第7話 無能王子と将たる皇子 その三

 英雄と呼ばれる人種。それがクラウスとランバートが抱いた、ルトに対する印象である。

 なにせ纏う雰囲気からして明らかに別格な、それこそ今回の戦争に参加している帝国軍のどの高官たちよりも格上なのだ。

 一見すると蒼みがかった黒髪と、幼さを残すも整った顔立ちぐらいしか特徴のない少年だが、その認識を一瞬で塗りつぶす『格』を纏っている。

 それこそ、帝国において広大な領地を治める大貴族の当主たちに匹敵するレベルのものを。

 これを承知の上で【無能】という評価を下したのなら、関わった外務省と諜報部の人間全てを移動させると本気でクラウスは考えていた。


「……これなら殿下の勘が騒ぐのも納得でございます。恐ろしい程の傑物ですね」

「ああ。矛を交えてなくとも分かる。率いる兵力が違えば、我が軍でも苦戦したかもしれんな」


 それは一切の偽りのないクラウスの本音である。英雄と呼ばれる人種は、それだけ恐ろしい力を秘めているからだ。

 まず、軍隊というものは指揮する者によって大きく化ける。最新装備に身を包んだ精鋭部隊であっても無能が指揮すれば弱兵と化し、有能な者が指揮すれば実力以上の力を発揮する。

 率いる者の質というのは、軍隊にとってそれだけ重要な要素なのだ。では、指揮官として英雄と呼ばれる人種はどれ程なのか。そんなの悩むまでもなく最上級の存在だ。

 英雄はいるだけで軍隊を強化する。英雄の溢れ出るカリスマに当てられ、ただの兵士たちが精強な兵士へと様変わりするからだ。

 そして恐ろしいことにその熱狂は伝播する。精強となった兵士たちの雄叫びは次第に広がり、恐怖は高揚へと変わる。

 そうして段々と熱が伝わり、全軍が精強な兵士へとやがて変化するのだ。そうなればもう止まらない。

 装備の質とか、兵士の数など関係ない。英雄のカリスマに当てられた軍は、狂騒によって常に実力以上の力を発揮するのである。

 何らかの手段でもって冷水を浴びせ正気に戻さない限り、英雄の軍というのは極めて厄介なのである。


「さて。問題はあの王子殿が、どういった英雄なのかだな。力に優れていた場合、率いる兵力的にどうとでもなる。ただ問題なのは……」

「知略に優れた英雄であった場合ですね。そうした者はこちらの予想を軽々と飛び越える発想をしてきます。勿論、戦いとなればこの兵力差では知略など活かせる訳はないですが。残念ながらこれから行うのは交渉事。そうなれば実に厄介です」


 英雄、即ち常人を凌駕する才を秘めた者は、幾つかの種類に分類される。

 大抵がその身に宿る才に連なる分類となるが、今の状況で厄介なのはルトが知略に優れる英雄、即ち名軍師と呼ばれる類の人種だった場合だ。

 交渉の本質は『如何に自陣営に有利な条件を相手に呑ませるか』だ。

 その為には純粋な話し合いは勿論、話術を使った詐欺まがいのモノも黙認される。

 偽りを述べるのは論外であるが、逆に言えば言質を与えずに相手を勘違いさせる形に誘導してしまえば、一切の問題は無いのである。

 特に今回のような国家間の交渉においては、国家の信用も関わってくるので一度結ばれしまった内容は容易く覆すことはできないのだ。

 そんな場において、常人の予想を飛び越える発想や、通常とは異なる視点を持っている知略型の英雄は極めて強い。

 下手をすれば独壇場となり、気付かぬうちに帝国に不利な条約を結ばされていてもおかしくないのだ。

 状況的に主導権があるのは帝国側だが、それでも油断は一切できない。


「……とは言え、やらねばならぬ。往くぞ」

「ハッ」


 警戒を緩めることなく、クラウスとランバートは歩き始める。

 それに合わせるかのように、ランド王国側からはルトと腹心の部下であるハインリヒが前に出てきた。



 そうして互いに率いる者を背負う形で、両陣営の代表者は対峙した。


「我が名はクラウス・ユリウス・フロイセル! 此度のランド王国侵攻軍の総指揮官を務める者だ。そなたがこの部隊の代表者、ルト第四王子とお見受けするが、相違ないか?」

「相違なく。……それにしても、まさか我が国程度を相手に、【轟龍】と名高き帝国の第二皇子殿が出張るとは。随分と我が国を高く買って頂いているようだ」

「ふっ。なに、たまたま手が空いていたのがオレなだけよ。……とは言え、そなたのような傑物が居たとは知らなんだ。結果的には、指揮官の任がオレに割り振られたのは僥倖であったな」

