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その後、駆け付けた救急車によって矢車は病院に運ばれていった。幸い命に別状はなく、過労と寝不足によって貧血のような症状が起きたのだろうと病院側からは連絡があった。
しかし、一件落着というにはまだ早すぎる。音無は責任者である編集長の柳(やなぎ)とともに、モニター室で編集部のオフィスに取り付けられた監視カメラの映像を確認していた。
「驚きだね……」
二日分の監視カメラの映像を早送りで眺めながら、柳はそう呟いた。大抵のことでは動じないはずの上司の言葉に、音無も無言で頷いた。
監視カメラの位置的に、矢車の姿は背中からしか捉えられない。しかし、映像を確認する限り、二日前の土曜日の昼頃から今朝までの約四十時間、矢車はほとんど席から離れずに机に向かっている。背中越しに何をしているかはわからないが、定期的に手元の紙の束を自分の隣に積み上げては、別の山から新しい束を手に取っていることはわかる。
「これ、読んでるの全部PFノベルの?」
「はい、今朝見たところ四十作近く読んでいたようです」
「とんでもないなあ……」
柳は落ち着いた口調で呟くが、眉間にはしっかりとしわが寄っている。当然だ。先ほどから早送りで映像を流しているが、矢車本人はほとんど動きがなく、まるで静止画のようだ。四十時間もの間同じ姿勢でひたすら文字を追い続けるなど、まともな神経でできることではない。
だが、確実に異常といえるそんな矢車の一連の様子を確認した後、柳は落ち着いた様子で結論を出した。
「まあとにかく異常なことはなさそうだ。ちょっと根を詰めすぎただけだろう」
柳の言葉の言葉は、音無にとって落胆するものだったがある程度予想していたものだった。確かに、事件性がないかどうかを確認するという当初の目的は果たすことができたし、矢車自身も何かの病気ということがないのならば、そう結論付けたくなる気持ちもわからなくはない。音無が柳の立場にあったとしても、それ以上深入りはしないだろう。
だが、だからと言って疑問を持たないわけではない。過集中が発令しやすいADHDなどの症状がない矢車が四十時間以上も作品を読み続けたことこそ、そもそも異常なことだ。それに、音無が最初に矢車を発見したときの様子からも、彼に何かがあったことは明らかだ。
問題は、一体何が彼を変えてしまったのかということだ。
編集部に戻ると、多少の混乱はあったようだが、皆いつも通り慌ただしくオフィスの中を駆けまわっていた。外出している社員も多く、在籍している人数は全体の三割ほどだ。
そんな中、月島は倒れてしまった矢車の机の周りをうろうろとしていた。音無が近づくと、気づいた彼女が綺麗な角度で礼をする。
「音無さん、お疲れ様です!」
彼女の無駄に張りのある声が煩雑とした室内にこだまする。その手には矢車が散乱させていた大量の応募原稿がまとめて持たれていた。
「矢車さんの机、だいたい整理できました!ざっと見てみたところ、全部新人賞の原稿みたいですね」
数十部ほどの原稿を一気に抱えながら、月島はそう説明してその束をこちらに押し付けようとしてくる。音無はそれを両手で制した。
「ああ、ご苦労。それはそのまま机の上にまとめておいてくれ」
音無の言葉に、月島は小首をかしげる。
「え、矢車さんが倒れた原因を探してるんですよね?読まないんですか?」
「そんなこと本人に聞くのが一番早いだろ。探偵じゃあるまいし」
どこか浮かれた調子の月島に、音無は思わず呆れてしまう。音無とて矢車の異常な行動を看過するつもりはないが、真相を探るには本人に聞いてみるのが一番だ。矢車が倒れるまで没頭した原稿というのは確かに興味をひかれるが、他にも仕事が山ほどある中、そんなところにまで手を出している暇はない。
「……まさかお前、片付けの間にこっそり読んでたりしてないだろうな?」
音無が訝しんで尋ねると、月島はぶるぶると大きく首を振った。
「いや、そんなことしてないです!大丈夫です、サボってません!」
大げさに否定する様子は逆に怪しさすら感じさせたが、わざわざ追及するのも馬鹿らしい。辺りを見回して矢車の机にしか空きがないことを確認して現行の束をどさりと置く月島の背中に、音無は語りかける。
「だいたい、普通は気味悪いって思ったりするもんだろ。お前まで矢車みたいになったらどうするんだ……」
と、そこまで音無が言った途端。ある仮説が脳裏を過った。
ふと、月島が今しがた置いたばかりの原稿の束に歩み寄る。先ほどまできれいにまとめられていたようだが、慌てた月島が乱暴に置いたせいで、既に原稿の山が少し崩れかけている。
その中に、立った一部。ただの原稿の束の中に、何か得体のしれない雰囲気を放つものがあった。
それが何なのかはわからない。言ってしまえばただの書類の束だ。中身を見たわけでもない。だが、長年原稿という値千金の書類の束に触れ続けた音無の勘が告げる。この原稿だけは他の作品とは違う。
音無の脳裏に、先ほどまで見ていた監視カメラの映像が浮かぶ。四十時間以上もひたすら原稿を読み続けた矢車の行動は異常そのものだった。普通に考えれば過集中といった本人自身の異常を疑うべきところだが、矢車にそのような病はなかったはずだ。何かが、彼自身を変えてしまったのだ。その原因が、彼が憔悴してもなお読み続けようとした、この原稿の中にあるとしたら?
音無はその異彩を放つ原稿になるべく触れないように、慎重にその上で崩れかかっていた書類の山を横にどかした。露になった原稿の表紙には、応募規定である作品名とあらすじが記載されていたが、ただ一つ、ペンネームだけが書かれていなかった。まるで、筆者が自分が誰かを隠したいように。
恐る恐るその原稿を手に取る。重さと厚さは至って普通の原稿だ。だが、原稿そのものが放つ不思議な存在感と物理的な感覚のギャップに、どこか既視感も感じた。こんな違和感を、確かどこかで。
そこから先の行動はもはや直観によるものだった。応募原稿の本文を決して読まないように注意しながら、最後の一ページをめくる。百枚超の原稿の末尾には、本来表紙にあるべきペンネームが書かれていた。その名前を確認したとき、音無の中に生まれたのは驚きではなく、やはりという納得感だった。
「そりゃ、こんなことできるのお前以外にいないよな……」
深いため息とともにスマホを取り出す。膨大な数の連絡先の中から、もう何年も連絡を取っていない人物の電話番号を探し当て、即座に電話をかける。番号が変わっていたらと一瞬懸念したが、無事電話がつながった。呼び出しのコールが鳴りだし、間もなく相手が電話を取る。
「……お久しぶりです、先生」
電話口で、懐かしい声がそう呼びかけてくる。先生という呼び名は、あくまで編集者が作家相手に使う言葉だ。一介の編集者である自分のことをそんな風に呼ぶ相手を、音無は一人しか知らない。
「どういう風の吹き回しだ、
張りつめた音無の言葉に、第一回PFノベル文庫賞の幻の大賞受賞者、
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