20. A Right

 実家に続く緩い坂を登りきったところで、玄関先に立つ人影が目に付いた。

 濃い藍色のワンピースの裾を、初夏を迎える直前の季節独特の、生暖かい風に僅かに揺らめかして、あの彼女が、そこに立っていた。

 すぐに、彼女だと判った。

 服装は昨日とは全く違うし、そこから与えられる印象も別人のようだったにもかかわらず、彼女だと、一瞬で判った。

 きっとそれは、目に映る彼女の姿そのものを見た、と言うより、彼女の纏った艶のある雰囲気を、その空気を、見ていたからなのかもしれない。

 帰郷して以来、行く先々でちらつく彼女の姿が気になった。僅か一日の間に、偶然にしてはあまりにもよく見かける。確かに大きな島ではないが、島民の誰もを知っている、というほど小さな島でもない。彼女が父のファンだから、という思いが脳裏を過ぎったが、それだけでは納得できないざわつきが、胸の中で沸く。

 『私が坂巻剛を殺した―――』

 彼女の意味深な言葉も、耳の裏側で蘇る。

 何かが、ある。僕の知らない、何か。

 漠然とそう思って、歩み寄ろうとした矢先に、並んで歩いていた兄が駆け出した。あまりにも唐突だったので、僕は思わずその場で立ち尽くしてしまった。

 兄は彼女に駆け寄ると、彼女に向けてひとことふたこと話しかけ、彼女もそれに何かを返す。声を張り上げているわけではなかったが、遠目にも兄の表情が険しいことは判った。反して彼女は、笑んでいるように見えた。兄に責め立てられて苦笑しているわけではなく、楯突くような挑発的な笑みでもない。どこかで見たことのある、とらえようのない微笑。

 どこで?

 自分の胸のうちに問いかけた刹那、優希の顔が浮かんだ。

 優希と、淡い暗がりに包まれた砂浜。

 そう。昨日の夜、優希が見せた、あのからっぽの笑みにそっくりだった。

 彼女は、責めるように彼女に何かを語りかけている兄を無視して、その笑みを僕に向けた。そして、兄にはかまわず、僕に向かって歩き出した。言葉尻を切られてしまったのか、兄は一瞬たじろいだ後、諦めたように、苦い表情で彼女の背を見ていた。

 からっぽの、笑み。

 昨日の夜の優希と、優希の話に重ねながら、近づいてくる彼女の浮かべた笑みの意味を、からっぽの笑みが生まれるわけを、探った。でも、何も判らなかった。見当もつかなかった。情けないくらいに僕は愚鈍なんだと、思い知らされるだけだった。

 僕のすぐ傍まで来ると、彼女は笑んだまま小さく溜息をついて、呟くように言った。

 「私たちにも、権利はあると思うんだけどな」

 「権利?」

 「そう、権利」

 「何の?私たちって、君と、誰?」

 僕の問いかけを空っぽの笑みでかわして、彼女は何も答えずに僕の横をすり抜け、兄と僕とが登ってきた緩い坂を下りていった。

 僕は呼び止めることもできず、呆然と彼女の背中を見送るだけだった。

 権利って、何の?私たちって、彼女と、誰なんだ?

 どんなに考えても、何も浮かばない。イメージすらおぼろげで、像を結ばない。ただひとつだけ、今まで彼女を見ていた時とは違う、不思議な感触が胸のずっと奥の方にあった。

 疼くような、息苦しいような、でも、失ってしまいたくない、矛盾した感情。そこから発せられる微熱。

 その正体は、判らない。判らないほうがいい、と誰かの声が胸の中で響いた。何でそう感じたのかは理解できなかったが、血が、僕の中を流れる血が、語りかけているような感覚だった。。

 とにかく、何もかもが判らなくて、考えることを諦めて、振り向いた。振り向くと、兄も呆然と立ち尽くしたまま、彼女の背を目で追っていた。僕の視線に気付くと、ゆっくりと目を伏せて、肩を大きく揺らしながら溜息をつき、もう一度僕を見た。苦々しい表情は消えていて、何かを諦めたような苦笑を浮かべていた。

 「彼女のこと、知ってるの?」

 兄に歩み寄って尋ねると、兄は小さく首を横に振った。

 「別に、気にしなくていい」

 「権利、とか言ってたけど、どういう意味?」

 「だから、お前が気にすること無いんだ」

 「でも・・・」

 「いいから。忘れろ」

 ぴしゃりと、兄は言った。突き放すような口調だった。その裏側の真意を知りたかったが、きっとこれ以上しつこく食い下がっても、頑なにはぐらかされるだけだろう。そういう気構えを、その時の兄は背負っていた。

 坂に目を向けると、もう彼女の姿は見えなかった。行ってしまった、という事実が、僕の胸の奥の微熱を、ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけ、まるで僅かに火を携えた炭に息を吹きかけたときのように、ぼうっと熱を増し、すぐに、くすんだ赤黒い塊に戻った。

 どこかで経験したことのある感触だった。それがいつ、どこでなのかは、見当がつかなかった。

 見当なんて、つかなくていい。

 何かを誤魔化すような、僕の血の声が、また、聞こえた。

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