「これはこれは。クラウス殿下は随分と人を喜ばすのがお上手らしい。まさか私のような【無能王子】にそのようなお言葉を掛けて頂けるとは思わなんだ」


 会話の滑り出しは実に和やかなものであった。

 クラウスは素直な賞賛を。ルトは皮肉と自虐の混じった言葉を返している辺り、お互いの性格の差が現れてはいるが、それでも互いに笑みを浮かべる程度には緩い。

 交戦中の陣営の代表者が交わすものとしては異様とも思える程だ。

 だが、これらはあくまで前置き。外交儀礼に過ぎないただの挨拶である。

 なにせここは一時的に非交戦地帯となっているものの、れっきとした戦場だ。

 数多の殺傷手段の代わりに言葉と文字が採用されているだけで、その本質は常に争いであるのだから。

 故に互いに気を抜かない。クラウスは勿論、弱者の立場にいる筈のルトとて必要とあらばその喉元に剣を、いやペンを突き立ててくるであろうから。


「さて、前置きはここまでにして本題に入ろうか。貴国から停戦の申し出が為されたと聞いたが、これは真か?」

「然り。我々はフロイセル帝国に対して停戦交渉を申し込む」

「……ほう? 念の為確認するが、『降伏』ではなく『停戦』の交渉で良いのか?」

「ああ。何度でも言おう。我々が貴国に申し込むのは停戦交渉だ」

「……そうか」


 一切の躊躇も無く断言するルトに対して、クラウスは内心で警戒レベルを上げた。

 前情報の【無能】という評価は既に頭の中から破棄されている。

 ルトは明らかに英雄と呼ばれる人種だ。そんな傑物が自国が置かれた状況を正しく認識していない訳がないのだ。

 それでも尚『停戦交渉』を強調するということは、ルトの中には帝国の進軍を食い止めるだけの手札があるということに他ならない。


「では、具体的に何をもって我が軍に停戦を申し込む? 貴国の置かれた状況でも尚、我が軍が侵攻を止めざるをえない代物など、そうそうありはしない筈だが?」

「それをこの場で求めるのは早計では? ここはあくまで貴国が我々の申し出を受けるか否かを伝える場の筈だ。交渉の席に着くかどうかも不明な相手に、わざわざこちらの手札を明かすものか」

「ぬ……」


 にべもなくルトに質問を切り捨てられたことで、クラウスは僅かに眉を顰める。

 確かにルトの言う通り、この場で行われているのは正式には『停戦交渉』ではなく、『交渉の席』に着くか否かの返答である。

 故に先走り過ぎだろうというルトの指摘は間違っていない。

 間違ってはいないが、それでも問題はある。


「なるほど。そなたの言葉も尤もだ。……だが、現状において我が軍が交渉の席に着く道理は一切ない。それを覆すには相応の理由が必要だ。それが提示されない限り、オレとしても判断しようがない訳だが」


 何度も言うが、既に帝国はランド王国の喉元に剣を突き付けている状態なのだ。

 それを覆そうとしているのはルトたちであり、剣を引かせる為に説得の材料を提示するのはルトたちの義務である。

 なにせ帝国側からすれば、そのまま喉元を切り裂いても一向に構わないのだから。


「慎重なのは結構だが、それは時と場合によるぞルト王子。立場の違いというものを考慮するべきだな」

「……できれば武力行使の許されない場に早々に移りたかったのだが。流石にそう上手くはいかないか」


 仕方ないと肩を竦めるルトの様子に、クラウスは内心で呆れていた。

 第四王子が無能という情報は誤りであったが、尊大な性格という情報はどうやら正しかったようだ。

 まさか臆面もなく確信犯であったと自白するとは、なんともイイ性格をしている。

 そんなクラウスの内心を他所に、ルトは恐ろしく自然にその言葉を紡いでみせた。


「ではお望み通り、停戦交渉の際に我々が提示するものをお教えしよう。貴国が停戦に応じて頂けるのなら──私、ルト・ランドと配下の兵士五十三名は即座に降伏し、無抵抗で捕虜となろう」


