34. To The Pier

 拓郎の家に戻ったときにはもう、彼女はチェックアウトを済ませてしまっていた。

 「予約は、明後日までだったんだけど、急用ができたって」

 食って掛かるように彼女の所在を尋ねる兄に、拓郎はたじろぎながらそう言った。その傍らには、怯えたまなざしで、さっきの小さな男の子が、拓郎の影に身を隠しながら恐る恐る兄を見上げていた。

 「いつ頃?」

 兄が拓郎に詰め寄る。

 「淳が出てったすぐ後だから、もう2時間くらい前かな」

 「どこへ行った?」

 「どこって・・・」

 「兄さん、落ち着けよ」

 さらに前のめりに拓郎に迫る兄を、僕が止めた。拓郎は身を引きながら、飲み込めない状況に目を丸くしていた。

 「港だ」

 呟くように言って、兄はすっと踵を返す。僕も慌てて後を追った。

 「お、おい」

 困惑する拓郎の声が背中にぶつかったが、振り向かなかった。

 兄は、運転してきた実家の車に乗り込み、僕が助手席に滑り込むのとほぼ同時に、乱暴にそれを発進させた。そのまま荒っぽい運転で街道へ出て、港へと向かった。

 「で、どういうことか、説明してくれるんだろう」

 兄の運転が少し落ち着いてきたところで、僕は視線を車の進行方向へ向けたまま、兄に尋ねた。兄は大きく、溜息を吐き出して、しばらくの間黙り込んでから、口を開いた。

 「半年前だ。彼女が突然、俺の職場に訪ねてきた」

 ハンドルを握り、睨むように前方をみながら、兄は語りだした。


 彼女が兄の前に初めて現れたのは、半年前だった。

 事前の連絡も無しに、いきなり兄の職場を訪れた彼女は、やはり何の前置きも無く、あなたの腹違いの妹だ、と明かした。そして困惑する兄にかまわずに、父に知られてはならないことを知られたから、よく見張っていてくれ、と兄に頼んだらしい。兄はもう何年も、父に会っていないのにもかかわらず。

 そもそも、初めて会ったその日に、いきなりそんな突拍子もないことを立て続けに言われて、兄も、彼女の言うことをにわかには信じられなかった。信じられなかったが、妙なリアリティが彼女の内側から沸きあがっているようで、何をバカな、と浮かんだ言葉を口にすることはできなかった。

 別れ際、不審がる兄の背に向けて、彼女は言った。

 あの人は、死んでしまうかもしれない。

 それから数日、胸騒ぎが止まらなかった。父はもう他人だと思い込んでいたはずなのに、彼女が別れ際に放った言葉が、兄の胸の奥を疼かせた。

 結局兄は、父と会った。そうすることで、疼きが収まるのならと、東京の父のアトリエで、十数年ぶりに。

 兄をアトリエに迎え入れた父の顔には、濃い翳が落ちていた。

 何を語りかけても、生気のないか細い声で、短い言葉を返すだけだった。

 彼女に会った。そう告げた時も、父は力なく苦笑いを浮かべ、そうか、そうか、と呟くように繰り返した。

 その父の姿が、兄の中のそれまでの父の存在を、揺らめかせた。

 ずっと憎んできた。恨んでいたはずだった。でも、干からびた藁のように、ほんの少し触れるだけでぽきりと折れてしまいそうな父の姿を見て、憎しみも恨みも憤りも全て、萎れてしまった。兄自身も、不思議なほどに。

 その日から、兄は時間の許す限り父のアトリエを訪れるようになった。

 あの人は、死んでしまうかもしれない。

 彼女の言葉に引き摺られるように、兄は父を見張った。彼女からは時折呼び出され、父の近況を報告し、その度に彼女は、父は生きている、というだけの事実にすがりつくように、安堵の笑みを浮かべた。

 数ヶ月、そんな生活を続けるうち、父は段々と生気を取り戻しているように、兄には見えた。こちらの投げかける言葉に対する反応も、それなりに自分の意思を伝えようとする姿勢が見え隠れしだした。

 父が命を絶つ二日前だった。

 何気なく、兄は父に尋ねた。

 彼女の言う、知られてはならないことって、何なのか。

 責める気持ちもなく、強い好奇心に背中を押されたわけでもない。単純に沈黙を埋めようとしただけの、些細な問いかけだった。少なくとも、兄にとっては。

 父はほんの一瞬虚をつかれたようなおどろきの表情を見せ、でもすぐに弱々しいながらも笑みを浮かべ、それきり黙りこんでしまった。

 翌日父はアトリエから姿を消し、その更に翌日、再びアトリエに姿を現したが、大量に睡眠薬を飲み込んだ後の、どうにもならない状態だった。


 港に着くひとつ手前の交差点で信号につかまった。

 兄は少し乱暴にブレーキを踏むと、もう一度、大きく溜息を漏らした。

 「彼女と親父がそういう関係だったと知ったのは、親父が死んだと彼女に伝えた時だった。電話越しには、彼女は特にうろたえた様子も嘆く様子も無くて、どちらかというと明るい口調で、言うんだ、親父の骨をくれって。親父の骨と、彼女の母親の骨と、自分の骨とを一緒に墓に埋めたら、初めて家族になれるかもって、な。家族になれるなら、今すぐにでも死んでいい、って」

 僕は何も返せず、ただ、兄の横顔を見た。僕の視線に気付いた兄が一瞥を投げ、すぐに前を向き直ったところで、信号が青に変わった。兄は再び、アクセルを踏み込んだ。

 「ああいう娘だろう?どこまでが本気か、本当のところは判らない。でも、冗談を言っているようには、全然聴こえないんだ。わかるか?あの娘の、そういう感じ」

 「判る、気がする」

 素直に、答えた。つかみ所がないのだ、本当に。いい意味でも、悪い意味でも。

 「間に合うといいな」

 呟くように兄が言った。

 「間に合うよ、きっと」

 やはり呟くように、僕が返した。

 呟きと言うより、祈りに近い声の震えが、車の中にくぐもって響いた。

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