12
夜半の話を聞いて、音無の中で様々なことがつながった。なぜ五年前に唐突に彼女が筆を折ったのか。また、矢車や樋口を狂わせた小説の正体。どれもにわかには信じがたい話であることに変わりはなかったが、夜半光が書いた小説ならばそういうこともあるだろうと、音無の中では腑に落ちていた。
だが、まだ一つだけ疑問に残っていることがある。音無はその最後の疑問を口にした。
「だったら、なぜ今さらになってうちの新人賞にあの原稿を応募してきたんだ?」
夜半が自分の作品の持つ力を恐れてしまったがゆえに筆を折ったというのなら、その作品をわざわざ新人賞に応募してくることは不自然だ。もし再び本気で作家になりたいと思ったのなら、音無に連絡をいれてくればそれで済む話だし、そうでなくとも彼女にはほぼ完成している未発表の原稿が他にも複数ある。わざわざ自分の両親を狂わせた原稿を応募しなくとも、他にもいくらでも完成原稿はあったはずだ。
にもかかわらず、彼女はなぜ、あの原稿を山中出版に送ってきたのか。音無が問いかけると、夜半は手元のスマホをちらりと確認して、ぽつりと呟いた。
「……そろそろですね」
「そろそろ?何の話だ?」
夜半は音無の疑問には答えず、喋り始めた。
「先生。今日先生をここにお呼びしたのは、五年前のことをご説明するためだけではありません。先生には、ぜひお会いしてほしい人がいるんです」
「会ってほしい人?」
音無がそう聞き返すと、店のドアが開く音がした。
来客は店員と少しだけ会話をすると、音無たちのいるテーブルにまっすぐと歩み寄ってきた。背の高い若い男性だが、お世辞にも身なりが整っているとはいいがたい。半袖のTシャツにハーフパンツという軽装で、乱雑に髭が伸ばされている、寝癖の治り切っていない頭と、隈の深い顔からは昼夜を逆転した生活をしているのだろうということが想像できた。
「光ちゃん」
やってきた男性客は低い声で夜半に呼びかけると、夜半は席を詰めて場所を空けた。その席に男性客が座る。
「えっと……どちらさまですか?」
突然の来客に戸惑う月島が動揺して尋ねる。夜半なにこりと笑って、来客の紹介を行った。
「紹介します。彼は
夜半の言葉に、隣に座った青年が無言で小さく頭を下げた。
「えっと……朝方輝です。一応、小説家を目指して色んな省に出してます。もちろん……PFノベル大賞にも出しました。……よろしくお願いします」
朝方はそうたどたどしい口調で自己紹介した。あまり喋るのが得意なタイプではないのだろう。
「……夜半。会わせたい人っていうのは……」
「ええ。彼、小説家志望なんです。ぜひ、先生の目線からアドバイスをいただきたく」
夜半の言葉が言い終わらないうちに、音無は財布からコーヒー代として千円札を取り出し、机に乱暴に叩きつけた。
「月島、帰るぞ」
「え、でもこの人とまだ話が」
「うちは原稿の持ち込みとかは見てないんでな。それに、うちの新人賞に応募してるなら、なおさら今会うわけにはいかん」
湧き出る怒りを抑えながら、音無はそう言って荷物をまとめた。聞くべき話は全て聞くことができた。もうここにいる必要性はない。一人の作家として敬意を抱いていた夜半が、こんな手段で自分の身内を売り込む策を選んでしまったことに、音無は悲しみといら立ちを覚えていた。
「先生」
立ち去ろうとする音無の背中に、夜半は静かな口調で呼びかけた。弁明でもするつもりなのだろうか。仕方なく、音無は振り返らずに、夜半の言葉を待った。
だが、夜半が口にしたのは、謝罪でも言い訳でもなかった。
「私の原稿を読んだ両親が一週間でもとに戻ったって話したじゃないですか。あれ、単なる自然治癒ではないんです」
「……なんだと」
「もちろん、時間が解決してくれる可能性がないわけではないんです。でも、確実に読書欲を抑えたいのなら、これが役に立つかと思いますよ」
音無が思わず振り返ると、夜半が一冊の原稿を取り出していた。『本を読みたくなる小説』と同じくらいの分厚さのそれは、同じく夜半が書いた小説の原稿なのだろう。
「なんだそれは」
音無が尋ねると、夜半は笑みを浮かべた。その顔を見て、音無はこれが弁明などではなく、取引か、あるいは脅迫のたぐいであることを思い知った。
「これですか?これは、『読書に満足する小説』です」
その言葉に、音無の背中に寒気が走った。なぜそんなものが存在するのか。理由は簡単だ。
あの原稿がない限り、矢車や樋口が確実に元の状態に戻る保証はない。夜半がやっているのは、最早脅迫となんら変わりないことだった。音無に選択権はなかった。
「……三十分だけだぞ」
「十分です。ありがとうございます」
再び座席に座った音無に、夜半はにこやかに微笑んだ。状況がイマイチ呑み込めていない朝方も、夜半に倣って小さく頭を下げた。
それからおよそ三十分間。音無は朝方と会話を重ねた。
最初はどんなことを話をさせられるのかと警戒していた音無だったが、朝方は拍子抜けするほど純粋な質問しかしてこなかった。新人賞の選考基準や選考体制などの、審査する側の情報は一切尋ねてこなかった。彼が興味を持っていたのは、賞に関することではなく、いかに面白い小説を作るかという点のみだった。音無が危惧していたような、コネや人脈を生かしてのデビューなど端から眼中に内容だった。