 それはあまりにも突拍子もない、この場にいる誰もが予想することすらできない言葉であった。


「「「……は?」」」


 一瞬の静寂の後、ルトを除くこの場にいた全員が間抜けな声を上げた。……何故かルトの部下である筈の男もまた唖然としていたが、直ぐにその疑問をクラウスは脇に除けた。

 なにせ、その程度の疑問が些事に思える程に、クラウスの思考は混乱していたのだがら。


「……これは一体どういう冗談だ? かなり簡略されているとはいえ、ここは外交の場だ。その手の冗談はあまり褒められたものではないぞ、ルト王子」


 なんとかクラウスが絞り出したのは、そんな忠告の言葉。

 ランバート曰く、目の前の王子は外交の場どころか社交界の類すら滅多に出席しなかったという。

 故にこうした場での会話の経験は少なく、結果として今のような問題のある冗談を口にしてしまったのではないかと。クラウスはそう考えたのである。

 なにせ目の前の王子は英雄の風格を備えた傑物。そんな人物が、このような愚かなことを宣うなどクラウスには思えない、いや思いたくは無かったのだ。


「ハッ。また随分とおかしなことを。外交の場でこんな笑えない冗談を言うとでも?」


 しかし、ルトから返ってきた苦笑混じりの言葉は、クラウスの希望を見事に打ち砕いてしまう。

 ルトの言葉が本気であると分かってしまった以上、クラウスは侵攻軍の総指揮官として、なによりフロイセル帝国の第二皇子として決して見過ごすことはできなくなった。


「……ならばオレを馬鹿にしているのか? 貴様らの身柄にそれほどの価値があると申すか!! 貴様らの王は余程国を滅ぼされたいと見える!」


 裂帛の怒気を込めてクラウスが吼える。

 僅かに残った理性が交渉旗の前で武器を抜くことを押しとどめたが、そうでなければこの場でルトのことを鏖殺しかねない程に腸が煮えくり返っていた。

 実際、その怒声は大気を揺るがし、精強たるルトの忠臣たちも、クラウスの背後に布陣する帝国の兵士たちすら戦かしてみせた程だ。

 ……だが一人だけ、怒り狂う龍と真正面から対峙している筈の【無能】のルトだけは、一切の動揺を浮かべることなく、むしろより飄々とした態度を浮かべていた。


「ふむ? 何故そこで陛下が、我が父たる王が出てくるのだ?」

「貴様らのところの愚王がこのようなふざけた交渉を仕掛けてきたからに決まっておろうが!!!」

「……ああ。そうか。普通に考えればそうなるか」


 クラウスの怒声に対して、実にわざとらしくルトは手を叩いてみせる。その行為が余計にクラウスの神経を逆撫でするが、


「どうやらクラウス殿下は勘違いしているらしい。訂正しておくが、この停戦交渉は私の独断で行ったものだ。王命など下っていない。事実として、私はこの場にいる者たちを指して『我々』とは言っても、『我が国』や『我が軍』などとは一度も申していない」


 続いた言葉によって、クラウスは一気に冷静になった。

 と言っても、怒りが収まった訳ではない。苛立ちが臨界点を超えて一周まわって思考が冷えただけである。

 事実として、クラウスから吐き出される言葉は淡々としていた。

 先程までのように声を荒らげるようなことはない。だが、その言葉に背筋が凍えるかのような冷たさが宿っている。


「……つまり貴様は、王命も無く独断で、ただの庶子の王子の分際で帝国に交渉を求めたと。それも降伏ではなく停戦。本来なら国家間で結ばれるべき条約を、ただの個人でしかない貴様は求めた。帝国に個人と停戦条約を結べと。そう言いたいのだな?」

「正しく」

「……なるほど。確かに貴様は傑物だ。ここまでの大物は──呆れ果てるような愚者は初めてだ」


 クラウスは再び認識を改めた。目の前のルトは間違いなく英雄だろう。その評価は変わらない。

 纏う雰囲気も図太い性格も、決して常人の枠には収まらないが故に。

 目の前の少年から発せられる底知れない自信は、確かに常人を狂わしてみせるだろうという確信があった。

 ルトの英雄としての性質は分かった。ルトは扇動者だ。狂気に染まった聖職者の如く、己の思想を伝染病のように拡げて民衆を染めていく、英雄でありながら厄災の運び手となる存在だ。

