21. Hidden Under Words
十年ぶりに実家の玄関をくぐると、昔よく馴染んだ、懐かしいこの家の匂いが鼻を突いた。
懐かしいと感じて、気付く。この家に住んでいた頃は、あたりまえだが、そんな匂いなど気にも留めなかった。今、こうしてこの匂いを懐かしいと感じてしまうのはきっと、僕がもう完全に、この家に属さない人間になってしまったということなのだろう。それが寂しいことなのか、気に病む必要も無い些細なことなのかは、判らないけれど。
母は、居間にいた。真新しい仏壇の前に置いた位牌と遺影と、恐らくは遺骨の納められている、白く艶のある布に包まれた四角い箱を眺めながら、力なく座り込んでいた。
小さくなった。縮こまった。母を見てまず、見たままに、そう感じた。
母の体から染み出す衰えという名の人の弱さが、部屋の中の空気に溶け、方々から、今度は僕の体の中に向けて染み込んできて、それは一筋の針となり、胸の奥の、ずっとずっと奥の一点を、ちくりと刺す。
痛い。
僕は口の中で、声にならない声で呟く。
母の衰えは、単純に齢を重ねたからなのか、父が逝ってしまったからなのか、判らない。もし、父が逝ってしまったから、なのだとすれば、死んでしまってもなお母を苦しめる父を、憎むとは言わないまでも、僕はやはり、許すことができない。すんなりと、父が逝ってしまったことを、悲しむことなど、できない。
「ただいま」
黙ったまま、母の姿を見続けることがいたたまれなくて、僕は口を開いた。
母が僕を振り向く。途端に、それまでは血色の良くなかった母の顔に、ほんのりと熱が差した。
「淳・・・よく帰ってきてくれたね、よく・・・」
そこで、母は言葉を詰まらせる。目を潤ませて、僕を見上げる。でも、立ち上がろうとはしない。父の残骸の乗せられた仏壇から離れようとは、しない。一瞬腰を浮かせたが、父の遺影と位牌と遺骨とに一瞥を投げ、また、すとんと腰を落とした。
痛々しかった。死んだ父に今もなおすがりつこうとする母の姿が、哀れでならなかった。
「納骨はいつなの?四十九日までは待てそうも無いんだ。仕事が溜まっててさ」
嘘をついた。
切羽詰った仕事の予定など、ひとつも無かった。
ただ、逃げ出したかっただけだ。
あまりにも母が痛々しくて、とにかく用件だけ早く済まして、この場を、この島を離れたかった。だから胸の裡のざわつきを誤魔化すように、早口で、無理に軽い口調で、そう言った。
「いいのよ、大丈夫。淳がね、戻ってきてくれただけでいいの。それだけで、お父さん喜んでるから、ねえ」
言って、母は父の遺影に力ない笑みを投げる。その姿は、僕の胸の奥を鈍く軋ませる。
「とにかくほら、お線香、あげて頂戴よ。お父さん、喜んでくれてるから、きっと―――」
力なく立ち上がった母と入れ替わり、僕は仏壇の前に腰を下ろした。
父の遺影を、ちょうど正面から見据える形になる。カメラの前に立つといつも憮然とした表情をしていた父が、そのままに、モノクロの写真の中に納まっている。今まで、疎んじ、避け続けてきた父が、写真の向こうから、何もかもを拒否しているような眼差しを、僕に向けている。
今となっては、僕がどんな想いを、どんな感情を返そうとしても届かない、黒光りする額縁の中に収まった父。
僕は思う。
僕が父に返すべき想いは、感情は、一体何なんだろう。一体、どんなものであるべきなんだろう。
答えの出ない問いかけから逃げるように、僕はそそくさと線香を手に取り、弱々しい炎を放つろうそくにその先端をかざして火をつけると、掌で仰ぎ消して、香炉に差し込んだ。
香炉の中の灰に線香が沈んでいく時の感触が、生々しく掌に伝わってくる。その生々しさが僕に何かを悟らせてくれるのではないかと、ほんの一瞬、淡く期待したが、無駄だった。僕の胸の中に居座る父の像は、今もまだ、おぼろげなままだ。
「さっきあの人、来たの。本当に来たのよ」
気持ちも載せられないまま、慣例にただ無意識に従うように、父の遺影に向けて手を合わせた時、母の呟きが背中にぶつかった。兄に向けて耳打ったような、くぐもった声色だった。
「気にしなくていいから。俺にまかせておけばいいから」
兄が返す言葉も、湿った膜に覆われたように鈍く響いた。もう何も言うな、という威圧も、その口調の中にほんの少し、溶け込んでいるように思えた。
あの人―――
やはり、彼女のことなのだろうか。
振り向いて兄を見た。目が合うと、兄は逃げるように視線を窓の外に逃がした。
兄は、何かを知っている。
『私が坂巻剛を殺した―――』
彼女の言葉が、また耳の奥で響く。
『どこまでを人殺しと言うのかな』
父の声とシンクロしたもうひとつの言葉も、一緒に。
兄は、きっと知っている。その言葉の意味を。
判るのはそこまでで、それが具体的に何なのかなんてことまでは、兄の少し引き攣った横顔から、読み取ることはできなかった。
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