第2話
ぱちり。
瞼を開けると、雲ひとつない蒼穹にぽつりと浮かぶ太陽の光が目を貫く。太陽が、ほぼ真上にある。思わず目を閉じ、視点を下げてもう一度開ける。どうやらあのまま寝てしまっていたようだ。体の上の重みは相変わらずで、お互い汗まみれでさすがに暑苦しい。
「んぅ……」
すやすや、という擬音が似合いそうな少女は少年の胸を枕にして、少し寝苦しそうに寝息を立てている。炎天下で人と密着している上に服は海水に浸かっていたのだから当然である。心配していた当の服は既に乾いているようだ。
少年が起きて体を動かしたからか、少女も目を覚ました。
「ん、おはよ」
どこまでも呑気に少女は言う。相変わらず何を考えているのかよく分からない。それと同時に、ぐぅ、と少女のお腹が鳴った。
「……ぁ」
少女は赤くなって、すぐに立ち上がって数歩離れる。これが恥ずかしくてさっきのはいいのか、と少年は思った。
「なんか食べに行こうか」
「……うん」
服はとっくに乾いているから、動くのにそんなに支障はない。来た道を反対に歩いていってビーチを出る。観光地らしいということもあって、辺りの建物の多くは飲食店だ。
二人はあんまり何も考えていないが、それでも一応自分たちのおよそ全財産を持ってきている。当分のあいだ食うに困るというようなことにはならないだろう。
二人は目に付いた、道路沿いで人が並んでいないうどん屋に入った。少なくとも二人が知らない、有名なチェーン店ではない名前。とはいえそんなに変わったこともない。珍妙なメニューがあるとか店主が変わり者だとか、そういうのは全くない至って普通の和なうどん屋である。店の大きさの割にほとんど人はおらず、そのお陰か二人は個室の座敷部屋に通された。
少年が注文した梅しそうどんは、少女が頼んだ天麩羅うどんより幾分か早く運ばれてきた。
「ずるーい」
「ちゃんと揚げたてだって証拠じゃんか」
「ぶー。あ、じゃあ、一口ちょうだい?」
空腹が限界の少女、獣のごとし。返事を待たずに箸を閃かせて少年のうどんをかっさらう。ちゃっかり梅干しも三分の一くらい取っている。
「あー! やってくれたなー!」
少年は一瞬声を荒らげるが、取られたものはもう仕方がないと一旦諦めた。向こうのが運ばれてきたら同じくらい盗ってやろうとか思いながら。
「というか、汁飛ばしすぎ」
「ん、拭きます拭きます」
好き勝手しているように見えてそういう所は案外ちゃんとやる少女。そもそも勢いよくうどんを取って机を汚したのは自分なのだが。
少女の天麩羅うどんが運ばれてきたのは少年が半分くらいまで食べ進めた頃だった。それまで少年は羨ましそうに見つめてくる少女に負けて追加で二口ほどあげている。
運ばれてきたのは少年のうどんと同じ量のうどんの上に、高さと直径が10センチくらいの円柱型のかき揚げがとんでもない存在感を放っているものだった。
「ほー、これはこれは」
「またすごいのが……。食べ切れるの?」
「いけるいける。いただきまーす。あ、ちょっといる?」
「じゃさっきあげた分くらいもらおうかな」
「はーい、どうぞ、っと」
器用に麺だけ掬いとって少年の丼鉢に移した。
「えー、かき揚げちょっと頂戴よ。さっき梅取られたし」
「んもう、欲張りさんだなあ」
そう言いながら汁に浸かって柔らかくなった部分を箸で切り分けて渡す少女。
「ありがと。ちょっと腑に落ちないけど」
その後は二人とも食べ始めたのであんまり喋らなかった。完食するタイミングはほとんど同じで、そのまま店を出る。
「さー、どこ行こっか」
「さっき海行ったし、山かな?」
歩いてきた方向を見てみれば、青い水平線が。そして反対側を見れば、さして遠くない位置に深緑の山々が見える。遊歩道や展望台のようなものが整備されているのが見えるので、海と並んでこのあたりの観光名所なのかもしれない。
「というか、見た感じそれしかないしね」
「よーし、じゃあ行こう!」
そう言い切るのも待たず少女は歩き出す。少女のほうが進行方向側に立っていたので、少年がそれを追いかける形になる。十歩ほど歩いたところで少女が急に立ち止まって振り返った。
「ね」
「ん、どうしたの」
「手、繋ご」
「はーい」
