宵の口

@ramutto

「ちゅうりっぷの会」第一回公演作品 「宵の口」

 目が合うと、彼女は染みとおるような笑みを浮かべた。

 誰が呼んだのか。いつからそこに居たのか。

 ――新歓コンパの二次会場に選ばれたのは、古びた居酒屋の団体席だった。十畳ほどの個室に大学生ばかりを押し込んだ空間は、もはや賑やかを通り越して一種の騒乱状態を呈している。若さゆえに持て余されたエネルギーがアルコールによって増幅し、ジョッキどうしのぶつかる音、せわしく往来する店員、各所から上がるもはや絶叫に近い笑い声――賑々しさの中、僕はふと、斜向かいの席に違和を感じた。

 視線を転じた先、うすぼんやりと暗い部屋の角に、少女はいた。壁に側頭をつけてしなだれ、ウイスキーグラスに口づけている。大人びたしぐさに対し、顔立ちはどこかあどけなかった。僕と同じ一回生だろうか。肩まで伸ばした黒髪。酒を飲み下すたびに、丸まった毛先が頬に触れる。きめの細かいシルクのような頬。強めの酒を飲んでいるのに、まったく上気した様子がない。

 奇妙なこともあるものだ――まわりで飲んでいる誰一人として、彼女に構う様子がないのだ。さらにおかしなことには、僕自身いまのいままで、この少女の存在に気づいてすらいなかった。まだ夜もふけきらないうちに着席し、そろそろ日付が変わろうとしている。そんなに時間が経つまで、酒席を共有する相手の存在に気づかないということが、はたしてあるだろうか。

 かろん。

 飲み干されたグラスの中で、氷が鳴る。喧噪の中、なぜかその音がやけにはっきり耳に届く。白い喉がこっくりと蠕動する。流し目がこちらをとらえる。酒で潤った唇がつりあがる。白蝋じみた顔色だが、そこだけは妙に赤い。つりあがった唇を起点に笑みが広がる。水面にたらしたインクが、波紋を広げるかのように。

 僕は息を呑んだ。アルコールで火照っていたはずなのに、いまでは腑臓の底がしいんと冷たい。鼻にかかる先輩の酒臭い息も、肩に回された腕の暑苦しさも忘れ、震えそうになる体を抑えるべくビールをあおる。

 空になったジョッキに、誰かがお代わりをそそいだ。その手は真横から伸びていた。ほどよく肉付いているものの、青白くて血の通いを感じさせない。ほのかに甘い香水の匂い。名前はわからないが、女の子がよく使っている銘柄だ。

 あれ……? 隣に座っているのは、男の先輩のはずだ。

 いつのまにか――肩に伝わっていた暑苦しい感触が、無い。

 手の主をたどると、そこには蝋のような少女の顔。瞠目する僕の胸前に、充分に満たしたジョッキを置き、今度は自分のグラスを差し出す。ついでくれ、ということだろうか。

 とっさに言葉が出てこなかった。申し訳程度に会釈し、酒をつぎ返す。お酌しながら、斜向かいの席を盗み見る。

 するとどうだろう。個室の隅、いままで彼女の席だったはずのそこには、くだんの先輩が当たり前のように陣取って、隣の新入生に絡んでいた。席だけではない。使っている食器まで、そっくり入れ替わっている。

 いったい、いつの間に? 僕が気づかなかっただけか? そこまで酔っていない。むしろ、しらふに立ち返っているはずなのだけれど……。

 ジョッキをつかむ。取っ手がじっとり濡れていた。そこに小柄なグラスがぶつかり、表面を波立たせる。

「これじゃ、新入生歓迎というより、先輩たちの歓待会ね」

 彼女――神室花かむろはなはそう言って、今度は年ごろの少女らしく微笑んだ。



 ――きみヨナシロくんでしょ。珍しい苗字だから覚えちゃった。どういう字を書くかは知らないけど。……へえ、與那城。かっこいいね。

 神室は決して明るいタイプではなかった。しゃべり方はゆっくりと落ち着いていて、声を張ったり、矢継ぎ早にまくしたてて会話の主導権を握ったりはしない。どちらかといえば聞き役であり、僕はすっかり及び腰になりながらも適当に話を広げた。彼女はひっそりと狭まった目で僕の仔細を観察し、時折ぬるりと滑り込むようにして口をはさんだ。

 ――でもきみ頼りなさそうな感じだから、やっぱ與那城よりもヨナシロって感じ。漢字だと勇ましすぎて、ちょっとね。九州辺りの苗字じゃない? 実家どこ。

 最初に見た時の奇妙な印象もしだいに薄れていった。話しているうちに舌が滑らかになるのが自分でもわかり、気づけば冗談なんかも口にする始末。たいして面白くもない戯言に、神室は莞爾として笑う。おどけた僕をたしなめるべく、「こら」と言って笑いながら脇を小突き、かと思えばふっと伏し目がちになる。毛筆で静かに払ったような、形のいいまつ毛。視線を引き付けられる。彼女の影が壁に色濃く映る。泥のような酩酊感に見舞われる。時間が溶けるように過ぎていく――

 それから神室とどのような会話を交わしたのか、夜通し続くと思われた会がどのように散会したのか、正直記憶があいまいだ。

 街がひっそり息をひそめたころ、僕は神室をともなって帰路についていた。

 とりあえず足は下宿先へ向いているが、彼女にはそれを伝えていない。適当な場所で別れるのが心惜しく、かといって自宅に誘う度胸もない。ただ流されるように歩く。神室もそれに従う。初対面の男と夜道を共にし、しかも行き先さえも告げられないというのは、女性にとって――いや男性であっても――かなり不安なことだろうに、ぴったりと歩調を合わせてついてくる。自分がこれからどこに連れて行かれるのか察していて、その後の展開も一切合意している風に取れるけど、その見方はいささか都合がよすぎるだろうか。

