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 「私の小説は、あくまで媒介なんです」

 「媒介?」

 音無が聞き返すと、夜半は首肯して続ける。

 「ええ。私自身、直接読者の感情を揺さぶろうと思って小説を書いたことはありませんでした。私がやったのは、読んだ人の経験や記憶を呼び起こすくらい、丁寧な文章を書くことだけでした」

 夜半の説明に、隣に座る月島はきょとんとしている。しかし、かつての担当編集の音無は彼女の言葉を的確に理解した。。

 「つまり、感情が揺れ動く場面やストーリーを読者に的確に伝えて、読者のよく似た経験を呼び起こすことで、その感情を揺さぶっていた、ということか?」

 音無の言葉に、またしても夜半は首を縦に振った。言われてみれば、確かに彼女が六年前にデビューに備えて書いていた作品はどれもそういった作風だった気もする。

 彼女は簡単そうに言うが、実践するのは口で言うほど容易なことではない。読者の記憶を呼び覚ますと一言で言っても、生い立ちやバックグラウンドなど人によってさまざまだ。それを一概に呼び覚ます文章など、果たしてこの世に存在するのかと疑問に思われる。だが、それができたからこそ、彼女は天才たりえたのだ。

 しかし、そんな至高の才を持つ彼女は、とても軽い口調で、まるで思い付きでも話すかのように言い放った。

 「ですけど、私ある時気づいたんです。人の感情をそうやって突き動かすことができるのなら、同じやり方で・・・・・・人の欲求をも突き動かせるんじゃないかって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「……は?」

 一瞬、それがどういうことか理解が遅れた。本を読ませることで、人間の欲求を突き動かす。そんなことができるのなら、もはやそれは小説家の域を超えてしまっている。

 その瞬間、全てがつながった。下読みを外注した樋口も、編集者の矢車も、どちらも夜半の書いた原稿を読んでいた。その結果、どちらも肉体の限界を超えて物語を読み続けたのだ。あれは、夜半の原稿によって何らかの欲求が突き動かされた結果だったのだ。

 そして、夜半の応募原稿のタイトルは『本を読みたくなる小説』だった。

「いや……本当にそんなことが可能なのか?」

 思わずそう呟いた音無に、夜半は三度目の首肯を行った。

「そう難しい話ではないんですよ。要領は感情を呼び起こすときと同じです。その人が、ある欲求を強く持っていた時の記憶や経験を呼び覚ますようなストーリーを作って、丁寧に描写してあげるだけですから。特に、読書欲となれば比較的簡単です。誰にだって、面白い本に出合って、早く続きが読みたいと思うような経験はおありでしょうから。私がやったのは、そんな思い出を呼び覚ますためのお手伝いをしただけです」

 滔々と語る彼女の言葉には一切のよどみがなく、それが荒唐無稽な話であるということを忘れさせる妙な説得力すらあった。現に、彼女の書いた原稿は二人の人間に底なしの読書欲を呼び覚ましている。

 彼らは頭が狂ったわけでも、精神を破壊されたわけでもない。ただただ、尋常ではない、「本を読みたい」という欲求に突き動かされていただけなのだ。

 だが、理屈がどうあれ、それが現実を超越した力であることに変わりはない。彼女はその気になれば、自分の書いた文章を読ませるだけで、他人の行動すら操れてしまうのだ。それはもう才能などという生易しいものではない。常識を超えた、人が手にしてはならない力だ。

 そこで、音無はふと気が付いた。この常軌を逸した自分の小説の効能を、夜半はあまりにも的確に知りすぎている。自身の小説が読者に及ぼす影響と、その方法についてなぜこんなににも彼女は熟知しているのか。

 そう考えたとき、音無の頭の中でバラバラだったピースが最悪のつながり方をした。

「お前、ひょっとして、これを人に読ませるの初めてじゃないな?」

 確信をもって音無はそう問いかける。彼女は先ほどまで手を付けていなかったホットコーヒーを少しだけ口にし、居住まいを正して言った。

「私がその原稿の元となる作品を作ったのは、五年前。高校を卒業する二ヶ月前のことです」


「あれは大学受験を間近に控えていた冬の日のことでした。私の両親は決して厳しすぎる人ではなかったんですが、変に真面目というか、頭が固い人で。大学も女の子の一人暮らしは危ないからって実家から通えるところしか受けさせてくれなくて。でも、私は正直大学なんて自分が小説家としてデビューするための条件の一つとしか見ていなかったので、どこでもよかったんです。だから家から通える範囲でちょうどいい大学を見つけて、ずっと待ち焦がれていた作家になれるって思っていました」

 夜半は淡々と当時の記憶を語る。受験を間近に控えていたその頃は音無も夜半とは連絡を取っていなかったため、どういった生活をしていたかは知らない。だが、秋ごろに最後に夜半と二作目以降の打ち合わせをしていた際には、大学受験も問題なさそうだと話していたはずだ。

「ひょっとして、受験に失敗したのか?」

 音無の質問に、夜半は一瞬きょとんとした顔を浮かべて、すぐにクスクスと笑い出した。

「いえ、そういうわけではありませんよ。私だって一日でも早くデビューしたかったですし。受験勉強、結構頑張ったんですよ。けれど……」

 夜半はそこで言葉を区切り、目を伏せた。そうして何か重い罪を告白するかのように、言葉を続けた。

「私は、怖かったんです。大学に入ったとしても、両親が小説家という職業に対して持つ偏見は変わらないでしょう。ひょっとすると、そもそも作家になることを認めてくれないかもしれない。そうすれば、今まで我慢してきたことが全て無駄になってしまうって。でも、私はそんなに弁のたつ方ではありませんし、話し合いで説得できるとは思っていませんでした。だから、小説を書くことにしたんです。私にとって、それが一番得意なことだから。読んだ人が本を好きになって、読書がしたくなるような小説を。そうすれば、きっと両親も作家という職業にもっと好感を持ってくれるだろうって」

 夜半はそこまで滔々と語って見せた後、再びカップを口元に持って行った。話を中断した彼女に代わり、音無が口を開く。

「……そうして生まれたのが、あの小説というわけか」

 音無の言葉に、夜半は小さく頷いた。

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