別段二人にとって特別なことではない。差し出された少女の左手を少年は右手で取って、引かれるように進んでいく。
麓に着いても山の印象はそれほど変わらない。山頂の展望台は見えなくなったが、コンクリートの敷かれたこの広い坂が螺旋を描いてそこまで登っていくというのは容易に想像できる。山に踏み込めば視界は深い木々に覆われ、さっきまでいた開けた土地や海なんかは全く見えなくなる。鬱蒼と言った言葉が似合うそんな道に、ぽつぽつと木漏れ日が差している。そこを二人は歩いていく。他に人影は見えない。その隔絶から、どこか二人だけの異世界に迷い込んだような感覚を覚える。
「あ、なんだろあれ」
山頂まであとどれくらいかは分からないが、ある程度歩いたところで少女がそんなことを言う。指差した先には小さな灰色の鳥居のようなものと、そこから繋がる石の階段が見える。どれも苔むして手入れがされていない様子だ。
「神社……かな? こんな山奥に」
「ふうん、まあとにかく行ってみよっ」
「言うと思った。足元気をつけてね」
二人の背でも少し屈まないと通れない鳥居をくぐって、ぎりぎり二人並んで歩ける幅の階段を登っていく。足元の滑る苔や時々道にはみ出してくる枝葉を避けながらなのでゆっくり進む。階段は曲がりくねっていて先はよく見えない。入り口の鳥居も、もう木々に隠れてしまった。
そのまましばらく歩いたところで、また鳥居が見えてきた。入り口とおなじ石造りの鳥居。いや、その奥にもいくつも見える。ところどころ半ばから折れてしまっているものもある。もしかすると今は壊れてしまっているだけで、この神社ができた時には千本鳥居のようなものがあったのかもしれない。
風化し苔むしているとはいえど荘厳な光景だ。しかしながら鳥居は普通に歩くと頭をぶつけるような大きさなので、歩きにくいことこの上ない。
「あだっ」
ぶつけた。
「大丈夫?」
「うう、でこぼこしてるから余計痛い」
変に擦れてしまったのか、よく見るとおでこから少しだけ血が出ている。
「うーん、絆創膏は持ってないなあ」
「ま、大丈夫大丈夫」
「それならいいんだけど。でも後でちゃんと洗ってね。水道あったら」
「はーい。お、見えてきたかな」
そう言われて前を見ると、その鳥居が目に入った。これまで何度もくぐった石そのままの小さな鳥居とはどう見ても違う、朱塗りの残る大きな鳥居。そこが境内の入り口だと容易に想像が出来る。
それの下を通って中に入っていく。そこにあるのは本殿らしきものと手水舎、その他に二つの建物。手入れされている様子はなく、手水舎には水もない。当然ながら人は誰もいない。
「あれ、観光客とか来ないのかな?」
「さあね。まあいいじゃない、ふたりっきりで」
少女がわざとらしく言う。両手を腰の後ろに回して立ち止まり振り返って、少年を下から覗き込むように。
「ふふ、どきどきする?」
「はいはい」
少年はなるべくその感情を表に出さないようにして受け流す。
「むー、つまんないの。……せっかく神社来たんだし、お参りしてこっか」
「そうだね。五円玉だったっけ?」
「なんでもいいんじゃない? 気持ちが大事なんだよこういうのは」
「そういうもんかなあ」
細かい作法は知らないから、とりあえずお賽銭を入れて鐘を鳴らして礼をする。
鐘の音が案外大きくて、隣で手を合わせる少女が何かを言ったのは聞こえたが、何を願ったのかは聞き取れなかった。
少年の願いは、ひどく漠然としたものだった。二人の幸せ。少女の幸せ。それを神頼みに任せてしまった時分が少し嫌になって物思いに耽るような顔になったのを見咎めたのだろうか、少女は尋ねる。
「ね、何お願いしたの?」
「内緒。そっちは?」
「じゃ私も教えなーい。……あ」
話しながら踵を返して神社のを出ようとした二人は、 石畳に斑点が出来始めているのに気づいた。それははじめはぽつぽつと、そして次第に多くなって、すぐに斑点には見えなくなる。
まだ夜には遠いのに空は暗い。ついさっきまでは無かった黒雲が一面を覆っている。木製の屋根が、辺りの木の葉が、石の地面が音を立てる。
「雨だ」
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