 虫の声がいやに大きい。家々の灯りは消え、車もまばらだ。足元すらもろくに見通せない道を女子に歩かせるのはいかがなものかと、いまさらながら後悔した。けど横を歩く神室は気にしていないようだ。表情も足取りも落ち着いていて、視線をこちらに向けたまま、軽やかに歩む。

「ヨナシロくん」

 それまでの会話を断ち切って、僕の手を取る。

「手汗すごい。冷や汗? なに、夜道怖いの?」

 怖いなんてことがあるもんか。僕は努めて平静を装い握り返した。あまり強く握れば、動揺と緊張を悟られる。いや、すでに気づかれたか。神室はくつくつ笑って、

「かわいー」

 男子のプライドをズタズタにした後、

「ねえ見て」

 道の先を指差した。

 指し示された先に何があるのか、最初は視認できなかった。距離を詰めるにつれて、徐々に輪郭が浮かぶ。十メートルほど前方に、ぼんやりと人影。長身で、背広らしきものを着、車道に背を向けて直立している。顔立ちはよく見えない。突っ立ったまま動かない。かすかに顔を上向けていることから、道脇の一戸建てを凝視しているように受け取れた。

 さりげなく歩道の内側にまわり、神室を人影から遠ざける。それから反対側の歩道に移ろうと、彼女の手を引いた。けれども神室は従わず、無警戒にまっすぐ歩く。歩調は軽やかなのに、なぜか逆らえない。リードを握られた飼い犬のような気分だ。彼女より前に出たのはせめてもの意地で、しかし気持ちのほうは後ろにいた。神室にとっては心地よい春の夜風も、僕にとってはうすら寒い丑三つの夜気でしかない。

 近づいてもその表情は読み取れず、呼吸している様子さえ見られなかった。

 そいつから視線をはずし、なるべく前を見る。自然と息を殺していた。

 真横を通ったとき、上向いていた顔が、かすかにこちらへ振り向いた気がした。背中に視線を感じたのは、さすがに思い過ごしだろうか。

 数歩遠ざかって、ようやく息を吐きだす。

 夜道を歩いていて不意に向かいから人が来ると、一瞬ギクリと体がこわばる。それから目を凝らしてすれ違う人の顔を見、人相をたしかめてしまうのだ。何でもないものであっても、暗がりでは得体が知れないものに思えるのだろう。

 そう、それだけのこと。いまのも、きっと。

 ただの、酔っ払いか何かに決まってる……。

 神室が腕にまとわりつき、背後を振り返った。

「あれ、先週の夜もあそこにいたよ」

 つられて振りむく。

「その前の週も、さらにその前にも」

 さっきまでたしかに影がいた場所には、もう誰もいなかった。

 民家の庭から伸びた枝葉が、風もないのにざわめいていた。



 あんなものは気のせいだよ、と僕は言った。何かの間違いに決まってるとかぶりを振り、早足で遠ざかる。その様子は神室から見てよほど滑稽だったらしく、性悪め、意地悪く笑っている。伏せていた目をぱっちりと見開いて、新しいいたずらを思いついた子供のよう。

「怖がりんぼのヨナシロくん」

 そういえば、と彼女はふと思い出した様子で、

「いまので思いだしたんだけどね」

 悪い予感がする。

「子供のころ、帰り道で不可解なものを見たのよ」

 耳をふさぎたかったが、片方の手をしっかりと握られてしまっている以上、それはできない。放してしまえば僕が一目散に逃げ出すことを神室もわかっているのだろう、まったく手をゆるめずに切り出した。「あれはそう――」

 ――あれはそう、小学四年生のことだった。学校が終わって、わたし、友達と一緒に帰り道を歩いていたの。友達の名前は、まあ、仮に英子ってことにしておくわ。

 この場所と同じような、どこにでもある住宅街だった。しいて言うなら、ここよりもほんの少し田舎かな。五階以上の建物があまり無かったし、車通りもまばら。遮蔽物が少なかったから、なんてことはないはずの一本道がやけに長く感じた。その道の奥まで、夕陽ですうっと染められていて……。小学生の帰宅時間なのにね。だからたぶん、日の短い季節――秋の終わりくらいだったかな。夏でなかったのはたしか。

 英子とはそれほど親しかったわけじゃない。当時のわたしには仲のいい友達なんていなかったし、むこうも二人きりの時にしか話しかけてこなかった。ただ家が近かったから、帰り道ではよく一緒になった。あの日もそう。

 どんな内容を話していたかまでは、覚えてないわ。それよりも印象に残っているのは、彼女の顔が夕焼けで翳っていたこと。針のように伸びた影法師が、アスファルトに薄く焼きついていたこと。

 やがて英子宅のスレート葺きの屋根瓦が見えてきた。彼女の家は一戸建て。外壁もまだ新築同然といった様子で、実際そうだったんだろう。持家じゃなくて借家とのことだったけど、団地住まいの身からすれば、うらやましいことに変わりないわ。通りに面した二階建て住宅で、青々とした芝が敷かれた広い庭、立派なワゴン車を納めたガレージ。わたしからみればお屋敷同然の家に、英子は両親と妹と四人で暮らしていた。

 彼女の家に近づくにつれて、わたしは、鉄門扉の前に立つ何かに気づいた。

 立っていた、という形容が正しいのかもわからない。

 大人くらいの背丈なんだけれど、人かどうかさえあやふや。顔や手足の判別もできない。そいつがね、微動だにせず直立してるの。

 ただ一つ言えること、いまでもはっきり覚えてること。そいつには、影が無かった。

 わたしは隣を歩く英子の腕をつかんだ。彼女はきょとんとしていた。何も見えていないようだった。それから中庭でガーデニングしている母親を見つけ、小走りに玄関まで駆け寄った。母親が水やりから顔を上げ、「おかえり」と声をかける。道端でかたまっているわたしを、訝むように見た。英子が門の錠前をはずしながら、「じゃあね」と手を振る。わたしは気もそぞろに返答した。

