『はい、もしもし……』

 電話口で樋口は寝起きのような声を上げる。もう昼になる時間だが実際に寝起きか、もしくは今から寝るというところなのだろう。昔は休日でも早起きして規則正しい生活を送っていたはずだが、作家になってしまいすっかり夜型の生活に移行してしまっているらしい。

 「矢車だ。休みの日に悪いな。今大丈夫か?」

 『大丈夫ですよ――。僕もう土日とか関係ないんで』

 のんびりと語る口調は決してバイト時代には見せなかったものだ。良くも悪くも、個人事業主としての立場になじんでしまっているらしい。

 樋口の間の抜けた声に、休日に連絡を取ることへの罪悪感がすっかり薄れた。矢車は早速本題を切り出すことにした。

 「さっきメール見たぞ。PFノベルの一次選考のやつ」

 『ああ、はい。もう確認してもらえました?』

 こちらが選考結果の話を話題に上げても樋口は一切動じる様子はない。矢車は少しがっかりしながら低い声で続ける。

 「……全員一次選考通過ってどういうことだよ。お前、一次の意味って分かってる?」

 矢車は静かに、それでいて明確な落胆を込めて問いかけた。

 多くの小説の新人賞で一次選考の外注が行われるのは、編集者の負担を減らすことだけが目的ではない。最大の理由は、応募作品があまりに玉石混合に過ぎるからだ。

 小説というのは、極端な話文字が書けて日本語がわかれば誰にでも書ける媒体だ。それゆえ、小説の新人賞は年齢も職業もバラバラな人々がこぞって応募してくる。中にはそもそもが完結していなかったり、途中で明らかに無理やり話を終わらせていたり、流行りものの作品のパクリだったり、ともかく面白いか以前の問題の作品も決して少なくはない。

 そういった作品をより分け、小説として読むに耐える作品を選別していく。さらにそのなかでも商業化の余地がありそうな作品を選び出し、作品作りのプロである編集者が担当する二次選考へと作品を送り出す。一次選考とは言わば、編集者たちが本選考に入る前の整地作業に近いものだ。

 それゆえに、一次選考を通過させる作品は基本的に十作品に一つの割合としている。ほとんどの下読みの作家やライターには十作品ずつ応募原稿を渡しているため、一次選考での仕事とはその中で一番受賞に近いと思った作品を一つ選び出すことだ。

 だからこそ、担当した作品を全て通過させるなんてありえない話だ。もしたまたま自分が受け持った作品の中にその年で一番面白いクラスの作品が複数あったとしても、担当の編集者に一声かけてくるのが筋というものだ。まして何の連絡もなく十作品すべてを通過させてくるなんてもってのほかだ。

 『いや、あれなんですけど。違うんですよ矢車さん。これに関しては訳がありまして』

 こちらの声から電話をかけてきた意図を察したのか、樋口は慌てて弁明してくる。説明が必要な事態であるということは彼の中でも認識があるらしい。

 『俺も最初は、全部通すつもりなんてなかったんですよ。ハズレ作品、みたいなひどいやつはなかったんですけど、ありきたりだなって思う原稿とかもおおくて。でも、途中で読んだ作品が滅茶苦茶面白くて、それで考えが変わって』

 樋口は早口でそうまくし立ててくる。なまじ多くの作品を知っているだけに俯瞰した感想を持ちやすい彼にしては、珍しく抽象的で主観の混じった説明だ。矢車は再び大きなため息をつく。

 「だとしたら余計におかしいだろ。その作品が一番面白かったんなら、それだけ通過させてくればいいだろ」

『いや、なんていうかそういう面白さじゃなくて……あれ読んでからなんかおかしいっていうか……つまんなかった原稿も面白く思えてくるというか……』

 樋口の反論は要領を得ず、まとまりがない。まるでただの言い訳のように聞こえてくる。だが、彼は本来ならばもっと冷静で的確な視野を持っている人間のはずだ。だが今は何かがその目を一時的に曇らせている。一旦落ち着けば、また作品に対して論理的に向き合える元の樋口に戻るはずだ。そう思い、矢車は樋口をなだめにかかった。

 「ともかく、事情は分かった。まあ自分に合いすぎるものを読むと感覚が狂うことは俺もあるから。初めての下読みだろうし、もう少し時間を空けてからまた返事を聞かせてくれ」

 矢車は言葉を選びながら説得する。しかし、樋口は一切の間を置かず予想外の返答をしてきた。

 『いえ、大丈夫です。考え直しても結論は変わりません。全部通過でお願いします』

 「……は?」

 思わず面食らって疑問をそのまま口に出してしまう。そんなこちらの様子は一切気にせず、樋口は当然のことを語るかのような調子で淡々と続ける。

 『そもそも、千も応募作品がある中から受賞するのがたったの数作品ってのは少なすぎるんじゃないかと思うんですよ。受賞できなくても面白い作品っていっぱいあるわけですし。全部書籍化できなくとも、少なくともウェブで公開するとか、いくらでもやりようはあると思うんですよ』

 樋口は堂々と語るが、言っていることは無茶苦茶だ。そんなことまで言い始めたら、いよいよ新人賞というものの、ひいては出版社というものの意義がなくなってしまうではないか。

 矢車は先ほどまで樋口のことを、疲労のあまり頭の整理ができていないために、支離滅裂な発言を行っているものと思っていた。しかし、今はそれが勘違いだったとわかる。言っていることは滅茶苦茶だが、樋口は一時の気の迷いでこんなことをのたまっているのではない。彼は最初からずっと本気だ。

 矢車は樋口の話を聞きながら、深く深呼吸をした。長い付き合いの相手だが、仕事で付き合う人間として、ここは明確に線を引いておかなければいけない場所だ。

 「樋口。お前の言い分はよくわかった。だが、こちらは仕事としてお前に下読みを依頼している。きちんと俺にもわかる言葉で説明してくれないと、今後お前に仕事を頼めなくなる。もう一度よく考えてくれ」

 矢車の説得はもはや祈りに近いものがあった。何が原因かわからないが、樋口は以前の彼ではなくなってしまった。作家となり、作品作りというものへの姿勢が変わってしまったからだろうか。だが、作家であれ編集であれ、面白いかどうかを一歩引いた眼で見ることができなくなることは、創作に携わる者として致命的だ。思考の歯車がずれてしまった元後輩が正常に戻ってくれることを、矢車は切に願った。

 しかし、その願いは届かず、樋口はこれまで同様に淡々と、だが確実にネジの外れたようなトーンで話を続けた。

 『いや、そういうんじゃないんですよ。矢車さんも読んでみればわかります。お願いです、まずは全部読んでみてください。というかそもそも俺思うんすよ、』

 樋口は一旦言葉を切ると、まるで遠い世界から問いかけてくるかのような調子で疑問を口にした。

 『この世の中に、面白くない物語なんてあると思いますか?』


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