25. Shadows Beyond Him

 玄関を出たところで、ようやく兄は僕の手を離した。

 その勢いから、僕は、兄は怒っているものかと思っていた。父の死に打ちひしがれてしまっている母に、追い討ちをかけるような詰問をして、母をことさらに苦しめている僕に、憤っているのだと思った。でも、兄の浮かべていた表情は、怒りと言うよりもむしろ、怯えているような印象を抱かせるものだった。

 「このことは、俺が始末をつけるから、もうこれ以上関わるな」

 命令口調ではあったけれど、やはり何かを怖がっているような怯えが、兄の声に溶けていた。

 「兄さんも知ってたんだ。彼女のこと」

 僕は僕で、まるで他人のようにつまはじきにされている気分になって、少しむっとして、そう返した。兄は僕の言葉に眼を見開いて驚き、少したじろぐように身を引いた。

 「お前も、知ってたのか?」

 「知ってたっていうか、この島に着いて、彼女とちょっと話す機会があって、なんとなくそうなのかなって。はっきりと判ったのは、さっき母さんに聞いた時だけど」

 「彼女と話す機会って、何を話したんだ?」

 今度はつっかかるように、兄は僕に向けて身を乗り出す。兄の動揺とか、焦りとか、心の揺れとかいったものが、落ち着かないその挙動から漏れ落ちているようで、でもその根源がいまいち曖昧で掴み所がなくて、不自然だな、と僕は思わず眉をひそめた。

 「何って、親父のファンだったとか・・・」

 と、答えたところで、彼女があの岬で漏らした言葉が脳裏に蘇る。

 『どこまでを人殺しと言うのかな』

 生前に同じ場所で父が呟いた言葉を、偶然なのか、彼女も同じように口にしたあの時の光景が、くっきりと脳裏に浮かんだ。

 ただ、それを今この場で兄に説明するのは、なんだかいけないことのように思えた。根拠は無かったけれど、何となく。

 その代わりに、もうひとつの、彼女の残した言葉を口にした。

 「そういえば、私が坂巻剛を殺した、とか言ってた」

 兄の眉が、ぴくりと小さく震えた。

 「酔っ払って、寝ぼけてて、ちょっとひどい状態の時に言ってたことだから、信用できないけど。でも、親父は自殺したんだよね?」

 僕の問いかけに兄はすぐには答えず、低く唸るような声を漏らした。そして腕を組んでうつむくと、うつむいたままで、ぼそぼそと呟くように言った。

 「話したのって、それだけか?」

 「それだけだよ」

 「そうか」

 と、面伏せたまま答える兄を見て、昔と変わらず不器用だな、と思った。そんなやりとりをすれば、僕が知らない何かを兄が隠しているなんて事は、誰にでも判る。

 「兄貴、なんか隠してることあるの?」

 ストレートにそう尋ねた。兄は跳ねるように伏せていた視線をあげ、すぐにそれを脇に逸らして、「別に」と短く答えた。やはり、不器用すぎるほどの判り易さで。

 本当に変わってない。そしてきっと、何をどう尋ねても、もう何も答えてくれないであろう頑なさも、昔のままなんだろうと思いつつ、素直にそんな兄の性分を飲み込んでしまうのも、どこか癪に障った。だから僕も意固地になって、少し冷めた口調で、突き放すように、言った。

 「親父の骨、あげちゃえば?欲しがってるんでしょう。それで解決することなんじゃないの?」

 「駄目だ。それは絶対に駄目だ」

 「母さんが傷つくから?でもこのまま彼女に付きまとわれたほうが、つらいんじゃないの?別にいいじゃないか、骨のほんのひとかけら、母さんに気付かれないように兄貴がそっと抜き取って、彼女に渡せば。それで彼女がおとなしく引き下がってくれるなら、そのほうがいいじゃないか」

 「何も判ってないくせに軽々しく言うな」

 兄が声を荒げる。だから、僕もつられてむきになってしまう。

 「だったら判らせてよ、俺にも。こそこそ隠してないで、知ってること全部言えばいいじゃないか」

 「知ってることなんて無い」

 「馬鹿にするなよ。俺だってそんな鈍感じゃないんだ。兄貴の態度を見てれば、何か隠してることぐらい判るって―――」

 突然、兄の手が僕の頬を打った。痛さというより驚きで、僕は押し黙ってしまった。

 「この家からずっと逃げてたお前に、このことにかかわる資格は無いんだ」

 さっきまでの興奮を掻き消してしまったような静かな、でも引き締まった口調で、兄が言った。ただ、兄の言い放った言葉の意味を、かみ締めればかみ締めるほど、身勝手な理屈に思えてきて、じんじんと痺れる頬の痛みと一緒に、憤りも膨らんできた。

 「兄貴だって、逃げてたじゃないか」

 怒りに任せて、言った。兄の口調を真似て、静かに、それでいて責め立てるような厳しい口調で。

 でも兄はもう、ひるまなかった。今度は静かに、首を横に振った。

 「だから、お前は何も判ってないって言うんだ」

 その時、兄の発した言葉の意味以上に、兄の顔に落ちた翳りに、有無を言わさない圧力のようなものを感じた。兄は僕を納得させるようなことは何ひとつ、口にしていない。でも、その兄の背負った空気が、僕をこれ以上抗わせなかった。

 「とにかく、俺に任せておいてくれ」

 そう言って僕に背を向ける直前の兄の横顔が、妙に胸に突き刺さる虚しさを携えていた。

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