話の中で、朝方自身の話もいくつか聞かせてくれた。夜半とは大学で知り合ったこと、昔から趣味で小説を書いていたこと、半年ほど前に夜半に自分の小説をほめてもらったことをきっかけに本格的に小説家になるために応募原稿を書き始めたことなど。思えば第三者から見た夜半光の話を聞くことは音無にとっても初めての経験だったので、朝方の話はなかなかに興味深いものだった。
一通り話が終わると、朝方はすぐにでも小説の続きを書きたいと言って先に帰っていった。見かけによらず、執筆に対しては随分ストイックなタイプのようだ。
「先生、ありがとうございました。約束の原稿です」
朝方が返っていったあと、そう言って夜半は鞄から『読書に満足する小説』と銘打たれた原稿を渡してきた。音無はそれをそのまま月島に渡す。
「これを二部コピーを取って、樋口の家と矢車がいる病院に送ってくれ。ただ、本人以外は絶対読まないようにさせろ。何が起こるかわからん。読んだ後は処分することも忘れずに伝えてくれ。それから、原本は俺の机の引き出しに入れておいてくれ」
「了解です!でも、原本は取っておく必要があるんですか?」
「まあ……念のためにな」
音無は夜半の様子を伺いながらそう返す。月島も彼女なりに音無の意図を察したのか、原稿を大事に鞄にしまって店を後にした。
「心配されなくとも、もう私が原稿を送ることはありませんよ。朝方さんと先生を引き合わせることもできましたし」
音無と二人きりになると、夜半は微笑みながらそう言った。
「どうだろうな。お前が手段を選ばない人間ということはよくわかったからな」
そう不愛想に返すと、またしても夜半はクスリと笑った。
「一つだけ質問いいか?」
「なんでしょう?」
「朝方君、だったな。彼は、お前のあの小説を読んだことがあるのか?」
「はい。ですが、反応は月島さんと同じようなものでした。彼、書くのは好きみたいですけど本はあまり読まないほうらしくって」
探るように尋ねる音無に、夜半はあっけらかんと答える。確かに、話してみた感じでは朝方は本の虫といった人間では内容だった。あれは大人になってから小説を書くようになって、そのために本を読み始めたタイプだな、と音無は考察する。
「まあ会社に戻ったら一応彼の原稿は読んでみるが……正直言って、厳しい世界だぞ。まだ若いんだ、今ならまだ引き返せる」
「大丈夫です。そうなったら私が養いますから」
さらりと返答する夜半の目は、とても冗談を言っているようには見えなかった。そのあまりの清々しさに、音無もつい面食らってしまう。
「……随分彼に惹かれているんだな。正直、悪い人ではなさそうだが、そこまで好いているとは驚きだ」
「そうですね……彼本人というより、彼の書く小説が私は好きなんですよ。好きな作家の作品が広く知られてほしい気持ち、先生ならわかりますでしょう?」
同意を求めてくる夜半に、音無はついつい苦笑いしてしまう。自分がすごいと思う作家の才能を世間に認めさせたいというのは、確かに音無にも覚えがある感情だ。だが、音無にとってそう心の底から思えた作家というのは、五年前に筆を折ってしまった目の前の女性で最後だったからだ。まさかその張本人からそんな言葉を言われるとは、皮肉なものである。
だが、そんな夜半の言葉で、最後に残っていた疑問の答えにやっと確信が持てた。満を持して、音無はその真相を口にする。
「それで、あの原稿をうちの賞に出してきたわけか。あれを編集部が読めば、受賞作の数が増えるとでも思ってのことか?」
「ええ。私の手で彼の作品に手を入れる気にはなれなくて。新人賞にはどうしても運というものが絡みますから。編集部の人が、どんな本でも面白いと思えるようになれば、受賞作が増えて、彼の作品が賞を取る確率もぐっと上がるでしょう?」
真面目な顔で語る夜半に、音無は思わず吹き出してしまう。
確かに、夜半の原稿を読んだ樋口や矢車は、応募原稿に対して批判的な目を持つことを忘れ、ただひたすら作品の面白さに没頭するようになっていた。もし選考に関わる人間の多くが同様の状態になっていれば、確かに受賞作の枠が広がるということもあったかもしれない。
だが、余りにも力技過ぎるやり方だ。他人の欲求を突き動かすことができる力を持ちながら、その力の使いどころが恋人のためとは。どんな才能を持とうと、夜半も一人の女性なのだなと、音無はしみじみと感じた。
もう彼女は、自分の知っていたころの子供ではない。そう思うと、どこか寂しいような気持にもなった。自分は夜半のことを時代を切り開く天才作家だと認めると同時に、一人の大人として、彼女の才能が花開いていく様を期待していたのかもしれない。だが、結局彼女が小説家としてその才を開花させることはなかったわけだ。
「最後に、一つだけ忠告しておく」
もう二度と会わないであろう彼女に、音無は戒めを込めて語りかけた。
「あまり彼に重圧をかけすぎないほうがいい。どんなクリエイターも、何かの拍子に創作をやめてしまうことはあるんだからな」
それは、音無自身が経験したことであり、腹の底から出た本音だった。だが、音無が自らの人生をかけて経験したアドバイスに、夜半は涼しい顔でこう返したのだった。
「大丈夫です。彼に限ってそうなることはありません。……だって、私がついていますから」
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