33. A Presentiment
彼女が立ち去った後、防波堤にひとり腰掛けて、父を想った。
父のしてきたことの残酷さも、愚かさも、何も変わらない。その過去の現実が変わることは、もう、決して、ない。
でも、何も変わっていないはずなのに、母のあの震える背を目の当たりにした夜からずっと、僕の胸の奥底でとぐろを巻いていた溶けた鉛のような異物感は、何故か、消えてなくなっていた。
彼女のせい、なんだろうか。わからない。けれど、他に思い当たるものもない。
目をつぶると、ついさっき、父の遺骨を彼女に手渡した時の、彼女の微笑みがまぶたの裏に蘇る。彼女は父の骨をぐっと胸に押し当て、しばらく目をつぶったまま黙り込んでから、澄んだ、穏やかな笑みを僕に向けて、ありがとう、と呟くような言葉を残し、この場を去っていった。
彼女の求めた父と彼女とのつながりの形。
彼女の求めた、父親と、娘のあるべき姿。
それが正しいことなのか間違ったことなのかは、わからない。けれど、その想いの強さが、もっと必然的に息子として繋がっていた僕の想いよりも、遥かに強い意志をもっていたことは明らかだった。だから例え、彼女の求めたその形に僕が違和感を抱いたとしても、きっと僕には、彼女を否定する権利も訝しむ余地もないのだろう。
どのくらい、こうしていただろうか。
昨日と同じようにぎらぎらとした陽光が、防波堤のコンクリートを打ちつけ始めた頃、「淳!」という叫ぶような声が背中にぶつかり、僕は我に返った。声のしたほうを振り向くと、駆けてくる人影が目に飛び込んだ。兄だった。
僕がのっそりと立ち上がる間に、兄は僕のすぐそばに駆け寄って、目の前で立ち止まった瞬間、僕の両肩を強く掴んだ。
「お前、親父の骨、どうした?」
物凄い形相で兄が詰め寄るので、僕は気圧されて、思わず、判るはずもないであろう僕の所業を認めてしまうように、言った。
「何で判ったの?」
判るはずがない、と思っていた。骨壷に納められた無数の骨のかけらのほんのひとつを抜き取ったところで、母にも、兄にも、誰にも、気付かれるはずなどないと思っていた。
「お前、よりによって、喉仏を抜き取ったんだよ」
「喉仏?」
「喉の骨。仏が胡坐かいたみたいな形の骨だよ。お前、よりによって母さんが一番大事にしてたそのかけらを抜き取ったんだよ。そりゃばれるだろうが」
はき捨てるように兄は言い、更に肩を掴む手に力を込めて、「そんなことより」と僕に食いかかる。「彼女に渡したのか?」勢いに負けて、弱々しく、僕は頷いた。
「ばかやろう」
怒りというより、あせりの混じった声色で言って、兄はすっと踵を返して引き返そうとする。それを、今度は僕が兄の肩を掴んで止めた。
「兄貴、知ってるんだろう?彼女が何者なのか。彼女の素性も、親父とか、俺らとの関係も。だったら、いいじゃないか。彼女にも権利はあるんさじゃないのか?親父の骨のひとかけらくらい、渡してやったっていいだろ?」
兄は僕の手を振り解きながら振り向いて、僕を睨みつける。僕だって、間違ったことは言っていない。胸のうちで自分に言い聞かせ、少したじろぎながらも、睨み返す。
「あの子、死ぬぞ」
低く、くぐもった声で兄が言う。その意味が判らず、僕は「は?」と間の抜けた声を漏らした。
「あの子、死ぬ気なんだ」
もう一度、今度はかみ締めるように、兄が言った。でもその言葉は、僕の疑問を打ち消すものではもちろんなかった。
困惑と、そこから生まれた苛立ちとが、僕の中で渦を巻く。兄が冗談を言っているとは思えない。でも、兄の言っていることの突飛さと支離滅裂さを受け入れることだって、できるわけがない。
「なんだよそれ、意味わかんないよ。何わけのわからないこと・・・」
うわずる僕の言葉を、「俺だって」と力んだ声で、兄は制した。「俺だって、納得したわけでも、理解したわけでもない。ただ、彼女の強い意志だけは曲げられそうにないってことしか、判らないんだよ」
「そんなの、兄貴の思い込みじゃないのか?彼女が言ったの?親父の骨が手に入ったら私は死にますって。なんだよそれ。ばかばかしい」
「信じないなら、かまわない」言って、兄は再び踵を返した。「でも、少しでも疑うならお前も彼女を探すのを手伝え。時間がない。知りたいなら、道すがら俺が知ってる限りのことは、説明してやる」
僕が答えを出す前に、兄は足早に歩き始めた。
そこまで言われて、この場に取り残されるわけにも行かず、僕もたどたどしい足取りで、兄の後を追った。
追いながら、さっきの彼女の言葉が、脳裏に蘇る。
『ママの骨の傍らに、あたしの骨の傍に、あの人の骨が添えられても。ねえ、いいよね?』
あたしの骨の傍。
彼女は確かに、そう言った。言っていた。
だからといって兄の言うように、彼女が死ぬつもりだと決めつけられるわけじゃない。
それでも、胸騒ぎが止まらなくなる。
兄を追う歩調を、僕は早めた。
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