29. A Call
しばらくは、腰がふわふわと宙に浮いたように落ち着かなかった。ジーパンのポケットに捻じ込んだ父の骨の感触が、くすぐったいというよりも、まるで足の付け根に異物を詰め込まれたように、いつまでも馴染んでくれなかった。
夜になり、散歩から帰ってきた兄と、母との3人で、久しぶりに食卓を囲んだ。
母は、兄や僕がまだここに住んでいた頃の思い出や、兄や僕も知っている昔から馴染みのあるご近所の人たちの近況を、僕たちの曖昧で貧相な相槌にもめげずに、ひっきりなしに話し続けた。時々うわずる声が、無理をしていることを暗に告げていた。久しぶりにこうやって食卓を囲む家族の間に、沈黙が流れてしまうのが怖いのだ。沈黙がまた、僕ら家族を引き離してしまうのだと信じているのだ。決してそれは、沈黙の所為などではないと、兄や僕と同じように、母も本当は、気付いているはずなのに。
最初に逃げ出したのは兄だった。読みかけの本があるからなどと、取ってつけたような言い訳を残して2階に上がった。そのすぐ後に母も、床につくからと居間を出た。
僕だけが、そこに残った。
ひとり取り残されてみると、昼間、母が台所に立っている隙を狙って、どぎまぎしながら父の遺骨をポケットに捻じ込んだ自分が、滑稽に思えて仕方なくて、苦笑が漏れた。
ポケットの中から父の遺骨を取り出し、どこか薄暗い居間の照明にかざしてみる。
父が焼かれたときに兄の胸を満たした遺失感なんてものは、沸いてこなかった。泣いた、と兄は言ったが、僕には、涙の気配すら感じられない。ただ、こんなもんか、という冷めた思いが、胸の中でゆらゆらと漂うだけだった。
不意に、電話が鳴った。
既にこの家に暮らしていない僕がでるべきなのかどうか、一瞬迷った。2コール目が鳴り終わっても、母や兄の気配を感じられず、3コール目が鳴り止んだ時に、少し慌てて受話器を取った。
「はい。」
反射的に答えたが、受話器の向こうからは何の反応もない。
「もしもし?」
今度は少し訝しむ声で、電話越しの相手に語りかけてみる。すると、長く尾を引く溜息が、かさかさと乾いた響きのノイズと一緒に、僕の耳に届いた。
「いつ帰ってくるの?」
記憶にない、女性の声だった。苛立ちと諦めとが混ざり合った、湿った声色が、耳の奥に粘ついた。帰ってくる、という言葉の意味が、すぐには飲み込めず、受話器の向こうの相手が誰なのかも判らず、その言葉は何を意図するのか、などと黙ったままあれこれと考えているうちに、再び、溜息が受話器から漏れた。
「あなたがそう望むなら、別に私はいきり立って反対するつもりはないけど、でも、早くはっきりとしておいたほうがいいと思うの。子供たちのためにも。判るでしょう?」
それを聞いて、ようやく状況が飲み込めてきた。
僕を、誰かと勘違いしている。
誰か―――考えて、思い当たったのは兄だった。
そして受話器の向こうの相手は、恐らく、兄の妻である人、なんだろう。僕を兄と取り違えている。それほど、僕の兄の声は似ているのかな、と思い返してみたが、自分が思うほどに、推し量れない。似ているようにも、似ていないようにも、感じる。
「あの・・・」
「どうせその島に、あの女もいるんでしょう?」
相手の勘違いを正そうと口を開いた途端に、責め立てるような声をかぶせられた。
「お義父さんのお葬式にかこつけて、本当はそこで、あの女と会ってるんでしょう?もうお葬式なんてとっくに終わったじゃない。まだ帰ってこないのは、あの女もそこにいるからなんでしょう?」
一息にまくし立てられ、完全に言い返すタイミングを逃してしまった。いや、相手の勢いに圧されたというより、その言葉の意味するところが、僕を黙らせた。
あの女―――誰を指しているのか、想像できてしまう。できてしまうことが、憤りではなく、虚しさを募らせる。
「とにかく、2、3日のうちに一度、帰ってきて。本当にその気なら、必要な書類なんかも、私が用意しておくから」
一方的にそう言い残されて、電話は切れた。受話器の向こうの相手の声は、こころなしか、語尾が震えていたように思えた。
そう望むなら、その気なら―――曖昧にぼやかされた言葉の裏側の、真意。きっとそれは、『別れ』を指しているのだろう。
別れなければならない理由。つまり、『あの女』の存在。
兄の背後に見え隠れしていたものが、僕の頭の中で、徐々に線を結んでいく。
何故兄が必死に何かを隠そうとしていたのか、むきになって僕を遠ざけようとしていたのかが、くっきりとした輪郭を持ち始める。
父を憎んでこの家から逃げ出した兄は、多分、父と同じ轍を踏んでいるんだろう。
そして、父と同じ相手を、偶然なのか必然なのか、選んでしまったのだ。
受話器を戻しながら、目を閉じる。ゆっくりと。
兄と、彼女の顔が、瞳の裏に交互に蘇り、薄れて、消えた。
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