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 夜半のその宣告は、まさしく青天の霹靂だった。

 この二年間、学業と並行しながら夜半は複数の作品を仕上げてきた。どの作品も、一作目に負けず劣らず完成度が高いものばかりで、そのすべての原稿が音無には輝いて見えていた。

 一年前にPFノベル賞の大賞を影で受賞していた処女作が世に出れば、間違いなく一気に話題になる。その後、書き溜めた作品を立て続けに発表すれば、間違いなく夜半光はスターになり、一気に出版界に新しい風を吹き込む。そんな青写真を、当時の音無は描いていた。

 だが、どれだけ音無が宥めても、夜半は頑として自分の意思を曲げることはなかった。それどころか、彼女は自分が筆を折る理由すら話してくれることはなかった。この一年間、いつか来るデビューの日に備えて二人三脚で夜半を育ててきたつもりだったが、結局音無は彼女の信頼を勝ち得ていなかった。

 保護者からの条件を満たしていようと、本人からの同意がなければ作品を出版することはできない。結局、音無が夜半に担当編集としてついていた一年間は無駄になった。しかも、デビューすればヒット確実とされていた作家の卵をみすみす逃してしまった音無に対する責任は重かった。表立って処分されるようなことはなかったが、それから今日に至るまで、どれだけ実績をあげようと、音無が昇進することはなかった。


「以上が俺の知る夜半光の全てだ」

 語り終えると、ちょうど注文していたブレンドコーヒーが運ばれてきた。こちらの話がひと段落するのを見計らってくれていたのかもしれない。気の利いている店だなと思いながら、音無は乾いた喉に熱いコーヒーを流し込んだ。

「そんなことがあったんですか……音無さんも大変だったんっすね……」

 月島はそう言って同じく運ばれてきたオレンジジュースに口をつける。彼女なりに慰めようとしているのかもしれないが、相変わらず軽々しい物言いだった。

 月島の言う通り、夜半の一件の責任を取らされる形となった音無のそこからの苦労は並大抵のものではなかった。必死で仕事を続けてきた甲斐あって編集部に居続けることができたが、他の社員のように出世したり役職に就いたりすることはなかった。

 それでも、音無が会社に居続けたのは、ひとえに夜半のような才能が忘れられなかったからだ。八回目を迎えるPFノベル大賞において、上層部が大賞受賞作を一度も選出しなかった理由も、音無にはよくわかる。夜半がもつ異次元の才覚は、それほどまでに強烈なものだった。

「でも、なんで夜半さんは今になってうちに応募してきたんすかね?心変わりして、作家になりたくなったとか?」

「いや、それはないな」

 月島の言葉を音無は一蹴する。もし何かしらの心境の変化があって夜半が本気でデビューしたくなったのなら、新人賞に応募せずとも音無に連絡をすればよいだけの話だ。仮に一度デビューを断った前極まりが悪いと思っているのなら、うちではなく他の新人賞に出すだろう。そもそも本気で作家になりたいのなら、一作ではなくもっと多くの作品を応募してくればいい。その方が運悪く途中の選考で落ちることもないし、何より夜半にはそれができる筆の速さがあった。

「じゃあ、一体なんで今になって小説を?」

 月島はそう疑問を口にするが、そんなこと知りたいのは音無の方だった。かつて無限の可能性を見出いし、期待をかけながらもその才が世に出ることがなかった天才が、今になってまた筆をとった。そこには必ず理由があるはずだ。

 だが、そんなこといくら考えたところで結論は出ない。それを知りうるのは、本人だけだからだ。

 そう思った瞬間。店の入り口のベルがカランカランと音を立てた。

 入ってきた女性は店員に待ち合わせですと告げ、まっすぐにこちらの席に座っていた。迷いなく目当ての席を見つけたのは、この店で何度も音無と打ち合わせを行ったからだ。

 最後に会った時と比べて、彼女は随分と垢ぬけているような感じがした。髪を伸ばし、眼鏡はコンタクトに変え、佇まいも凛としている。多少大人びていた落ち着きはあったが、世間知らずで未熟な学生のころとは様変わりしている。席に近づいてきた彼女は微笑みとともに軽く頭を下げた。

「お久しぶりです、先生。お変わりないようで」

 五年前と比べて随分と成熟した彼女は、五年前と全く変わらないトーンでそう挨拶したのだった。

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