化け物のいる方向を、何度も確認するリック。急かす声は震え、服を掴む腕からは血の気が引いている。

 ナトラはそれを情けないとは思わない。前世とやらの記憶が残っていようが、リックはまだ子供だ。姉であり、唯一の家族である彼女からすれば、幼い弟は明確な保護対象だった。

 だからこそ、自分が先に折れるわけにはいかない。どんなに絶望的な状況だろうと、リックの命を守るためならば頑張れる。心を奮い立たせ、どうにか踏ん張ってみせる。


「っ……」


 魔術学園での日々を、かつての講義を思い出す。リックの発明を手伝うために使っていた加工の魔術、海猫亭での力仕事の際に常用していた強化の魔術と違い、学園を去ってからは一度も使うことのなかった炎弾の魔術。

 視認性を高めるために威力を犠牲にし、代わりにより遠くで、より目立つように設計されたこの連絡用の魔術は、通常の攻撃魔術と違って歪な構成をしている。

 だからこそ、発動難易度も相応に高い。ナトラは自主退学こそしたものの、帝国の魔術学園に籍を置いていた才媛だ。そんな彼女の才をもってしても、連絡用の炎弾は手間が掛かる。

 魔術を扱うという自覚によって、なんとか心を落ち着かせる。その身に宿る魔力に意識を集中し、かつて学んだ手順に従って動かしていく。

 焦らず、慎重に。失敗している余裕はない。できる限り正確に。その上で最速を意識する。


「……撃ちます!! 光と音に注意してください!」

「オッチャン!」

「了解!」


 最後に注意喚起。そして発動。突き出した手の先で形成された炎の玉が、猛スピードで玄関扉に目掛けて飛んでいく。


「っ……!?」

「うわっ!?」


 轟音とともに、玄関を駆け抜ける閃光。威力を犠牲にしているために衝撃こそ控えめで、精々が屋敷の壁よりも脆い木製の扉を吹き飛ばした程度だろう。だがその代わりに、切り捨てた威力の分だけ向上させられている音と光が三人を襲う。


「ガッ……!?」


──そんな中、それをものともせぬ異形がいた。頭の代わりに蠢く肉塊を載せ、瞳も耳もあるか不明。故に怯むことなく動いた化け物がいた。


「オッチャン!?」


 最初にそれに気付いたのは、すぐ近くの死闘に注意を向けていたリック。轟音から一拍遅れて響いた苦悶の声に、反射的に振り向きそれを見た。血を吹き出しながら、化け物に押し倒される男の姿を見た。


「そんな!?」


 遅れてナトラも悲鳴を上げる。まさか自分の魔術のせいで、大恩ある護衛の兵士が窮地に陥るとは思っていなかったのだ。

 足を引っ張らないよう、最速で魔術を発した。戦闘の邪魔にならないよう、発動の直前に声掛けも行った。

 だが駄目だった。外法によって理から外れた悍ましき怪物は、小娘の献身など無意味なものと踏み躙る。決死の覚悟で足掻く男を押し倒し、その命を刈り取ろうとしていた。

 

「……っ、構うな! 早く外に行け! ギィッ、俺たちの足掻きを無駄にしないでくれ……!!」


 それでもなお、男は最後まで兵士だった。先に散っていった者たちと同様に、最後まで任務達成を第一として任務に殉じたのだ。


「行け! 行くんだ!!」

「っ、姉ちゃん!!」


 そして男の意思は、最後に残った幼い少年に引き継がれる。燦然と煌めく覚悟を宿した男たちの背中は、ただ姉とともに逃げていただけのリックの心に火をつけた。


「もうすぐ、もうすぐなんだ! だから今は……!!」


 呆然と立ち竦んでいたナトラの手を引き、リックは全力で駆け出した。

 幼い少年が、偉大な兵士たちの背中を追って男の道を一歩踏み出した──否である。元々、リックの心の奥底には確かな勇気が眠っていた。ただ頼りになる兵士たちが守っていたから発揮されなかっただけで、その根底にはナトラと同じく『たった一人の家族を守る』という想いがあった。

 ナトラが震えるリックの顔を見て、自らの心を奮い立たせて魔術を放ったように。リックもまた呆然とした姉の様子を見て、そして最後の盾として奮闘していた男が倒れたことで、姉を守るために一歩踏み出したのだ。

 この悪趣味なゲームの勝利条件。ナトラを屋敷の外に出すこと。そしてゲームセットはもう目前。吹き飛んだ扉からナトラが外に出れば、その時点でクリアなのだ。


「俺も頑張るから! 姉ちゃんを守るから!!」


 魔神七号という最凶最悪の敵。恐るべき怪物の魔の手から最愛の姉を逃がすために、リックは姉の手を引き走った。


「リック……!」


 そして守るべき弟の健気な姿に、ナトラもようやく正気に戻った。

 動揺していた時間は短い。数秒もないだろう。だがこの絶対絶命の状況においては、そのたった数秒が生死を分けかねない。屋敷中の人間の運命を捻じ曲げかねない。

 リックの勇気は、その千金にも勝る数秒を守りきった。倒れる兵士の叫びに即座に反応したことで、時間を無駄にすることなく動くことができた。


「ハッ、ハッ……ッ」

「あと少し……!!」


 もうすぐだ。もうすぐだ。距離にしてあと数歩。あと数歩を進めば、屋敷の外に出ることができる。


「これでっ、クリ──」


 ……だが、二人は忘れていた。解き放たれた怪物はことを。そして勘違いしていた。怪物が一体しか追ってこなかったのは、片割れが倒されたからではないことを。


「逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない!!」

「え?」


 破壊された玄関の上から降ってきた人頭の蜘蛛。恐らく同類であるが故に、罠を作動させることなく二階の窓から追ってきたのだろう。

 あと一歩、いやあと半歩で外に出られるというその瞬間。憎悪の表情を浮かべる人頭蜘蛛の細く鋭い脚が、ナトラの心臓を穿たんと迫る。


「──姉ちゃん!!」


──衝撃が身体に走り、ナトラは地面を転がった。そして目撃した。自分の身体を突き飛ばしたであろう体勢のまま、頭を貫かれたリックの姿を。

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