 その間も、黒い何かは音もなくたたずんでいた。

 英子の姿が屋内に消えたのを確認すると、わたしは来た道を引き返した。あれの脇を通る気にはなれなかった。一人きりの帰路をとぼとぼと歩きながら、決して後ろを振り返らないようにした。背後に伸びた自分の影にすら、なんだか見つめられているような気がしたわ。

 それからもその道を通るたびに、そいつを見かけた。目撃するたびにどんどん黒く色濃くなる。輪郭もはっきりして、手足胴体頭の五体を判別できた。でも目鼻の存在までは、見て取れなかった。

 あるとき英子と別れた後にふと見ると、そいつは顎を少し上向けてね。見上げるような態を取っていた。その先を目で追うと、二階にある英子の部屋の窓に行き当たったわ。窓が開かれ、レースのカーテンをはねのけるようにして英子が顔を出し、晴れやかな声でこちらに呼びかける。

 その間ずっと、そいつは二階を見上げていた。

 結局、わたしはその道を通るのをやめた。英子と帰ることも無くなり、おたがい疎遠になっていった。

 異変を感じたのは、それからさらに数日が経った頃。時期的にはもう冬だったんじゃないかしら。けどそれにしてはやけに湿っぽい日だった。雨も降っていたのよ、雲間から滴る小糠雨。

 学校からの帰り道、前方に見覚えのある傘を見つけた。雨模様の中に咲いたチューリップのような傘。間違いない、英子だ。こちらに背を向けているので、表情はわからない。けれどみずみずしい傘の色合いとは裏腹に、その背中は陰気だった。足取りに普段見せる快活さはなく、水音一つ立てずに歩いている。糸のような雨が傘に落ち、はじかれることなくゆっくりと染み透る。

 彼女は一人ではなかった。

 知らない誰かが、彼女の右後ろをつけていた。歩いている、という感じじゃなかったわ。音もなくすべるように――まるで英子の背中にくっついたかのように、彼女に付き従っていた。背の高いやせた影。全体が茫洋としていて、男か女かもわからない。雨なのに傘すらさしてなくて、だというのにちっとも濡れた気配がない。

 わたしは心底からぞっとするものを感じて、英子のもとまで駆けだした。はずみで、差していた傘が前に傾き、一瞬、英子の姿が隠れる。

 再び傘を上げた時、英子も影も消えていた。

 そんなはずは……。

 傘を投げ捨てて、あたり一帯を見まわす。脇道も無い一本道。なのに英子の姿はない。

 彼女はいた。たしかにいま。あの何者かにつれさられたのか。だったら立派な誘拐事件。

 でもね、それは勘違いだったの。

 後日わかったことだけど、英子はこの日、その道を通ってすらなかった。反対方向にある大通りへ、寄り道していたらしいわ。道路を横断していたところ、信号無視のトラックに跳ね飛ばされた。

 即死だった。

 二日後に葬式があった。わたしも参列したのだけれど、ほとんど記憶にないわ。自分が泣いていたかどうかも覚えてない。身内に降りかかった災難が信じられなくて、ただ茫然としていた。そしてようやく気持ちの整理がついたとき、胸中に残ったのは不可解な疑問だった。

 あの日、わたしの前を歩いていた英子は何だったのか。

 彼女がともなっていたモノは、何だったのか。

 彼女の家を覗き込んでいた影と、同一の存在だろうか。

 それからほどなくして、英子の遺族は別の町に移り住んだ。つらい事故の記憶から逃れたかったのでしょうね。お屋敷は売りに出された。

 半月ほどたった晩。わたしは久しぶりに英子の家へ続く道を歩いていた。あの影がどうなっているのか、どうしても気になった。

 屋敷に近づくにつれて、足取りが徐々に鈍っていくのを実感したわ。夜歩きなんて何とも思ってなかったのに、そのときは心なしか気分が昂ぶっていて、木枯らしで揺れる枝の音、ふいに向かい側からやってくる車のヘッドライト、そういったものに心をざわざわと撫でられた。両脇に建つ家々の灯りはすでに消えていて、そのどれもがわたしを無言で見下ろしているようにさえ思えた。

 やがて英子の家に着いた。門の前に人はいない。影らしきものもない。闇にすっぽりと溶けこんだかのように。

 ほっと息をついて帰ろうとした、そのとき――

 声を聞いたの。

 家の中から、人の、それも複数人で団らんするような。

 けれどもそんなはずはない、だって固く閉じた鉄門は管理会社の札で封じられ、花壇や鉢を残らず取り除いた庭は更地のように殺風景。新しい借り手がついたとはとても思えない。

 だというのに、声はたしかに聞こえていた。周囲の民家は灯りを消して寝静まっている。

 そんな中、視界の上端に灯りをとらえた。

 二階の窓からほの白い光が放たれている。かつて英子の部屋だった場所だ。いまでもレースのカーテンがかかったまま。閉め切ったカーテンが、蛍光灯らしき電光で白々と照らされている。室内に電気が灯っているみたいだった。よく見るとね、カーテンに人影が浮かんでるの。窓際に誰かが立って、こちらをじっと見下ろしてる風に思えて。

 突然カーテンが揺れ、中からサッとめくられた。

 わたしは反射的に視線をそらし、振り返ることなく、夜道を全速力で駆け戻った。

 それ以来、その道は通っていない。



 ひとしきり語り終えて疲れたのだろう。神室はサイドテーブルに手を伸ばそうと上体を起こした。その拍子にかけていた毛布が落ち、一糸まとわぬ上半身があらわになったが、特に気にした様子もなく、麦茶のグラスを取ってわずかに喉を潤す。それからまたベッドへ横になり、はだけた毛布をそのままに枕へと頬づいた。見開かれた目が常夜灯を受けて照り、僕を見据える。見据えられ、徐々に思考が明瞭になっていく。

