28. A Piece Of My Father

 何故、あんなことを言い出してしまったんだろう。

 再び拓郎のドラッグスターに跨り、実家へと戻る途中で、今更ながら思った。

 彼女の気を惹くためだったのか、彼女に同情したのか、僕を突き放そうとする兄に仕返しがしたかったのか。

 どの思いも嘘っぽくて、どの思いも、正しい気がする。

 自分で自分が本当に意図していることが判らなかった。けれど、ああ言ってしまったことに、不思議と後悔は無かった。

 ビーチから戻ると、夕食はいらないと拓郎に言い残し、宿を出た。

 「もっと早く言えよなあ」と愚痴っぽく拓郎は言ったが、表情にはむしろ、再び実家へ向かおうとする僕の背を押すような、やさしさが溶けていた。例え過去になにがあったとしても、十年ぶりに故郷へ帰ってきた今くらい、家族と一緒にいてやれ、という説教じみた暖かさと、一緒に。

 陽が傾き始めていた。バイクの排気音の向こう側の、それまでは耳鳴り程度にしか聞こえていなかった波の砕ける音が、大きく響きだした。波の音が大きくなったというより、島が夕暮れの静けさに沈んでいっているのだろう。朝の早い島の人々の息遣いが、徐々に小さくなっている証拠だった。

 アスファルトが夕陽の橙と夜の紫で斑模様に染まる頃、実家に戻った。

 中途半端な暗がりが、昼間に訪れたとき以上にこの家の沈んだ空気を際立たせていたが、家の中から漂ってくる懐かしい匂いは逆に、昼間は抱けなかったぬくもりを感じさせてくれた。

 煮魚の匂い。

 ごくありふれた、夕時に家々を包む、匂い。

 本当にありふれてはいたけれど、誰でも判るはずだ。月並みな匂いの中に微妙に漂う、自分の生まれた家だけが持つ、匂いの癖。

 ああ、帰ってきたんだと、このときようやく僕は、実感することができた気がした。母を感じさせる匂いだった。同時に、そんな母に隠れて、母を裏切ろうとしている自分に気付き、ちくりと胸が痛んだ。

 家に入ると、母は台所に立っていた。ゆったり、それでいて淀みない動作で夕食の準備を進めていた母の背は、昔毎日のように見ていた母の背よりも、やはりこじんまりとしていて、それが悲しいのか、胸がきゅっと締め付けられた。

 「淳?」

 僕に気付いた母が振り向いた。

 ただいま、と小さく返すと、母は目を細めて笑み、再び夕食の支度に戻った。

 「良かった。お兄ちゃんと喧嘩して出てったみたいだから、ちゃんと戻ってきてくれるのか心配だったの」

 背を向けたままで、母が言う。兄と喧嘩、という言葉の響きが妙に懐かしくて、はにかむような笑みが無意識に漏れてしまった。

 「別に喧嘩なんてしてないよ」

 いいながら、居間を振り向いた。

 兄は居なかった。

 誰も居ない。

 薄暗い、居間。

 その奥の仏壇の前にぽつんと置かれた、父の骨壷が納められた木箱が目に留まった。留まった途端、脈が速くなるのが判った。

 「兄貴は、いないの?」

 母の背に向けて尋ねた僕の声は、ほんの少し震えていたかもしれない。わざとらしいほどに、そっけない口調だったかもしれない。でも、母は僕の動揺にも緊張にも、気付かなかった。

 「ちょっと散歩してくるって、ついさっき出てったのよ。入れ違いだったみたいねえ」

 のんびりとした口調で、ふりむかずに母が言う。反対に僕の脈は、更に速くなった。掌に、生ぬるい汗がじわりと浮いて出た。

 今なら、抜き取れる。

 父の骨壷を見やる。

 もう一度母の背を見て、振り向く気配が無いのを確認してから、足音を立てないようにそろりそろりと居間に入り、仏壇の前に立った。

 父の遺骨の納められた木箱にまなざしを落とし、また、ちらりと台所の母に一瞥を投げる。

 大丈夫。母は夕飯の支度に夢中で、振り向く気配はない。

 丁寧に、音を立てないように、そのくせ素早く、木箱を包む白い布の結びを解き、木箱のふたを開ける。中に収められた骨壷を確認してから、もう一度母の背を見る。大丈夫。やはり、振り向く気配はない。

 それでも僕は神経質なほど、母の背と骨壷とに交互に視線を向けながら、素早く父の遺骨のひとかけらを抜き取ってポケットに捻じ込み、蓋を閉め、木箱とそれを包む布とを元通りに直した。

 全てが終わった後でもう一度、台所を振り向いた。

 母はまだ、背を向けたままだった。

 僕の内側で火照っていた熱が、引き潮のように音も無くすっと薄れていった。

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