第4話
それを聞いた少年は雷に打たれたかのように、憑き物が落ちたようにその手を解いた。少女も同じようにして、二人は一時だけ離れる。
呆然としている少年が何かを言い出すよりも早く、少女がその手を取る。
「よし、じゃあ行こう! とりあえず、下まで!」
それは先刻のことが全て幻だったんじゃないかと思わせるくらい自然で、少年は何も言えなかった。
「足元、滑るから気をつけてね」
これまでは少年が注意していたようなことも、少年が頭に浮べるより先に少女に言われる。
手を引かれるまま来た道を戻っていく少年には、少女の鼓動が今まででいちばん速くなっていることも、前だけを見て振り向かない少女の顔が夕陽のように真っ赤になっていることも、知る由はない。
山を下りるのにはなぜだか上りよりも時間がかかって、麓に辿り着く頃には、時刻は完全に夜になってしまっていた。さっきまでと比べても明らかに暗い。雨は完全に止んだことだけが救いだが、当分雲が切れることはないだろう。そして少年と少女は二人とも、少なくとも心の表面上は普段の様子を取り戻していた。
「暗くなっちゃったね」
「もう殆ど夜と変わんないね、灯りも少ないし」
「あっちの、明るくなってる方がさっき来た方かな?」
少女が指さした先には、他の方向と比べて遥かに強い光が見える。よく見ればところどころ白以外の光もあるが、それは何かの店の看板だろう。逆にそれ以外の方向は真っ暗で、まともに先も見通せない。せいぜいぽつぽつと家があるくらい。
「多分そうだと思う。とりあえずそっち行こっか」
「わかった。暗いのちょっと怖いしね」
二人は歩いていく。一度通ったはずの道も、暗闇の中では面影など感じられない。畦道のような狭い道もあって、気を抜くと足を踏み外して田んぼに落ちそうになる。目的地のものを除けば、灯りは百メートルに一本くらいしかない街灯と、一度だけ見た自販機しかない。それにも虫が集っていて、あんまり見たいものではない。空は分厚い雲に覆われて、月がどこにあるかも分からない。
「晴れてたら、星とか見えたのかな」
「綺麗だったろうねえ。残念」
「明日には、晴れるかな」
「それは僕には分かんない……けど、きっと。いつかは」
「いつか、か。なるべく早いといいな」
暗雲が立ち込めている。雨は降っていないとはいえ地面は濡れて、真夏の熱気も相まって暑苦しい。湿度が高いから汗もかく。端的に言うとけっこうしんどい。
それを会話で紛らせながら、ほとんど無心で進む。比較対象が無くてどれくらい目的地に近づいたか分かりにくい。そもそも目的地が曖昧なのだが。
「あ、ここ」
話す話題を思いつかなくなってきたところで、見覚えのある建物を見つけた。それは少し大きな木造の、昼に入った店。
「見たらお腹すいてきちゃった」
「もう晩ご飯の時間か。……でも、どっか別の所にしない?」
「それもそうだね。何があるかなー」
周辺にはいくつも飲食店がある。閉まっている所も多いが、まだまだ営業時間内の所もたくさんある。この辺りはその光で明るい。さっきまで目標にして進んでいたのは、この光だ。いつの間にか着いていたらしい。
「んー、あんまりないね」
ぶらついてみてもめぼしい店がなかなか見つからない。そうしている間にも少女の空腹は加速してきている。十分くらい探し回ったところで一軒のコンビニがあった。歩き疲れていたのもあってもうこれでいいかと意見が一致して、おにぎりとかパンとかレジの横の温かい唐揚げとかを適当に買った。ちょうどその裏手にベンチのある公園があったのでそこに座って食べることにした。
コンビニの食べ物良いところはほとんど外れがない事だ……とは少女の弁。
すぐに食べ終わって、二人はすぐに公園を出発した。そのままいたらまた寝てしまいそうだったから。
その足で向かう場所は、さっき決めた。
「もうここはいいかな」 と少女。
「じゃあ新しいものを見に行こう」 と少年。
暗くて景色が変わってしまっていたのもあって少し迷ったものの、目的地であった駅は案外近くて、到着するまでにそんなに時間がかかることはなかった。
改札を通って、待合室のベンチに座る。もともと少なめだった電車の本数は、時間もあってさらに減っている。次に来るのは30分ほど後。時刻表を見る限りこれでもかなり幸運な方だ。
「暇」
「暇だねえ」
「あつい」
「うちわとか欲しくなるね」
「つかれた」
「電車が来るまでは、寝るのは我慢だね。多分もうちょっとじゃないかな?」
一時の、静寂。
「ふぅ……。ね、あのさ」
「うん」
「……ぁ、いや……やっぱり、なんでもない」
「……そっか」
暖かいものが少年の左手に触れる。少女の指先だ。
「ちょっと、ぎゅってさせて」
その手は微かに震えている。
少年は何も言わずに目を伏せて、じっとそれを感じている。
いくばくかの時間が経った。静寂を切り裂くアナウンスが響く。
「じゃ、行こう」
二人は立ち上がる。重い腰を上げるように。見えない厚い膜を突き破るように。まさしくそれは、新しい世界への道行の始まりなのだから。
待合室を出ると、眩い光が目を貫いた。まだかなり遠くても、夜闇に慣れた目には強すぎる前照灯。
二人は手を繋いだまま、ホームに立つ。電車が到着する。何故だか過敏になっている感覚が、その風の流れを、足裏のでこぼこした感触を、すぐ隣の体温を明確に感じ取る。
顔を向けあって頷き合う。二人ともが無自覚に微笑んでいる。
同時に、一歩。
踏み出してその扉を越えたなら、それはもうここではない。二人の願う新天地へ二人を導くその列車が、二人を無機質に優しく迎え入れる。
これが二人の、旅の始まり。
「おやすみ」
見切り発車 もやし @binsp
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