 彼女が語り始めてから終えるまでの間に、僕らは、僕の家に着いて裸になった。神室はまるで自分こそが家主であるかのように僕を寝床まで導いて、ざわざわと全身を愛撫した。その間も語る口を休めなかった。僕はされるがままとなりながら彼女の怪談に耳を傾けた。

 神室が語り終えるのと、事が終わるのはほぼ同時だった。普段なら終えると同時に気持ちが潮引いて、相手の肢体がグロテスクな物にすら思えてくるのに、この日は胸がどくどくと高鳴って治まらない。彼女の次の言葉を待つ自分がいる。途中途中で思わず耳をふさぎたくなりつつも、聞くことをやめられなかった自分がいる。だがそれを認めてしまうのは癪に障る。だから、僕は言った。そんな話はデタラメだねと。実話だとしたら不謹慎だ。友達が亡くなった話を、怪談に仕立てて披露するなんて。

 神室は僕の強がりを見透かしたように嘲笑し、

「別にいいのよ。わたしたちの間では、もう笑い話になってるんだから」

「わたしたち」というのは、いったい誰を指しているのだろう。

 不可解な点はまだある。第一に、話の中の神室と現在の彼女のイメージがどうにも一致しない。少なくともいま現在の神室なら、ちょっとやそっとの異変には恐怖しないだろう。いまの話が事実だったとして、これは本当に彼女自身が体験したことなのだろうか?

 もう一つ引っかかったのは、神室が小四にしてすでに夜道の徘徊に慣れていたこと。普通の家ならば、日のとっぷり暮れた時間に小学生を出歩かせたりしないはずだ。

 塾などの習い事をしていたのなら納得できる。それ以外に思い当たる理由は、一つしかない。そちらについては、あまり想像したくなかった。ある意味、怪談よりもはるかに恐ろしい事象だ。

 けれど、その恐ろしい想像を裏付けるものがある。かたわらに添う彼女の肢体だ。堂々と脱ぎ捨てた衣服の下には、肩から両腿にかけて無数の痣ができていた。服を着れば隠れてしまうような部位ばかりを、執拗に痛めつけられた形跡がある。特に大腿部は深刻な状態で、打撲痕の上に点々とやけどの跡までもがついていた。

 僕がそれらをまじまじと見るのがどうも面白くないようで、

「見ないの」

 神室は僕の手を取って大腿部に当てた。皮脂をすりこむように念入りな動作で、二度三度撫でさする。滑らかなさわり心地でヒンヤリ冷たい。それが何度もさするうちに温もりを帯びてくる。茫洋とした思考で薄目を開けながらそれを眺めた。自分の手をこうもじっと見る機会などとんと無かった気がするが、子供のころ薄桃色でもちもちしていたはずの手は、いまや浅黒く骨ばって血管が浮き出ている。それが小ぶりでしなやかな神室の繊手に操られているのは何だかおかしい。

 神室の手に力がこもった。たくわえた摩擦熱を送りこむかのように圧迫し、それからふっと力をゆるめる。縛りを解かれた僕の手が腿から剥がれ落ち、痣一つないまっさらな皮膚があらわになった。

 もうこれくらいのことでは驚かない自分がいる。

 神室は僕がいま一度新鮮な驚きを示すのを期待しているようだ。好きな人に撫でてもらうと消えるのよ――とうそぶきながら、再度こちらの手を取り、火傷跡の残る臀部をつるりと撫でた。先ほどとは違いほこりを拭き取るような一瞬の動作だったが、火傷の跡は無くなっている。腿から臀部ときて次は腰、それからへその下といった風にじりじりとせり上げ、傷だらけの胴体を拭き清める。

 僕は彼女の体を引き寄せ、抱きしめた体に指を這わせた。吸い付くような肌で指によく馴染む。わざと爪を立ててやると、神室は短く切ったような息を漏らした。へそ、胸元、肩甲骨。時間をかけて愛撫した。時折、自分の状況を顧みて冷静になる。会ったばかりの女の子と一夜を共にするなんて、僕らしくない。自分はもっと奥手というか、異性に対して慎重な性格だ。とりわけこの神室花という子は、普段の僕なら決して親しくならない人間だ。嬉々として怪異を語るさまは異様ですらある。だというのになぜだろう、いまはこの夜が少しでも長引けばと思える。

 彼女のうなじに鼻をうずめ、目を閉じた。まぶたの裏に常夜灯の残光がちかちかと散る。湿った髪の匂い。目をつむったまま、指で梳いていく。直毛ではない。けど途中で引っかかることもなく、きれいに毛先まで通る。あえて目を開かず、鼻と手触りで愉しむ。後頭部から首筋にかけて撫でさすり、もう一度後頭部に手を戻す。厚みのある部位が掌に当たった。餃子の皮を重ねたくらいの厚さで、カーペットのような毛におおわれている。さわってみるとぴくり、動く。体のどこの部分だろう。

 その時、ベッドサイドで足音がした。誰かが飲み物を嚥下し、テーブルにグラスを置く。

「いつまでそれを抱いてるの? ヨナシロくんも何か飲みなよ」

 えっ……?

 聞こえてきたのは神室の声だった。その声は少し遠くから聞こえてきた。いつの間にかベッドから立ち、テーブルのお茶を飲んでいた、ということだろうか。それはおかしい。だって僕の両腕には、いまだに何かを抱いている感触がある。毛触りがある。

 ――いや、それも心なしかごわごわして、匂いも変わっていることに、そのとき気づいた。異様な体臭。言い換えればこれは、獣臭さ。頭頂部から背中に手を移す。なだらかな骨格。掌に伝わる、異常なまでに早い脈拍。明らかに人間のそれではない、体毛の茂る背中。

