第63話 超大国の幻影
ハインリヒの諌言に従い、ルトは氷漬けとなっている姉弟を解放。
その後は使用人を呼び付け、色々と振り回したナトラと、ついでリックに最大限の世話を焼くように命じ。
諸々の雑務を移動と同時に済ませ、ルトはリーゼロッテのもとに到着した。
「──邪魔するぞ」
「あら旦那様。もうお帰りになっていたのですね」
「ああ。そういうキミはまだ仕事か? この時間まで執務室にいるなんて珍しいじゃないか」
「報告待ちついでに、政務の時間を少しだけ延長していたのです。魔神格である旦那様が動いている以上、そこまで遅くなることはないと予想していましたので」
「……勤勉だな。頭が下がる」
諜報員の処理という重要案件。その報告を聞くためだけに、わざわざ他の仕事に手を出し時間を潰していたという。
怠惰を信条とするルトは対極すぎる働きぶりに、呆れ半分の賞賛が零れる。
「そういう旦那様こそ。直々に領内の掃除を行っていただき、大変感謝しております。見ての通り荒事には向かぬ領主ですので、旦那様の存在はとても頼もしいですわ」
「ただの置物にならないよう動いただけだ。大したことはしてないさ」
「ご謙遜を……と言いたいところですが、旦那様にとっては事実なのでしょうね。祝福された神の戦士ですら、脅威たりえない。本当に頼もしいことです」
リーゼロッテがそう言って淑やかに笑う。美しい笑みだ。凛とした気品に溢れ、されど柔く儚い。
相反するはずの二つの『美』。それらが見事に調和し、リーゼロッテという少女の中に溶け合っている。
天性のものではあるまい。それだけで完成する領域ではない。この振る舞いは天性の美しさに加えて、血の滲むような努力の末に獲得した彼女の武器なのだ。
「……」
──リーゼロッテ様を見習うべきですな。
「旦那様? どうかいたしましたか?」
一瞬フラッシュバックした、ハインリヒの諌言。
どうやらリーゼロッテの完璧な微笑みに釣られてしまったようだと、ルトは苦笑とともに肩を震わせる。
「いや、少しキミに見惚れてた。とても綺麗に笑うんだな」
「まあっ……。旦那様からそのように言っていただけるなんて。私、はしたなくも顔が熱くなってしまいました」
「この程度の口説き文句、キミなら聞き慣れているだろう?」
「誰の言葉かが重要なのです。それが他愛のない一言でも、愛しき人の口から紡がれたものならば、それだけで乙女は舞い上がってしまうのですよ?」
「そう言ってくれるのなら、柄にもない台詞を吐いた甲斐がある」
クスクスと小さく声を漏らすリーゼロッテ。その姿すらも美しい。
ハインリヒが手本としろと言うのも頷ける。反発を最低限に抑えようという意図が、一挙一動に込められているのだから。
荒々しい場面ではルトの在り方が好まれるだろうが、普段の日常ではリーゼロッテの在り方に軍配が上がる。
そして荒事と日常、どちらの場面が多いかと問われれば圧倒的に後者。
先々のことを考えれば、やはりハインリヒの諌言には従うべきなのだろう。
「──さて、旦那様。個人的な感情を述べるのならば、この先もずっと睦言を交わしていたいのですけれど……。残念なことに領主としての立場が、それを許してはくれないのです。本題の方に入ってもよろしいでしょうか?」
「そうだな」
──だがそれは後回し。今はより優先するべきことがある。
社交界のような甘やかな空気が、一瞬でヒヤリとしたものに切り替わる。
今までの会話はあくまで前座。入室に伴った挨拶の延長だ。本題はこれから。必要なのはこれからだ。
互いにまとう雰囲気も変わる。リーゼロッテは穏やかな淑女から領主のそれに。ルトは彼女の婚約者から大公のそれに。
「まず結論から。ナトラにキツい役目を押し付けたが、嫌がらせは成功。名分を確保し、暗殺は強行捜査に。トリストン商会関係者は全員拘束できたと思われる」
「それは素晴らしいですわ。懸念事項であった神兵はどうでしたか?」
「街にいた奴は全員狩った。数は八だ」
「……なるほど」
告げられた神兵の数に、リーゼロッテの眉が微かに動く。
予想以上の数に驚いた。──否だ。驚きの感情があることは否定しないが、それ以上に彼女の放つ気配が語っていた。
