22. An Urge

 それは本当に、気まぐれだった。

 何かを予感したわけでも、勘ぐったわけでもない。ただ単純に行き場が無くて、僕はその場所に向かっただけだった。

 線香を手向けた後、母に近況を報告した。しんみりと頷きながら僕の話を聞いていた母だったが、きっと僕の話していることは、母の耳までは届いても、胸の中までは届いていなかっただろう。

 母はただ目を潤ませて、僕を見ていた。

 そう。ただ、見ていた。

 母だけが、強固で健全で慈しむべきだと思い込んでいる、家族の絆とかいう、本当はおぼろげで脆い母と兄と僕と、今はいない父とのつながりを、母は僕の姿を通して見て、すがり付こうとしているだけだと、判った。判ってしまったから、母の盲目さが、僕には苦痛だった。そして、僕はその痛みから逃げるように、散歩してくるなんてとってつけた言い訳を吐いて、家を出た。

 殆ど無意識だった。何も考えずに拓郎のバイクを駆り、辿りついたのは、あの東の端の岬だった。

 道端にバイクを停め、岬の先端まで出たところで、先客を見つけた。

 彼女だった。

 昨日と同じ場所で、昨日と同じようにほんの少し手摺りの向こうに体を投げ出して、海を眺めていた。

 本当に期待も予感も無く、衝動に従ってここに向かっていただけだ。彼女が再びここを訪れているなんて、これっぽっちも勘ぐっていなかった。だから驚いて、そして、少し喜んでいる自分に気がついて、なんとなく、悟った。

 僕は、彼女を気にかけている。

 父のファンだということ。

 意図的にか無意識にか、とにかく、父の漏らした言葉をなぞったこと。

 恐らく生前の父となんかしらの接点があったんだろうという、曖昧な憶測。

 それ以外、何も知らない彼女を、僕は、少なからず気にかけている。

 彼女の放つ妖しい艶とか、少しアンバランスで、だからこそ綺麗と感じる顔立ちとか、どことなく漂ってくる危うい空気とか、そういった彼女の印象全てが、僕の胸の奥のほうを、ほんの微かに、火照らせる。ほんの少しだけ、脈を早く波打たせる。

 不思議な感覚だった。

 「ストーカーですか?」

 僕の気配に気付いた彼女は、からかうような口調とも、蔑むような口調ともとれる、あやふやな声色で、振り向きながら言った。

 「偶然だよ、本当に。つけてきたわけじゃない」

 少しむきになって否定する自分が、滑稽に思えた。

 「私はストーカー、みたいなもんかな」

 言って、彼女は笑む。やはり、からっぽの笑みだ。

 「ストーカーって、親父の?坂巻剛のって、こと?」

 「やっぱり、坂巻剛の息子なんだね、あなた」

 「君は、親父のファンなんだろう」

 「ファンて言うか、やっぱりストーカーかな。死んじゃっても、あの人のこと追いかけてるし。うん、立派なストーカーだね、私」

 「そんなに好きだったんだ、親父の絵」

 僕の言葉に、突然彼女は吹き出した。あまりにも唐突だったので、思わず思考が固まる。

 「私がゲージュツのことなんて、判るわけないじゃん」

 ゲージュツ、というイントネーションの軽さが、彼女の若さを感じさせた。やはり若いのだ。笑いながらのけぞる彼女のしぐさのふしぶしから、若いからこその無邪気さが、零れ落ちた。

 でも―――と僕は再び、止まってしまった思考を蘇らせる。

 だったら、彼女と父とをつなげるものはなんなんだ。

 以前にも抱いた、一番当たって欲しくなかった予感が、また脳裏を過ぎり、慌ててもみ消す。でも今度は、上手く消え去ってはくれない。

 娘ほどに歳の離れた彼女と、父との関係。

 何人もの女性を囲っていた、父との。

 彼女は父の―――

 嫌悪感で、肌が泡立った。鈍く重く僕の胸を打った。

 これは、父に対する憤りなのか―――違う。

 僕の嫉妬?

 父に対して?

 僕はやっぱり、ただ気にかけているだけじゃなくて、彼女を好きになってしまった?

 判らない。

 とにかく、動揺した。体の中の水分がすみからすみまで波打つような悪寒が走った。

 「じゃあ、なんで?」

 知りたくない。本当は。でも、そんな意志とは無関係に、あれこれと妄想する僕自身の想いが、その指す方向を恐る恐る覗き込むように、僕に尋ねさせた。途端に、彼女の笑い声が止んだ。一瞬押し黙って、でも、からっぽの笑みを携えたまま、彼女は言った。

 「判ってるんでしょう?私はあの人の恋人だから」

 避けて通りたかった現実を、突き付けられた。鈍器で打ちつけられたような鈍い痺れが、胸に走った。

 判っていたはずなのに。

 何でわざわざ確かめた?

 知らなくてもいい現実だって、あるじゃないか。

 自分で自分を責める声が、どこかから聞こえる。

 「恋人っていうか、不倫相手?情婦?愛人?まあ、呼び方は何でもいいけど」

 彼女の淡々とした口調が、ことさらに、僕を痛めつけた。

 彼女の語る現実が、僕を打ちのめした。

 そして、そこから先、僕はどんな感情を持って行動していたのか判らない。衝動が感情を覆いつくして、隠して、僕の意識とは別に、勝手に動く手足に僕は僕自身を委ねていた。

 手摺りに寄りかかっていた彼女の手を強引に引き、草むらの上に押し倒し、覆いかぶさった。

 彼女の纏うワンピースの藍色がひらりと舞い、尾を引いた残像が、海と空の蒼に溶けた。

 捲れたスカートの裾から覗く彼女の脚の白が、まぶしく僕の瞳に映りこんだその時、胸の奥から突如湧き出したざわつきが、体中を駆け巡り、肌を粟立たせた。

 僕は、止まった。ざわつきが、僕を止めた。

 そのまま、僕の下で横たわる彼女を見た。

 彼女も僕を見ていた。

 からっぽの笑みが、僕を見上げていた。

 「やっぱり、臆病なんだね。最初に会った時から、判ってた。あの人と、同じだ」

 彼女がそう言うと同時に、僕は跳ね上がるように彼女から離れた。

 自分の行動が突然くっきりとした輪郭を持って、リアルに僕の脳裏に蘇る。同時に、自分自身に対する嫌悪感が、僕の体を小刻みにわななかせた。

 「―――ごめん」

 震えて、擦れた声を絞り出すように、言った。

 言って、素早く踵を返すと、街道へと続く緩い坂を駆け下りていた。

 僕はまた、逃げ出した。

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