 なーぉ。

 古紙をゆっくりと引き裂くような、間延びした声が聞こえる。僕の両腕にかき抱かれた何かが発しているのだ。もう一度鳴く。背中に、ぞぞぞ、と寒気が走る。

 たまらず僕は目を開けて――

 きゃあっと甲高く叫び、ベッドから転げ落ちた。

 無様に尻餅をつく僕とは対照的に、ベッド上の黒い毛玉は音もなく飛び降り、前足をそろえて着地する。薄明かりにしなやかなシルエットが映りこむ。

 一匹の大きな黒猫は、見開いた金色の目でこちらをうかがい静止した。それから尻尾を立てて鳴く。尻餅をついたままの僕にカッと牙をむいて、赤黒い口腔を見せつけた。

「きゃあって、きみ、大の男が『きゃあ』は無いでしょ」

 神室が口元をおさえて小刻みに震える。笑いをかみ殺しているらしい。僕はすっかり腰が抜けて、反論どころじゃない。彼女は忍び笑いしながら卓上のピーナツをほおばり、呑気そうに言った。

「猫飼ってるんだ。意外」

 飼ってない。そもそもペット禁止のマンションだ。神室が持ち込んだんじゃないのか。

 知ぃらない、と神室、猫じみた動作でペロリと舌を出す。「休憩しようとベッドから立って、振り向いたらいたのよ。きみがあんまりにも大事そうに抱いてるから、ペットなのかなって――それより、足、閉じたら?」そう言って、わざとらしく顔を覆った。僕は一瞬呆けたあと、我に返って両足をすぼめた。すっ転んだ時の姿勢のまま、盛大に開脚していたのだ。むろん、全裸で。

 神室はしゃがんで、猫に向かって両手を広げた。黒猫は素直にその中に飛びこむ。先ほどの威嚇行為が嘘に思える、従順な態度だ。

「隣のお宅から入ってきちゃったのかしら」

 その説は充分にありうる。禁止とはいえ、管理者に黙って室内飼育している家庭も多い。猫が手すりをつたって、お隣のベランダに侵入する。集合住宅あるあるだ。けれどそこまで考えて、思い直した。それだとベランダには入れても部屋には入れない。夜はまだ肌寒い季節、ベランダに続くガラス戸は閉め切っている。

 それにここは――僕が借りてるこの部屋は、実はマンションの十三階だ。ゴキブリに遭遇したくがないためにわざわざ高層階を選んだのだ。いくら猫でも、手すりをつたって侵入できる高さではない。

「ふうん――まっ、こういうこともあるか」

 神室はひとりごちてガラス戸を開け、ベランダの床に猫を降り立たせた。もう迷いこむんじゃないよ、と一声添えて。

 黒猫は振り返って僕らを一瞥、それからベランダのふちまで歩き、一息で手すりに飛び乗った。そしてあろうことか、何もない空中に向かって跳躍する。

 僕は全裸であることも忘れてベランダに飛び出し、手すりにしがみついて遥か下方の地面を見下ろした。

 見間違いだろうか。一瞬の光景だったが、猫は――飛び降りるというより、そのまま闇に溶けこんだように見えた。それを証明するかのように、どれほど目を凝らしても、地上に猫の死骸は見当たらない。足がかりとなりそうな物も無い。

「実録、全裸でベランダにたたずむ変質者」

 神室のおどけた声が背中にかかる。両手の親指と人差し指を組んでファインダーを作り、その合間からこちらをのぞいていた。僕は室内に戻り、ファインダーにチョップを入れる。彼女は笑いまじりの悲鳴を発してベッドに転がり、毛布で身を覆った。寒かったので僕もベッドに戻り、彼女から毛布を半分奪う。神室の小ぶりな胸が迫ってきて、やがて顔面を包みこんだ。ぬくみとともに眠気がおとずれる。この一晩で、いろんな変事が起こりすぎた。ささやきが、ゆるやかに脳へ染み渡る。

「それじゃあ、次の話を語りましょうか――」



 ヨナシロくんの母校ってさ。

 演劇部、あったかしら。

 わたしの学校には、あった。中学や高校じゃなくて、小学校にね。もちろん小学生のお遊びだからその実態はたかが知れていて、演劇とは名ばかりの大根演技を披露する、思い返せば赤面物の部活だったけど。それでもやっている間は楽しいし、何より家で過ごす時間を減らせる。そのころちょうど、家庭環境が面白くない方に行っていたから。

 着飾って舞台に立てるのも魅力的だった。いろんな衣装を着こなして、人前に立ちたいと思ってたの。そう、いろんな衣装をね……。わたしこのころ、いつも同じ服を着まわしてて。紺の長袖ワンピース。半袖だと腕の傷が見えちゃうから、真夏でも我慢して着ていた。そんなんだから、影でこそこそからかわれたりもしたわ。

 魔女、って。

 ひどいわぁ。傷ついちゃう。わたしだって、そんなものよりはお姫様にあこがれるわ。

 だから、五年生になったら演劇部に入ると決めて、実際にそうした。

 零細部活動だったから、部員はみんな演者と裏方を兼業。わたしは主に小道具作成を担当していた。

 もちろん部内でも、いじわるや陰口はあったわ。部員全員で外郎売りを暗唱したりしてたんだけど、六年生たちがわたしを見てクスクス笑うの。滑舌が悪いとか、発音がおかしいとか難癖つけて。

 あるとき用具室へ小道具を取りに行ったら、扉に鍵をかけられて閉じ込められた、なんてこともあってね。補足すると、うちの部は使われなくなった空き教室を二つ使っていて、狭いほうの部屋に衣装や小道具を詰めこんでいたの。

 そのときは、さすがにとまどったわ。でも大声で助けを呼ぶのは恥ずかしかったし、部活が終わるころには解放してもらえるだろうと思ったの。積まれた段ボールの合間に座りこんで、時間が経つのを待った。

 普段からほこりっぽい部屋でさ。掃除もろくにしてないんだろうなって感じ。おまけに蛍光灯も切れていて、窓から差しこむ夕日が、資材に影を落としこんでいた。隣の部屋からは、部員たちの発声練習が漏れてきて。時間の流れに取り残された空間の中、わたしは両足を抱きしめて過ごした。神様がくれた貴重な時間。そう考えることにして、しばらく物思いにふけった。