「不愉快ですね。ええ、全くもって不愉快です」
そこにあるのは苛立ちだ。淑女にあるまじき振る舞いだとしても、領主として、帝国の最も貴き血の流れる者としては不快感を覚えずにはいられない。
「戦術級術士に匹敵する戦力を、無許可かつ秘密裏に他国に送り込む。それも大量に。宣戦布告と同義の暴挙ですわ」
「神兵という証明など不可能だからな。足がつかないと確信しているんだろうよ」
彼らの表向きの立場は、トリストン商会が属するゼオン王国。法国に繋がるような証拠など残してはいないだろう。
神兵の証明である神威に関しても、魔神格にしか認識できない以上は証拠たりえない。
大陸に魔神格は三人しか存在せず、その内の二人が帝国に属しているのだ。声を上げたところで、言い掛かりと法国に切り捨てられるのがオチだ。
「口惜しいが、法国への追求はまず不可能だ。どう頑張っても徒労だろうよ」
「……やはりそうなりますか」
「ああ。気持ちを切り替えて、ゼオン王国に焦点を当てた方が懸命だろう。外交での最高の札も確保済みだ」
「最高の札というのは?」
「俺の嫌がらせに引っかかった一人の神兵さ。襲撃の体勢で凍結させた。俺が対象という事実を添えれば、後は煮るなり焼くなりさ。いい土産だろ?」
「まあっ。それはとても素敵な贈り物ですね」
不愉快そうな表情から一転。リーゼロッテの顔に大輪の花の如き笑みが浮かぶ。
可憐としか表現できない笑顔。だがその裏では、一体どれだけの計算が弾かれているのだろうか。
「陛下に手紙を書きましょう。旦那様が素敵な贈り物をくださったと。少々はしたないですが、愛されていると沢山自慢してしまいましょうか」
「その辺は程々にな」
父に送る手紙としては、随分とドス黒い内容になりそうだ。外交上の火種を惚気と表現するのも、中々できない皮肉だろう。
「……ふむふむ。不愉快な事実こそありますが、収穫という意味では大変満足いく結果のようですわね」
「ああ。実入りとしてはかなりのもんだろうさ」
不穏分子の大方を排除。その上で外交的に効果のあるネタを手に入れることができた。
リーゼロッテの言葉通り、大成功と言える結果だろう。……あくまで額面上の評価であるが。
「──問題なのは、法国の目的がいまいち判別つきかねる点ですわね」
「そうだ。あまりにも不穏だ。時期、数、質。妙な点を挙げていけばキリがない」
ルトが帝国に所属し、サンデリカに君臨することになってから、そう長い時は経っていない。
そうであるにも拘わらず、法国から送り込まれた神兵という大戦力。それも複数人かつ、足のつかない身分が用意された状態。
直接領土が接しているわけでもなく、複数の衛星国が間に広がる二国。その距離的な制約を飛び越える、恐ろしいほどに迅速で周到な一手。
「……私も帝国の姫ではありましたが、諜報関係にはそこまで明るくありません。それでもやはり……」
「ランドバルド大佐の分析通り、奴らが何らかの目的のもと動いている可能性は高い。だがそれは何だ? 使徒の力があるにしても、これは流石に過剰な動員だろう。法国の諜報事情など微塵も知らない俺でも分かるぞ」
ルトの出身はランド王国。しがない小国であり、超大国である法国が気にかけるほどの国ではない。
更に地理の関係もある。ランド王国と法国の間には、帝国が存在しているのだ。そういう意味でも、ランド王国は法国との関わりが薄い。
故にルトは知らないのだ。法国がどれほどの諜報員を他国に放っているのかなど、その手の知識が欠けている。
それでも違和感を覚えずにはいられない。使徒という魔神格が関わっている時点で、常識など当てにならないとしても。気味の悪い薄ら寒さが止まらない。
「情報が出揃っていないのは重々承知だ。これから俺たちが引き出すんだ。それは分かっている」
──その上でなおと、ルトは唱える。未だに全貌が見えぬ超大国の幻影を睨む。
「コイツらの目的は何だ。何をする気だ、ロマス法国」
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