35. Fly

 日に3便、本土に向けて出航するフェリーの、2便目。

 僕と兄が港に着いたとき、その2便目の乗船が始まる直前だった。

 今にも船に乗り込もうと列を成す人の群れの中に、視線を投げる。が、彼女の姿は見当たらなかった。

 「いないな」

 落胆とも安堵とも取れる曖昧な溜息と共に、兄が言った。僕は僕でぞんざいに頷き返すと、念を押すようにもう一度、人ごみの中に視線を走らせた。でも、やはり彼女を見つけることはできなかった。

 「1便目が出港する時はお前と会ってたはずだから、まだ、この島にいる」

 兄の口調はまるで、自身に言い聞かせるような響きだった。僕も自分で自分を納得させるように、小さく頷いた。

 「まだ、この島にいる」

 繰り返し兄が言った時、あの場所が思い当たった。

 あの岬。

 ここにいないのであればもう、あそこしか、考えられなかった。

 「兄さん、行こう」

 兄の返事を待たずに踵を返し、ロータリーへと引き返す。

 「心当たりがあるのか?」

 僕を追ってきた兄が、僕に並んでそう尋ねた。

 「俺が運転してくよ」

 言いながら、兄に手を差し出す。兄はたじろぎながらも、ポケットに捻じ込んでいた車のキーを抜き出して、僕に渡した。

 「どこなんだ?」

 答えるのが億劫だった。億劫と言うより、焦って、言葉を返す余裕が無かった。僕は黙ったまま、運転席へ滑り込んだ。慌てて兄も、助手席に乗り込む。

 車を発進させた。さっきの兄と同じように、乱暴な運転になってしまっていた。


 獣道のような細い坂を駆け上り、岬の先端へたどり着くと、その穏やかな風景とは相容れない、場違いな白が目の中に飛び込んだ。

 岬の先端で揺れる、白。

 岬の先端の、柵の向こう側に立つ彼女の纏った、白のワンピース。その裾が、海から吹きつける緩い風に、ひらひらと揺れていた。

 きっと彼女はここにいる。その予感は当たった。でも、状況は最悪だった。もう半歩踏み出せば、柵を掴む手を離してしまえば、岬の下の断崖に落ちてしまうような場所に、彼女は立っているのだ。穏やかな笑みを浮かべながら。

 「よかった」笑みを携えたまま、彼女が言った。「私、大事なことを忘れてた」

 兄も僕も、ただただ目の前の状況にうろたえて、彼女の言葉を飲み込めないでいた。

 「いいから、早くこっちへ来るんだ!」

 兄が怒鳴るような口調で言う。でも彼女は、笑みを返すだけで、柵の向こうに佇んだままだった。

 「これ」

 彼女は何かを僕らに向けて投げる。瞬間、彼女は、少し体勢を崩して、柵の向こう側でよろけた。兄はびくりと体を震わせ、僕は慌てたしぐさで彼女の投げた『何か』を受け止めた。

 小さな、布の巾着袋だった。中にはごつごつとした石のようなものが入っているのが、感触で判る。何が入っているのか見当はついた。が、開けて確かめずにはいられなかった。

 小さな、白くくすんだ塊が二つ。

 骨。

 きっと、彼女の母と、そしてさっき彼女に手渡したばかりの、父の。

 「お願い、私のもいっしょに、そこに入れて。で、そうだな。どこか遠くの、あたしが見たことのない、でも、この島にどこか似てる、海に投げて。それ、自分じゃできないでしょ」

 おどけるような口調が逆に、彼女の真剣さを感じさせる。本気だ。本気なんだ。膝から下が、小刻みに震えだす。

 「早まるな!もう一度じっくり考えてからでも遅くないだろう?とにかく、こっちへくるんだ」

 高揚した兄の声も、震えていた。

 もう無理なのか。止めることはできないのか。思考を巡らすが、考えれば考えるほどに、目の前の状況が瞳の奥でふわふわと揺らぎ、リアリティを失って、ぼやけてしまう。

 ふと、疑問が沸く。

 彼女を止めたい。けれど、僕に、僕や兄に、彼女を止める権利はあるのだろうか。

 彼女がこうまでして求めてきたもの、血で繋がるべき絆を反故にして、父を憎むことでそれを拒絶し続けてきた僕らに、果たして彼女の葛藤してきた何が判るのだろうか。彼女がこの答えにたどり着いた道程の、結果の、何を否定できるのだろうか。

 できるわけが無い。

 無理に引き止めるのは、傲慢以外のなにものでもない。

 少なくとも、僕と兄にとっては。

 「わかった。君の言う通りにする」

 僕は言った。自分でも驚くほどに、残酷なほどに、澄んだ響きだった。

 彼女はその言葉をかみ締めるようにゆっくりと一度瞬いて、空を仰ぎ、再び僕を見据えて、言った。

 「サンキュ」

 白が、宙を舞った。

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