エレベーターでビルを登り、編集部のオフィスがあるフロアに到着する。自分たちが一番乗りかと思ったが、フロアの照明には既に明かりがともっていた。珍しいこともあるものだと、オフィスの扉を開く。

 すると、途端に異臭が漂っているのを感じた。カップ麺のにおいのようだが、若干腐敗しているようなにおいも混ざっている。

「うわあ……なんか臭いませんか、ここ」

 後からオフィスに入ってきた月島が嫌な顔をする。だが、うちの編集部ではそう珍しい話でもない。

「大方、誰かがカップ麺の残りの汁を捨てずに帰ったのだろう。先に窓開けてくれ」

 音無がそう言うと、月島が鼻を抑えながら窓に向かう。その間に音無はにおいの元を探すべくあたりを見回した。異臭の元凶は案外早く見つかった。若手の編集者の矢車の机の上に、カップ麺が放置されている、音無はため息をつきながら、仕方なく処理しようと矢車のデスクに近づき、異変に気付く。

 煩雑とした編集部の中では比較的整頓されているはずの矢車のデスクが、今日は随分な荒れようだ。両端に大量の紙の束が乱雑に重ねられ、ところどころ土砂崩れならぬ紙崩れを起こしている。空になった缶コーヒーが二缶ほど倒れているし、何より異常なのはカップ麺が一切手を付けられていないことだ。お湯だけ注いだ後そのまま放置したのか、スープを吸ってこれでもかと膨張した面がカップからはみ出している。

 一体何があったのかとデスクに近づいて、一瞬思考が止まった。

 それまで他の机の死角になっていて気づかなかったが、散らかされた矢車のデスクの足元に一人の男が倒れていた。上から崩れてきた紙の束の下敷きになっていたがすぐに誰かはわかった。矢車だ。

 「音無さーん、もう窓全開でいいですよね……って矢車さん、どうされたんですか!?」

 一通り窓を開けてからこちらに歩み寄ってきた月島も、死んだように床に倒れこんでいる矢車の姿を見とめて大きな声をあげる。その狼狽した様子に、逆に音無は冷静さを取り戻した。

「月島、救急車呼べ」

 音無の短い指示に、月島は慌ててポケットからスマホを取り出して電話をかける。その間に音無は矢車に駆け寄って、その体を助け起こした。

 倒れた矢車の上半身を慎重に起こし、胸元に耳を当てる。脳出血か何かかと思ったが、そう言った様子はなく、脈拍もきちんとある。だが、単純に寝ていたというわけではなさそうだ。

 「おい、矢車。しっかりしろ」

 呼びかけながら軽く矢車の顔をはたくと、うっすらとその目が開かれる。両目ともに赤く充血しており、焦点が定まっていない。明らかに正常ではない。

 「……あ、音無さん。すいません、俺寝落ちしてて……」

 矢車は一応意識はあるようだが、声はかすれているし、ひどく咳き込んでまともに話ができていない状態だ。それに体がべったりと汗ばんでいる。朝一で会社に来たというわけではなく、ひょっとすると昨日か一昨日からずっと会社にいたのだろう。

 「喋るな、今月島が救急車を呼んでる」

 音無はそう言って月島の方を振り返る。すると、それまで力なく倒れていた矢車が手を伸ばして音無の右手をつかんで言った。

 「やめてください……俺なら大丈夫です、ちょっと倒れただけなんで……」

 矢車は必死の形相でそう言ってくるが、口調は弱弱しく、音無の右手を抑える力もほとんどない。

 「そんなありさまで何言ってる。急ぎの仕事があるなら俺が代わりにやっとくから大丈夫だ」

 そう言って宥めるが、矢車は呼吸を荒くしながら首を振って否定の意を表した。

 「そうじゃないんです、だってまだ読んでない作品がたくさんあるのに……」

 「読んでない作品?」

 反射的にそう聞き返してから、音無はようやく周りに散らばる書類の束の正体に気づく。

 数百枚ごとに一部ずつクリップでまとめられたものが何十部。小説の原稿のようだが、どれも表紙の部分は著者のプロフィール情報が記載されている。それらすべてが、先日応募を締め切った今年のPFノベル賞の応募原稿だった。

 「お前、まさかこれ全部……?」

 なぜ下読みも済んでいない応募作をこんなにたくさん。そんな疑問が顔に出ていたのだろう。憔悴しきっているはずの矢車は最後に顔を歪めたような笑みを浮かべて、絞り出すようにこう言った。

 「読めば、わかります」

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