27. Being Thief


 彼女は、昨日の夜、僕と優希とが並んで腰掛けていた流木に座り込んで、低い波が寄せる砂浜を眩しそうに眺めていた。そしておずおずと近づいていく僕に気付くと、挑発するような少しとがった笑みを投げてよこした。

 「さっきの続きがしたくて追ってきたの?あたしはいいけど、ここじゃ人目につきすぎるよ」

 皮肉と言えば皮肉だった。けれど、口調から、悪意とか敵意とか、警戒心みたいなものは感じ取れなかった。ちょうど僕が、啓太や拓郎と戯言を交し合うときと同じような軽快さが、語尾に溶けていた。おかげで、さっきのあの暴走に対して抱いていた窮屈な罪悪感から、少しだけ開放されたような気がした。

 「いや、本当にあれは、ごめん。なんだか動揺して、なんて言い訳、通じないだろうけど」

 歯切れ悪く僕が返すと、彼女はあからさまに吹き出して、けたけたと笑い出した。

 「大胆なことするくせに妙に弱気なの、あの人と似てる。やっぱり親子だね」

 彼女の声には、ふわりと宙に浮いて漂うような揺らぎがあった。少しぼやけた、曖昧な震えと、響き。ふと彼女の足元に転がっていたワインの空ボトルに目が止まり、ああ、もう酔ってるのか、と気付いた。そして、僕が右手に携えていた、拓郎に託されたもう一本を、彼女に渡すべきなのかどうか戸惑っていると、彼女は流木に腰掛けたまま腕を伸ばして、僕の手の中にあったそれを奪い取った。

 「さっきのあれ、悪いと思ってるなら付き合ってよ」

 言いながら彼女は、手に持った紙コップを突き出した。受けとったその紙コップは、もう一本目のワインが注がれたときに目いっぱい水分を吸い込んでいて、辛うじてコップの機能を保てている程度にまで、ふやけていた。

 「こんなので飲んでも美味くないでしょ」

 と、言っては見たけれど、無駄だった。彼女は不器用な手つきで僕から奪い取ったボトルのコルクを抜くのに必死になっていて、僕の言葉はどうやら届いていないようだった。仕方なく僕は、小さな溜息と一緒に、彼女の横に腰を下ろした。

 こうやってすぐ傍で彼女と肩を並べると、なんだか不思議な気分になった。少し距離を置いて彼女を見ている時は、彼女の放つ不思議な艶に惹かれて脈が早くなってしまうのに、肌が触れそうな程に近くにいる今のほうが、どうしてか、妙に落ち着いた。

 唐突に、ぽん、と気の抜けた音がして、同時に、「抜けたー」と安堵する彼女の声が耳に飛び込んできた。

 「はい」

 無邪気に笑みを浮かべて、コルクのかすがところどころこびり付いたボトルの口を、彼女は僕に差し出した。どこか子供じみた、はしゃぐような彼女の笑みが眩しかった。

 「それじゃ、いただきます」

 紙コップを差し出すと、彼女はそれにワインを注ぐ。ふやけた紙越しに伝わってくる生ぬるい感触にちょっと顔をしかめつつ、一口飲んでみる。すると、想像以上の渋みが口の中を引き締めた。思いのほか、おいしかった。

 「かなりうまい、これ」

 「そう、美味しいの。こんな辺鄙な島の宿なのに、こんなワインが置いてあるなんて、やるよね、あの宿のお兄さん」

 彼女はまるで自分の手柄のように、自慢げに鼻を鳴らした。

 「お酒、好きなんだね」その歳ではちょっと過ぎるけど、とは、思ったけど口にしなかった。

 「ママの影響かな。お店やってたの、私のママ。おじさんたちが行くような、カラオケのあるお店」

 「いわゆる、クラブとかパブとかってやつ?」

 商店街の隅っこで、おぼろげに夜闇に光る、こじんまりした店舗を思い浮かべながら、言った。

 「そうそう、それ。小さい頃から出入りしてたら自然とね、お酒好きになって、若くしてアル中一歩手前ってやつ」

 ようやく、彼女の放つ艶の意味が判った。タネを明かして見れば結構月並みなことだ。

 彼女の内側から湧き上がる、少しつんとして、それでいて妙に人を惹きつけるような空気。きっとそれは彼女が幼い頃から、淡いネオンの光の中で纏い込んできた、夜の闇の中に生きている人独特の、オーラのようなものなんだろう。

 そこでふと、父の顔が脳裏を過ぎった。

 父は、その淡い闇の中で彼女を見つけて、そして、彼女の持つ艶の中に飲み込まれていったんだ、きっと。

 そんなふうに想像すると、今までだったらふつふつと怒りがこみ上げてきていたというのに、このときは何故か、すんなりと想像の中の父の姿を受け入れてしまった。

 「親父の骨、欲しいんだって?」

 僕は思い切って聞いてみた。

 彼女はちらりと僕を一瞥してから、目の前にはないずっと遠くの何かを見つめるような、焦点の曖昧なまなざしを海の向こうへ投げた。

 「私も、遺族だから。だから、それくらいの権利、あるよね?」

 無数に砕ける波のしぶきの音に、すっと溶けていってしまいそうな、なめらかな声だった。だからなのか、その言葉は耳と言うより、直接僕の胸の中に染み込んできて、余韻を鈍い痛み変えて、消えた。

 愛人、という立場でありながら、遺族と言い切る彼女のひたむきさが、痛かった。そして母のように、父に対する独占欲を、僕はどうしても抱けなかった。

 だから、言った。

 言えた。

 「俺が取ってきてあげる。母や兄に気付かれないように。親父の、骨」

 彼女の顔が、にわかに輝いた。そこにはさっきまでの艶は無く、代わりに、無垢な少女の喜びが満ちていた。でもどこか気にかかる翳も、彼女の笑顔のそこここにちらついていた。

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