24. Mother's Back

 家に帰ると、母は庭に出て、植栽に水を撒いていた。ただただ、いつもの生活のリズムをなぞっているだけで、心が体から離れてしまっているような空虚さを背負いながら。縁側に立ってそんな母を見つめる僕に気付かないくらい、無心に。

 「あの人って、誰のこと?」

 母の背に向けて、言った。

 酷な事を尋ねていると、判っていた。母のその脆い後姿に追い討ちをかけるようなことだと、承知していた。知っていて、聞いた。

 母の動きが止まった。手に持ったホースの先から、母の足元にとめどなく水が滴り落ちる。はねた水が、母のサンダルを濡らす。それでも、母は動かない。僕はすぐ側にあった庭先の蛇口を閉めると、もう一度、言った。

 「兄さんと話してたあの人って、誰のことなの?」

 母はようやく僕を振り向いた。

 何もかもを諦めてしまったような力の無い微笑みが、母の顔に貼りついていた。

 「お兄ちゃんには、淳に話すなって言われてるんだけど、別に、いいわよね」

 母はとぼとぼと力ない足取りで縁側まで戻って、僕の立つすぐ脇に腰掛けた。僕も、母のすぐ横に腰を下ろし、並んで座った。

 間近で見る母の横顔は、遠めで見るよりもはっきりと、母の老いを痛感させた。単純に10年という年月だけが刻んだものではないのだろうということも、一緒に。

 「今ね、島にお父さんが昔付き合ってたって女の人が来てるの」

 呟くように、母が言う。

 やはり、彼女のことだ。

 「もう会ったよ、その人」

 僕が言うと、母は少し目を見開いて驚いた素振りを見せたが、そう、と溜息混じりに返して、またすぐに、力の無い笑みを浮かべた。

 「親父が死んだ理由って、その人と関係あるんでしょう?」

 母のくたびれた横顔に問いかける。母を追い詰めているようで、鞭を打っているようで、胸がきしりと音を立てる。が、聞こえない振りをした。

 母はゆっくりと、首を横にふった。

 「それは判らないの。あの人とお父さんがどの程度の関係で、どういうことを話していて、どんな生活をしていたのかなんて判らない。遺書も無かったし。ただ―――」

 母はそこで一度言葉を切った。そして空を仰ぐように見ると、眉根に皺を寄せた。疲れきった表情の中で、母の瞳だけがぎらついた。

 「あの人が訪ねてきた理由は知ってる」

 母の目の奥の、どぎつい光に気圧されて、僕は思わずたじろぎ、言葉を継げなかった。黙っている僕に、母がまっすぐにその光を向ける。

 「骨が欲しい、って言うの」

 胸の中の何かを無理やり押さえ込んだようなその母の声は、僅かに語尾が震えていた。

 「骨?」

 僕が聞き返すと、母はゆっくりと、力強く頷く。

 「そう、お父さんの遺骨が欲しいって。ほんのひとかけらだけでもって」

 母の目が、更に強く深く、ぎらついた。ものすごい威圧感が、そこからあふれ出ていた。正面からそれを受けきれず、僕は目を逸らした。見たことの無い母の表情にうろたえた。

 「なんで、そんなものを?」

 「知らない。でも、渡さない。もう、いいでしょう?死んでしまって、あの人はやっと私のところへ帰ってきてくれたんだから、もう、私があの人を独り占めしたって、いいでしょう?」

 途中から、涙声に変わっていた。そのまま、嗚咽を漏らしながら、母は悲しみからなのか悔しさからなのか、くしゃくしゃに崩れてしまった顔を、両手で覆った。

 やはり酷な事をした。そう思った。思ったが、釈然としないのも確かだった。

 何故は母こうまでして、父を追い続けるのだろう。

 父が母にとって、最善とは言わないまでも、せめてありきたりな夫であったのなら、まだ納得できる。でもそうじゃない。父はずっと、母を傷つけてきた。傷つけるのはいつも、父だった。

 もう開放されたっていいじゃないか。父はもういない。もう、母を縛り付けるものは何も無い。なのに母は、自らしがみ付いて、傷つき、苦しむ。もういいじゃないか。もう―――

 その時だった。

 唐突に二の腕を引かれた。無理やり立ち上げさせられ、そのまま引っ張られた。

 兄だった。

 「ちょっと、兄さん・・・」

 僕の腕を強引に引く兄に逆らおうとしたが、有無を言わさない勢いが、その時の兄にはあった。仕方なく、引かれるがまま、兄に続いて縁側を離れた。振り返ると、母はまだ顔を両手で覆って、背中を小刻みに震わせていた。

 記憶のどこかと、重なる光景。

 そうだ、まだ幼かった頃に見た、夜中に台所で震えていた、あの母の背中。

 確かめなくてはいけない―――その決心が、少し揺れた。

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