 短い時間でいろんなことを考えたわ。

 家のこと。

 英子のこと。

 夕日が徐々に色合いを強め、資材が落とし込む影が濃くなったころ。しびれを切らして、退屈しのぎに室内を見まわした。

 窓辺に何かがたたずんでいる。無言で夕陽を照り返していた。

 衣装合わせに使う姿見。

 わたしが入学するはるか以前から置かれている備品で、古色蒼然といえば聞こえがいいけど要するに古ぼけている。ふちの部分の青銅はところどころ錆び、鏡面もめったに磨かれないのか汚れが目立つ。

 雑多に積まれた小道具の合間を進み、姿見の前に立ってみた。パサパサ髪の紺色ワンピース姿が映されて、なるほどこれは魔女だわなんて納得した。襟元がよれていて色も全体的にくすんでるし、O脚気味の両膝、表情には覇気がない。袖をまくれば真っ赤なみみずばれや、殴打の跡。見るに堪えない惨めな自分。あらためて目の当たりにして、気が滅入ったわ。

 そのとき、視界がパッと華やいだの。

 見違えるほどに着飾った自分が、鏡面に映りこんでいた。いままで一度も着たことがない、雑誌モデルのような服装でね。わたしはびっくりして、着ている服をつまんだ。紺色の着古したワンピース。けれど鏡に映っているわたしは、引き締まったスキニ―にラフなTシャツ、心なしか両目も大きくなって血色もいい。

 あっけにとられてその場で固まっていたら、鏡像がまた変化した。今度のわたしは桜色のニットに若草色のキュロットスカート。裾からのぞく足にはかわいいスニーカー。腰をひねると鏡の中でふわりとスカートが翻る。翻った裾がだんだんに降りて、そしたら鏡の中のわたし、また違う服を着てた。純白の花嫁衣裳。少女趣味も極まれりって感じね。

 そのうち気味悪さよりも楽しい気持ちが勝ってきて、鏡の前で次々とポーズをきめた。そのたびに鏡のわたしは七変化。ついつい嬉しくなり、願望が口をついて出た。

「大人になったら、こんな服が着れるようになるのかな」

 すると鏡の中のわたしが冷然と笑って、

「その前に死ぬよ」



「神室花? そんな人、うちのサークルにいたかなあ」

 磯部マキは怪訝そうに眉をひそめてから手元のカレーパンを一口にほおばり、もう片方の手に持ったコーラを牛飲した。彼女は僕が気安く声をかけられる数少ない学友の一人であり、あの晩の飲み仲間でもあった。

 新入生歓迎会から、すでに三週間が経つ。

 あれから、僕と神室花は毎晩共に過ごす仲となっていた。

 どちらかが告白したわけでもなく、デートもしていない。どころか、会う約束さえもしていない。だというのに一日が終わって寝るころにはいつの間にか彼女が横に添い、同じ床に就くのが当たり前となっていた。さらに夜が深まって、お互い汗ばんだ頭を枕に沈める。すると花がむっつりと唇を開く。そこから語られるのは、決まって奇妙な怪異譚だ。無視して狸寝入りしようにも、なぜか耳をそばだててしまう。耳元で発せられる声に、五感をひたひたと侵されていく気さえした。聞いているうちに現実なのか夢なのかが分からなくなり、やがて意識が混濁して、まどろみから覚めた時には朝日が顔を出している。そのとき、花はすでにいなくなっている。

 昼間に大学構内を探索しても、彼女らしき学生は見あたらなかった。そもそもどの学部かも知らず、サークルでも見かけない。思えば連絡先もいまだ聞けていない。いまどきの大学生が携帯も持っていないとは考えにくいけど、あのどこか浮世離れした少女に文明の利器は不似合いな気もする。

 そんなわけで、花本人よりも第三者に聞いたほうが情報を得られるかと思い、知り合いの中でも比較的顔の広そうな異性に当たってみた。それがこの磯部マキという、餅屋の一人娘というプロフィールに反しない名前の同回生だった。

 入学後に初めて会話した女子生徒でもあり、会えばたまにお茶する程度の仲だ。この日も最終講義で同席したため、終了後に中庭のテラスで雑談した。頃合いを見て神室花の情報を聞き出すつもりだったが、タイミングがつかめない。「飲み物おごるよ」の一言が余計だった。なけなしの野口英世数枚がすべてチャリ銭に成り果てたころ、ようやくそれとなく切り出せた。そして返ってきたのが先のすげないセリフだ。ドリンク代に費やされた野口英世が浮かばれない。

 磯部は胸ポケットに忍ばせていたマカロンの封を破るや中身を瞬時に飲み下し、どこからともなく取り出したロリポップを一口でただの棒切れに変えた後、口紅ではなくイチゴシロップを塗っていますと言われても納得してしまいそうな口元をぺろっと舐め、それから摂取カロリーに見合わない小柄な体を乗り出して、

「なに、ヨナっち、そのカムロさんっていう子が気になるの? ストーカー?」

 気になっていると言えば、気になっている。一緒に過ごす時間は長いのに、肝心の花本人の素性は何一つとして知らないのだから。けれどセリフの末尾は聞き捨てならない。反論しようと口を開いたけど、出てきたのは間の抜けたあくびだった。

「ほら、夜中までストーキングしてるから……。ていうか、ここんところだいじょうぶ? 寝不足? しょっちゅう眠そうにしてるけど」

 それもそうだ。花と出会ってからというもの、まともに熟睡できた日がない。

 ある時なんかは家じゅうを何度も見渡して彼女がいないことを確認し、やれやれ今日こそは心ゆくまで眠れそうだぞとベッドに入ったところ、毛布の中から真っ白い手がにゅっと出てきて、ほほをつかまれビックリ仰天。毛布にくるまった花が、ベッドから転げた僕を見てケラケラ笑っていた。人が入っているような膨らみはなかったのに……。

