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 初めて夜半光と出会った日のことを思い出す。

 どれだけ期待の新人とされていようと、所詮は素人の高校生だ。光るものはあるのかもしれないが、プロとして作品を出すにはきっと色々と手を加えないといけないのだろう。そう思いながら、彼女の応募原稿を読んだ。

 そうして原稿を読んでから初めて彼女と対面で打ち合わせた日のこと。目の前に座る十七歳の少女は、自分の倍近く年を重ねていた音無に対して明らかに委縮していた。大人の男にあまり慣れていないのだろう。だが、そんなことは一切気にせずに自分がかけた言葉を、音無はよく覚えている。

 「初めまして、担当編集の音無です。単刀直入に言うけど、ぶっちゃけ君、絶対デビューできるよ。原稿も大きく直すところもないから、今日からもう次回作の話もしていこうか」

 夜半は一瞬何を言われたか理解できていなかった様子だったが、それが最大級の賛辞だと気づくと、これ以上にない笑顔を浮かべた。


 今、あの時と同じ店、同じ席で音無は夜半と対峙していた。だが、目の前にいるのはあの時のような年端も行かない純粋無垢な少女ではない。五年の空白を経て大人となり、二人の人間を狂わせた原稿を書いた張本人である。

 聞きたいことは無数にあった。だが、まず何よりも聞かなければならないことがある。前置きを無視して、音無は口を開いた。

 「夜半。あの原稿はなんだ」

 出し抜けに尋ねられても、夜半は一切動じずに微笑む。何を聞かれるかすべて想定しているような落ち着きようだ。

 「先生は読んでくださっていないんですか?」

 「……お前の作品を読んだ作家と編集者は、片方は自宅で倒れ、片方は病院送りだ。そんな得体のしれないもの読めるわけがないだろう」

 そう音無が答えると、夜半は少しだけ寂しげな顔を浮かべた。だが、その音無の答えもすべて見越していたかのようにすぐに平静を取り戻す。自分の原稿を読んだ人間が倒れたということには、あまり興味を示していないかのような反応だった。

 「そうですか……きっと先生も、読んでくださればわかってもらえると思うんですけどね」

 読めばわかる。夜半は憔悴しきるまで応募原稿を読み続けた矢車と同じセリフを吐いた。思わず背筋がぞくりとする。やはり、矢車に起きた変化は彼女の原稿を読んだせいなのだろう。

 「あの原稿を読んだうちの編集者は、それからたっぷり四十時間狂ったように応募原稿を読み続けた。それこそ何かに取りつかれたようにだ。なあ、夜半」

 そこで音無は言葉を切ると、乾いた喉に水を流し込んだ。この続きを彼女に問うことは、開いてはならないパンドラの箱を開けることになるかもしれない。そんな緊張感が、音無の体全体から水分を奪っているような気がした。

 だが、今さら止まれるはずもない。音無はじっと彼女の両目を見つめ、慎重に言葉を発した。

「お前は何か、他人を丸ごと変えてしまうような作品を生み出す力を得てしまったんじゃないか?」

 

 音無の問いかけに対し、夜半はじっと何かを考えるような眼をしたままこちらを見返してきた。互いに無言の時間が続く。隣で緊張感に耐えられずに、月島が身じろぎする音がやけに大きく聞こえた。

 しばらく続いた沈黙を破ったのは、夜半であった。

 「先生。逆に聞きますけど、私に読んで人の精神を丸ごと変えられる、そんな小説が書けると思いますか?」

 逆に問いかけてきた夜半の質問に、音無の思考は短時間で答えを出した。そして即座に彼女の問いに答える。

 「無理だな。お前の小説は、そういう類のもんじゃない」

 音無は断言する。確かに夜半には小説家としての天武の才がある。だが、彼女の生まれながらの才能は、誰かの共感性を引き起こせるその文章力だ。

 彼女の書く小説には、革新的なストーリーも強烈なキャラクターも存在しない。それでも彼女の作品が数多の作品の中からPFノベル賞の頂点に立ちかけたのは、ひとえに読んだものに強い共感を与えることができる表現力ゆえだった。要するに、楽しい気持ちにさせたり、悲しい気持ちにさせたりするのが尋常ではなく上手なのだ。笑わせるのも泣かせるのもお手の物。それはエンタメ作品を作るうえで唯一無二の武器になる。まさしく天才と呼ぶのにふさわしい才能だ。

 だが、言い換えれば、彼女は天才ではあるが奇才ではない。彼女の小説は、純粋に読者の感情を揺さぶるものであり、決してその精神性を揺るがすような毒をもったものではないはずだ。

 もしかすると、この世のどこかには読んだ人間の精神を狂わせ、全く別人にしてしまう。そんな小説もあるかもしれない。だが、かつての担当編集者として、夜半の書く小説にそういった効能があるとはとても考えづらかった。

 それでも、あの応募原稿に何か秘密があったのは確かなはずだ。でなければ、説明がつかないことが多すぎるのだ。

 そんな音無の真剣な目を見て、夜半は観念したように深いため息をついてから苦笑いを浮かべた。

 「やっぱり先生の目はごまかせませんね」

 その彼女の言葉が、全てを物語っていた。それって、と口をはさみそうになる月島を目で制し、音無は夜半に先を促す。

 「先生。あの時は何も言わずに全部投げ出してしまってすみませんでした。今日は、全て離させていただきます」

 そう言って悲し気な笑みを浮かべる彼女の顔が、六年前に両親に小説家になる道を阻まれた十七歳の少女のそれと、重なったような気がした。

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