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電話を切った矢車は、先ほどよりずっと疲れた顔で全体重を背もたれに預けた。樋口と話していたのはおよそ十五分程度だが、疲労の度合いは計り知れない。論理の通じない相手と話すことはとても体力がいることだし、それが目をかけていたかつての後輩であるならばなおさらのことだ。
樋口のことは自分の下でアルバイトとして働いていたときからよく知っている。読書量に関しては業界人と比べてもそん色なく、なにより面白い作品に対する嗅覚は天授の才を誇っている男だった。作家としてデビューできなくても、間違いなく編集者として大成するだろうとひそかに思っていたほどだった。
それだけに、今回の樋口の一見は矢車の心を深く落胆させた。
(読めばわかる、か……)
樋口が当然のように口に出した言葉を自分の中で反芻する。
漫画やアニメ、ドラマなど様々なコンテンツがあふれる昨今では、小説という媒体は急激に勢いを失いつつある。本来ならばもっと多くの人に面白いと思ってもらえる作品でも、活字が毛嫌いされる風潮のせいで十分に評価されないことなどごまんとある。読んでさえもらえばもっと売れるのにというのは、出版社の人間が一度は思うことの一つだ。
だが、だからこそ我々はそんな希望的観測にとどまらず、いかに多くの読者に届けるかということに心血を注がなければならない。「読めばわかる」面白さを持つ本を、どうやって読者に読ませるか。それこそが出版に関わるものの使命の一つだということは、樋口がこの世界に入ってきて最初に教えたことのはずだった。
見込みがあるやつだったんだが。そう思い、もう一度深くため息をつく。
だが、いつまでも落ち込んではいられない。樋口を説得させることができなかった以上、誰かが彼が担当していた作品の下読みをしなければならない。幸いなことに矢車には午後からも時間がある。今から下読みの依頼を出すよりも、自分の手で一次選考を行った方がいいだろう。
一旦外に出て、昼食用のカップ麺とコーヒーを買ってくる。給湯室でカップ麺に湯を注ぐと、そのまま自席に持ち帰って机の隅に置いておく。これで準備は万端だ。
スマホで三分間のアラームをセッティングすると、さっそく応募原稿を手元に準備する。これから十本もの原稿を読むのだから、わずかな時間も無駄にはできない。カップ麺が出来上がるまでの三分間で少しでも下読みを進めないと。
どれから読み始めようかと印刷した原稿の束を漁っていると、ふと一つの作品のタイトルが目に留まった。『本を読みたくなる小説』と題されている。新人賞の応募原稿にしては随分と大きく出たタイトルだ。確か樋口がこれを読んでから他の作品への評価が変わっていたと言っていた当の原稿だ。樋口の冷静な目を狂わせたのだから、余程尖った作品なのだろうか。何の気なしに、矢車は冒頭の文章を追い始める。
書き出しを確認したところ何もおかしなところはない。パラリと次のページをめくる。文章も丁寧で、これといった特徴はないが読みやすい内容だ。またページをパラリとめくる。内容は、これまでろくにフィクションに触れてこなかった青年が、ある本を読んでことをきっかけに読書の魅力に気づいていくというストーリーだ。パラリ。文章は丁寧だが、プロットにストーリーや設定に捻りがない。新人の作品で重視されるのは、設定のオリジナリティやストーリーの新しさだ。悪い作品ではないが、現代で売れるのは難しい作品だろう。パラリ。だが読みやすいのは事実だ。表現が的確で話の内容がどんどん頭に入ってくる。パラリ。読みやすさで言えば新人のそれではない。パラリ。というか読みやすさだけではなくて。パラリ。ああ、そろそろ三分経つはず。パラリ。案の定スマホのアラームが鳴る。パラリ。早く食べないと麵が伸び、パラリ。なんだ、パラリ。これは、パラリ。ページを捲る手が、パラリ。止まら、パラリ。な、パラリ。パラリ。パラリ。パラリ。パラリ。パラリ。パラリ。パラリ。パラリ。
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