 ともあれそんな調子だから、朝、洗面台に立つと鏡の中に落ちくぼんだ目をした自分がいる。講義の合間は自習室で仮眠をとる。人との会話中にあくびをして注意されることもザラだ。現にいまも。

「酒飲んで夜更かしばっかしてんでしょー。脳の血管詰まるよ。それより、これから飲みに行かない? 美味しそうなホルモン焼きのお店見つけてさ」

 セリフの内容に矛盾を感じるのだけれど、素で言っているのだろうか? めずらしくこちらの体調を気遣ってくれたと思ったら、やっぱり自分の食欲のほうがプライオリティが高いらしい。いましがた常人の一日分のエネルギーを摂取したというのに、もう夕飯の話をしている。いや、夕飯時には違いないか。ウッドデッキの木目も、そこについた磯部の肘も、夕焼けに染まっている。

 正直なところ、入学後の数か月で飲み会には飽きている。疲れているし遠慮したい。けれど良好な人間関係の形成において大事な時期だ。人付き合いをおろそかにするわけにもいかない。適当な知り合いに声をかけるか。何人ぐらいで集まろう。

「いやいや。たまには二人でさ。ね」

 気のせいだろうか。磯部の視線が、一心にこちらにそそがれていた。かすかに熱がこめられているようにも見えたが、瞳に映える夕焼けのせいか。対面から顔を近づけて、「行こうよ」ためらった様子で付け加える。「ふたりでー」

 大勢で飲むのならかまわないけど、二人きりでとなると話は別だ。ここは毅然とした態度でつっぱねなければならない。

 悪いけど、それは――そう口にしようとしたところで、頭上に影が差しこんだ。たおやかな手が磯部の肩に置かれた。誰何すべく見上げた磯部の視線と、無機物を見下げるような怜悧な視線が、合わさる。遠くでカラスが鳴いた。

「ここにいたのね、磯部さん」

 神室花が言った。

「事務の人が探していたわ。どうもご実家から電話があったとか」

 のどかな口ぶりに反して眼光は冷徹だ。軽侮すら湛えている。その視線が一瞬、こちらに流れる。僕の体は、ウッドチェアにしばりつけられたようにこわばった。

 磯部は口を半開きにして、呆けたように頭上の同回生を見上げた。が、それもつかの間だった。バッグから携帯を出し、画面を見るや血相を変える。

「わかった。ありがとう、神室さん」

 やおら立ち上がり、構内へ駆けていった。

 知らないはずじゃなかったのか……? 神室花のことは。

 花は磯部が座っていたウッドチェアに腰を落ち着け、飲み残されたカフェオレに悠然と口をつけた。遠ざかる磯部の背中を見つめ、「お大事に」と無感動につぶやく。

 意味不明の警句だった。この時点では。

 あとから知ったことだ。磯部の父親は、少し前に脳梗塞と診断された。この日の昼過ぎに突然倒れ、そのまま寝たきりになったという。

 磯部は大学を辞めた。



 姿見の一件を経て、わたしは鏡を見るのが怖くなった。

 避けていたの。鏡の中に映る自分を。

 毎朝、鏡台に映る自分の顔。昨日よりもやつれている。明日はもっと痩せこけているかもしれない。身体につく生傷も日に日に増え、長袖でも隠し切れなくなってきた。

 せっかく入った演劇部も、結局三か月で辞めてしまったわ。あんなことを経験してからでは、とても通う気になれなかった。

 代わりに足を運んだのが図書室。毎日、授業が終わってから日が暮れるまで、本の世界に耽溺した。それまで、読書なんてまともにしたことなかったのにね。

 それでまた自分でも妙だと思うんだけれど、好んで読んだのはホラー系、特に実話怪談系の本だったの。あのころは世間的にも怪談ブームでね。怖い話を楽しむ趣きが、いま以上に強く根付いていた。ヨナシロくんも覚えてるでしょ。ゴールデンタイムに身の毛もよだつような心霊番組が放映され、子供向けの雑誌には必ずと言っていいほど怪奇特集が組まれていたあの時代。世紀末の、賑やかでけれども薄暗いグロテスクな雰囲気に、怪談という題材がよく馴染んだ。震災やバブル崩壊などの暗鬱と、ノストラダムスの大予言などの狂乱が一体となって、子供心に奇妙な昂揚を感じたわ。

 図書室の棚にはジュニア向けのホラー小説や投稿怪談がひしめくように詰められていて、わたしは窓辺の席に座ってそれらに読みふけった。窓外に雨雲がたちこめ、小雨がしとどに降る日なんかはことさら没頭できたわ。本を読むときと寝床に就くときだけが、わたしにとって心の底から安心できる時間だった。

 それからほどなくして――

 不可解な夢を見た。

 夜、寝室で寝てるとね。いつの間にか真横に、男の子が寝転んでるの。わたしと同い年くらいの、つまり言うとまだひげも生えてない、よく言えば可愛いルックス、悪く言えばちょっと頼りなさそうなウラナリ瓢箪。

 見たことのない子だったわ。そのウラナリくんがね、わたしの真横に布団をそろえて寝転んでた。無造作に放られた母親のスカートや化粧道具を上手によけて、厚みのある布団を敷いて。わたしの染みつき煎餅布団とは大違いの、鼻を寄せればお日様の匂いがしそうな布団。男の子は両目をまんまるに見張って、こちらを見ている。たぶんわたしも、同じような表情をしてたんでしょうね。それでも、すぐにこれが夢であることを把握した――明晰夢というのかしら。夢にしては妙に意識明瞭で、いまでも目を閉じれば当時の光景をありありと思い出せる。

 自分が眠りの中にいると認識できれば、冷静に状況を客観視できた。だって夢なんだもの、どんな荒唐無稽な状況だって、夢と認識していれば受け止められるでしょ。しばらくじっと、目が覚めるのを待ったのだけれど、そういう時に限って目覚めないものね。退屈を持て余して、ウラナリくんに話しかけようとした。なぜそうしようとしたのかは思い出せない――相手は現実の人間じゃないわけだし、何を話そうが心配ないと思ったのでしょうね。