 こうした者は実に厄介だ。なにせ己の思想や信仰に絶対の自信を置いている。往々にして『それ』は間違っているにも関わらず、一切間違いを認めずに周囲を巻き込み破滅する。

 なるほど。どうやら帝国の外務省も諜報部も全く間違っていなかったらしい。

 ルト・ランドは確かに恐るべき英雄であるが、救いようのない【無能】の類であることが判明してしまった。

 そしてこうなってしまった以上、クラウスが取るべき手段は決まった。


「悪いが停戦交渉の席は蹴らせてもらう。貴様を捕虜にする気も起きぬ故な。貴様は殺す。必ずその首を落とし、この国も滅ぼしてくれる。戻るぞ、ランバート」

「ハッ!」


 ルトの言動は、フロイセル帝国の面子を著しく汚すものであった。

 滅亡間近の庶子の王子一人と、五十名強の兵士の身柄で矛を収めよと。そんな巫山戯た申し出をしてきた者を生かしておく訳がない。

 ここまでの侮辱を受けた以上、国家としての誇りに掛けてルトたちは勿論、ランド王国を粉砕しなければ面子に関わるからだ。

 そしてそれとは別に、ルトだけは何が何でも殺さなければならぬとクラウスは誓っていた。

 扇動型の英雄など存在するだけで世が乱れる。それこそ帝国内で市井に紛れられたりしたら、実に厄介なことになる。

 厄災の芽は早期に潰しておく必要がある。


「十分だ。慣例に従い十分だけ時間をやる。それまでに全力で応戦の準備を整えろ」

「……つまり交渉は決裂したと? 貴国は席にすら座ることなく我々と戦うと?」

「ふん。アレを停戦交渉と宣う方がどうかしている。アレはただの宣戦布告だ、無能王子」


 敢えてルトの蔑称を口にした上で、クラウスは盛大な侮蔑を込めた視線でルトを睨みつけた。


「……へぇ? そうなるとお互いに実に不幸な結果になるのだが、本当にそれで宜しいか?」

「っ」


 ──そして何故か逆に気圧された。ルトが浮かべていた表情に。まるで獲物が罠に掛かったのを確認した狩人のような笑みに。


「……何が言いたい! 我らが貴様らを殲滅することで、一体何の不幸が降り掛かると言うのか!」

「できねぇよ」


 クラウスは気圧されたことを誤魔化すように声を荒らげるが、その抵抗はルトの一言によって一瞬にして切り捨てられた。


「……何だと?」

「もし、これはあくまでもしもの話だが。このまま交戦状態に入った場合……俺は後ろで控える忠臣たちの命と名誉を守る為に、非常に遺憾ながらもアンタたち帝国軍を蹂躙しなければならない。そしてアンタたちは為す術なく全滅し、この異国の地で無駄死にすることになる。それは実にお互いにとって不幸なことだ。そう思わないか?」

「っ、馬鹿にするのもいい加減にしろ!!! 貧弱な装備に身を包んだ百にも満たぬ兵で、我が軍を全滅させるだと!? 余程惨たらしく死にたいらしいな貴様!!」


 ルトの芝居がかった台詞回しに、ついにクラウスは腰に挿した剣を抜いた。

 それに呼応するかのようにランバートも銃を構える。未だにここは外交の場ではあるが、ここまでの侮辱を受けては大人しく引き下がる訳にはいかない。

 なによりルトのこれまでの言動は、国際社会においても武力行使が容認される程に酷いものであった。

 それに対して、ルトは不動。ルトの一歩後ろで控えていたハインリヒが咄嗟に主の盾となる為に動き出そうとしたが、それすらルトは片手で制してみせた。

 ただただ堂々と、怒りを顕にするクラウスたちを睥睨していた。


「何故そう怒り狂うかね? 俺はただの事実を述べただけなんだがな」

「まだ言うか!! そのような妄言を誰が信じると言うのだ!!」

「そうか。信じられないか。──ならば証明してみせようか?」

「……なん、だと?」


 そのルトの言葉によって、再びクラウスは狡猾な狩人の笑みを幻視した。

 待て。待て。待て待て待て待て! オレは一体何を相手にしている!? いや、そもそもコイツは一体何なのだ!? この状況で何故まだ余裕を崩さぬ!? そもそもコイツは本当に扇動型の英雄なのか!?

 混乱がクラウスの思考を支配する。ルトの吐き出す言葉は全て妄言。現実に起こり得る筈がない妄想の筈だ。

 何故なら圧倒的なまでの戦力差があるから。クラウスが率いる進行軍は、ランド王国の総戦力すら上回る戦力なのだから。

 だが、それでも尚証明してみせるとルトは言った。堂々と。水が高きから低きに流れるが如く、ただ当たり前を語るかのように宣言してみせた。

 それがあまりにもクラウスには不気味であり、自身の勘もまた全力で警告を発していた。

『気を付けろ、今この瞬間が戦の潮目だ』と。


「安心しろ。俺の中では未だに交渉は続いている。故にアンタらに危害を加えることはない。まあ、驚いて怪我する奴は出るだろうが、起こるとしてもその程度の僅かな事故だけだ。それでも構わないなら証明してみせるが……どうする?」


