第3話
「うーん、これは無理だね」
「さっきびしょ濡れになったばっかりだけど、これはねぇ。風邪引きそうだし」
先程まで煌々と彼らを照らしていた日差しは、もうない。今はとても蒸し暑いが、服が濡れてしまえば体感には寒くすらなるだろう。
「雨宿りするしかないね」
本殿には当然屋根がある。ボロボロではあるが雨を凌ぐのには十分だ。二人は軒下の縁側に座って雨が止むのを待つことにした。そういえば、と少女が呟く。
「太陽が隠れると、時間が分かんなくなっちゃうなぁ」
「たしかに。今は多分、四時か五時くらいかな」
「いや、三時だね。私のお腹の空き具合的に」
「それは信用できるね」
なんて話をしている間にも止む気配はない。
そして、結構な時間──少女によれば1時間と少し──経っても一向に雨は止むどころか弱くなる気配すらなく、むしろ段々と強くなってきているような気すらする。石畳は全面濡れて真っ黒になり、その横の土の地面には大きな水たまりがいくつも出来て、絶え間なく波紋を立てている。
「止まないね」
「そうだねえ。私、暇になってきたかも」
「折りたたみ傘でも持ってきてたらなぁ」
「無いものはしょうがないよ。…………ふぁあ」
少女は手で口を隠して大きく欠伸をした。
「眠くなってきちゃった」
「寝ててもいいんじゃない? 多分誰も来ないと思うよ」
「んー、そうしよっかな。ちょっとこっち来て?」
少年は手招きされるまま、一人が座れるくらいあった隙間を詰めて座り直す。
「あー、それはちょっと来すぎ……そうそう、その辺」
少女の指示通りの場所に少年が移動すると、少女は唐突に少年の方に倒れこんで、少年の太腿の上にぽんと頭を乗せた。つまり、少年が少女を膝枕する形になった。少女は仰向けになって、すなわち少年の顔の方を向いて、少しの間目を合わせる。
「おやすみ」
数秒の後、少女はそう言って目を閉じた。
少女が寝息を立て始めたのを見て、少年はなんとなくその髪を撫でながら既視感を覚える。つい何時間か前に同じようなことがあった。あの時は自分も一緒になって眠りに落ちたが、今はもう寝れる気がしない。
「よく寝るなぁ」
雨降りの音が聞こえる。手の中で、少女の暖かい頭がその息に合わせて規則的に動くのが感じ取れる。
それだけだ。
「……暇だな」
全く眠くはないし、とりあえず少女が起きるか雨が止むまで、手元の可愛らしい寝顔を眺めて過ごすことにした。
先に来たのは後者だった。
少女の肩を揺すって起こすと、案外すぐに目を覚ました。
「……ぅ、おはよ……あ、綺麗」
見れば、雲の切れ間から夕陽が覗いている。昼に海辺で見た目も眩む真っ白なそれとは違う、柔らかい卵黄のような橙の光。直視しても目が痛くはならないから、その薄明光線も、円くうっすらとかかる虹もはっきりと目にすることが出来る。視界の下半分、逆光でより暗く見える山の木々や上半分だけ照らされた鳥居、陽光を乱反射して光を湛えるようにすら見える水たまりや濡れた参道も相まって、何かひとつの絵画を鑑賞しているような気分にもなる。
「……なにぼーっとしてるの」
どうやらまあまあ長い時間その光景に見蕩れてしまっていたらしい。既に少女の重みは脚の上から無くなっていて、その声は横から聞こえた。
「ごめんごめん。……雨も止んだし、移動しよっか」
「そうだね。明るいうちに山は下りた方がいいかも。……よっし、行こう!」
少女は飛び上がるように立ち上がり、そのまま手を広げて、右足の爪先を支点にくるりと一回転。
「元気だなぁ、寝起きなのに……っと、いたた」
少年も腰を上げたところで、足が痺れていることに気がついた。そのまま足の力が抜けて、立ち上がる勢いのまま前方へと倒れ込む。少女のいる方向へ。
少女はそれをしっかり受け止める。地面がびしょ濡れの状況で、転けてしまえば雨宿りした意味がない。少女は広げていた手をそのまま回して、倒れてくる少年を抱き留めた。ちょうど少年の頭が少女の右肩に乗っかる形である。少女が感じた少年の鼓動はとても速い。それが転けそうになった危機感からか、また別の理由によるものなのかは分からない。
別にこのような距離感になったのは全く以て初めてではないのだが、少年はそれがなんとなく慣れない。ごめん、の一言が何故かすんなり出てこない。ビーチで覆い被さられた時は落ち着いていたのに、何が違うのか少年自身にもよく分からない。その気になれば引きはがすのは簡単だが、無理やりというのも憚られる。そんなことを考えている間にも心臓は忙しなく動いている。体温が上がっていくのを自分でも感じられる。
もはや冷静な思考ができているかも怪しい。少年は半ば無意識に、手持ち無沙汰だった両手を意趣返しとばかりに少女の腰の後ろに回して、ぎりぎり痛くならないだろうくらいの強さで抱き締めた。
「…………ぁ」
少女は今の距離ですら聞こえるかどうかという小さな声と息を漏らして、抱擁する手を緩める。力を入れず、ただそこに手を置いておくだけ。それでも少年は離れない。二人は体格も力もほとんど変わらない。だから少女も、離れようと思えば離れられる。けれど、そんなことはしない。するはずがない。少年のそれに紛れていた自分の鼓動が、少年と同じくらい激しくなっているのに今更気づく。
雨が、再び降り出した。頬に落ちたその粒が即座に蒸発するような錯覚を起こす。
今度は傘を持っていても差さないくらいの小雨。それでもさあさあというその音は、元より外界から離れた山奥の神社というこの場所を、更に狭くするのに十分だ。
少女は目を閉じる。意識を集中させるまでもなく、感じるのは少年だけ。力を抜いていた両手を、強く、少年と同じくらい強く抱き締め返した。今、二人の顔はすぐ真横にある。少女の口から少年の右耳まで、ほとんど距離はないも同然だ。雨の音など関係なく、その声は届くだろう。
何度かの深呼吸の後、流れるように、息をするように囁いた。
「大好き」
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