 不敵な笑みを浮かべるルトに、クラウスは一瞬だけ逡巡を見せた。だが、すぐさま決断する。


「……やってみろ」

「殿下!? ここまで侮辱されて何を呑気な!?」

「黙っていろランバート!! この状況において口を挟むことは許さぬ!!……さあ、やってみろルト王子。もしこれでつまらぬ結果を出したら、その瞬間に切り捨てるぞ!!」

「ああ、構わんよ。できるものならな」


 何処か鬼気迫る勢いで吠えるクラウスと、飄々とした態度を崩さないルト。

 力関係としては明らかに真逆。その筈なのに、何故かそれが当たり前に思えてしまう光景だった。


「あ、だがその前にだ。そっちの兵士たちにはしっかり伝えておいてくれ。これからちょっとだけ驚くことが起こるが、攻撃ではないから何もするなとな。驚いた拍子に攻撃を始めてなし崩しで交戦とか、実に馬鹿らしいからな」

「……良いだろう。ランバート、全軍に伝えよ。己の身に何が起きても何もするなと。全軍に周知し終えたら合図を飛ばせ」

「…………かしこまりました」


 幾らかの間をおいてから、ランバートはクラウスの指示に従い後ろへと下がっていく。

 その様子にルトは肩を竦める。


「どうやら主従関係に罅を入れてしまったようだ。悪いことをしたな」

「黙れ。証明とやらを済ますまで余計な口を開くことは許さぬ」

「おお怖い怖い」


 言葉とは裏腹に、ルトからは一切の恐怖が浮かんでいない。

 そんなルトの様子に、クラウスは最早怒りを浮かべることはしなかった。正確に言えば余裕が無かった。



 ──何故なら、決して有り得ない筈の、されど最悪の可能性を思い当たってしまったから。



「お、合図か」


 そんなクラウスの様子を他所に、侵攻軍の方から一発の火の玉が上がった。炎の魔術を使った簡易的な信号弾だ。

 これによって、全軍にクラウスの指示が行き渡ったことがルトに伝わった。


「それでは──」


 そしてその瞬間、ルトの纏う雰囲気が一変した。


「っ、……!!」


 それと同時に、クラウスの身体に走る違和感。足元に突如として発生した拘束感。

 咄嗟に視線をやれば、いつの間にか両足がしていた。


「…………クソッ!」


 自然とクラウスの口から悪態が漏れる。自身の気付かぬうちに氷の魔術で両足を封じられたから──否だ。


 後方から、侵攻軍の全体から似たようなざわめきが聞こえてきたからだ。


「これで証明はできただろ?」

「…………最悪だ。こんな悪夢は初めてだ!!!」


 どうしようもない理不尽に向けて憎悪の叫びを放ちながら、クラウスは凍結した自身の両足からルトの方へと視線を戻した。


 そこには、先程とは異なる姿のルトがいた。

 蒼みがかった黒髪は蒼穹の空の如き青に変わり。

 鳶色だった瞳は宝石を思わせる碧眼へと変化していた。

 そしてなにより、生物として逆らい難い絶対強者たる覇気をその身に纏っていた。

 その特徴をクラウスは知っている。

 帝国が誇る恐るべき火炎の使い手。自身の操る概念に肉体が染まっていった神域の術士。

 優れた統治者の持つ支配者特有の覇気とは異なる、単純な生物としての【格】の違いを突き付けてくる、恐るべき圧を纏った術士をクラウスは知っている。


「有り得ぬとは思っていたが、まさか本当に【炎神】殿と同じ魔神格の魔法使いだとは……!!!」


 たった一人で戦場を破壊し、国すら滅ぼす力を有する戦略級の術士。【炎神】【使徒】と並ぶ、大陸に現れた新たな魔神。

 これこそが、ルトが生涯に渡り秘め続けるつもりだった切り札の一つ。大陸のパワーバランスすら崩しかねない最強の劇薬であった。


「……さて。再び訊こうかクラウス殿下。交渉の席に着くか? それとも交渉を蹴って、進行軍全員で氷漬けになって心中するか?」


 改めて突きつけられた問。これに対するクラウスの返答は決まっていた。

 戦場に魔神格の術士が現れた場合、ただの兵士が束になったところで屍の山が増えるだけだ。

 それは【炎神】を除けば帝国において最強の一角に数えられるクラウスをしても同じ。

 魔神格と戦えるのは、同じ魔神格だけ。それはこの大陸における絶対の法則である。

 既に立場は逆転した。狩る者から帝国軍は狩られる獲物へと変化した。

 故に返答は決まっている。


「…………っ、交渉の席に着こう……!!」

「そうか。それは良かった」


 かくして、ランド王国……否。魔神ルトとフロイセル帝国による停戦交渉が始まるのだった。


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