 なにか話しかけようとして、驚いた。彼のほうから話を切り出してきたのだから。

 きみ、怖い話は好き?――て。

 はにかんだ顔で恐る恐るといった態。声変わりの過渡期と思えるテノール。夢の中の人物だというのに、妙に現実感があった。きちんとした一個の人格を備えているようにね。

 けれども所詮、彼はわたしの脳が作り上げた人格にすぎないのだわ――だって、初対面の異性に放つ最初の一言が、「怖い話が好きか」だなんて、ちょっとねえ。常識的にどうよ、みたいな。孤立していた当時のわたし、そのわたしの中にも、好きな物について他者と話し合いたいという願いが存在していた。それが夢という形になって出てきただけ。そう、これは都合のいい夢。そう思ったの、あの時は。だから気兼ねせず、ごく普通に応対したの。「うん、大好き」。

 とたんに彼は顔をこちらに向け、おずおずとわたしの目を見た。その瞳にわずかながら光が照っているのを、わたしは見逃さなかった。ウラナリくんは緊張をほぐすように口元をゆるめる。そこを起点に、笑みが広がる。一滴のインクが水面に染むような――そう、染み透るような笑み。くちびるがぷっつりと開いて語り出す。

 こんな話を聞いたんだ、と。

 それを皮切りにして、酔夢はいっそう深まった。

 語られた内容については、割愛するわ。どこかで聞いた覚えのある、もはや二番とも言えないくらい煎じ詰められた怪談話。彼の不慣れな調子もあって、陳腐にすら感じたわ。でもね、わたし、楽しかった。彼の語る内容以上に、誰かと怪談話を共有するというこのシチュエーションが。

 時間は、溶けるように過ぎていった。

 朝日を――まぶたの裏に日の光を感じて、目を覚ました。

 かたわらに顔をそむけても、そこに有るのは無造作に放り棄てられた化粧ポーチ、開いたファスナーから転がり出たパステルピンクの悪趣味な口紅。男の子の姿なんて、どこにもなかった。

 家事、登校、休み時間。退屈なルーチンワークを消化しながら、頭の中は昨晩の夢のことでいっぱいだったわ。その日見た夢の内容なんて、普段だったら半日もせずに忘れちゃうのに。

 日付変わって草木も眠りについたころ、ようやくその日の「ノルマ」から解放された。冷水と熱湯を交互に浴びて疲れ切ったわたしは、寝室の隅に布団を敷いた。部屋は、脱ぎ捨てられた下着や使いかけの生理用品なんかで散らかっていたけど、片付ける気力も湧かなかった。真っ暗な部屋に一条の灯りが差し、ドアの隙間から母親が入ってくる――そんな状況を想像して身をすくめる。本や映画で味わうのとは違う、楽しむ余地のない緊張感。やがて玄関のドアが開く音、母親らしき足音が外に繰り出す。それを耳でたしかめ、ようやく人心地着いた。眠気と疲労感にじわじわと引きずりこまれ――

 かたわらで誰かが、やあと言った。少し照れた口調だった。

 見れば、昨日と同じウラナリくん。

 お返しに「また会ったね」とあいさつした。どうにも心が浮足立っていたわ。彼が何かを言う前に、その日はわたしのほうから切り出した。用意していた話があって、聞いてほしい怪談があって、気づけば口を開いていたの。「ねえ、こんな話を知ってるかな――」



 続く話の内容に、僕は覚えがあった。遠い昔、誰かの口から聞かされた気がするのだ。

 まどろみながら記憶を探る。

 そう、まだ小学生のころだったと思う。寝かされていた。知らない家の寝室。隣には女の子。顔はもう思い出せない。けれど怪談を語るとき、その眼が宝石のように瞬いていたのを覚えている。まるで秘密の宝箱を開けるようなキラキラとした面持ちで、恐ろしげな話をつまびらかにしていた。そして僕は、固唾を飲んで話に聞き入っていた。

 怖がりな部分は、いまも大差ない。でもあのころと現在とで決定的に違うのは、怖さを楽しむ気持ちを持っていたかどうかだ。子供時分の僕は、テレビで心霊番組がやっていたら必ず食いつき、図書室でもオカルト系の本ばかり読んでいた。

 それをやめたのはいつからだろう。

 そこまで考えたとき、全身にぶるりと悪寒が走った。たまらず花の裸体を強く抱いた。それに応じ、細い両腕が背中にまわる。冷血動物のような冷ややかさが体を覆い、時間をかけて温もっていく。決して長すぎない爪が背筋をそわそわと這い、鋭い感触。両手の爪が背中に軽く突き立ち、左右に開くようにひっかいている。僕の表皮をこじ開けて、中にある何物かを取り出そうとしているのだろうか。そう、大切な何かを。

 それを僕は忘れている。

 思い出さなければいけないことを。

 思い出してはいけないことを。



 あくる日は朝から薄曇りだった。

 午前中にその日の講義をすべて終え、どう過ごすべきかぼんやり思案していたところ、とうとう頬に一滴落下、やがて中庭全体にそぼそぼと降り出した。

 晴耕雨読のことわざに従い、構内の大学図書館に足を向ける。講義棟の影にひっそりと設けられた二階建ての建物で、老朽化にともない来年には改築予定とのことだ。入学してから一度も入ったことが無かったし、リニューアル前に一度くらいは行っておきたかった。

 蛍光灯でむやみに明るく照った館内。意外にも多くの学生がいる。僕と同じく暇を持て余した連中だろう。けれど彼らの目的は微妙に異なるようだ。そのほとんどは机の上にパソコンやルーズリーフを広げ、本に目を通しつつ時折メモを取っている。課題に取り組んでいるのだろう。

 僕はといえば文学の棚から数冊抜き出し、人気のない窓際の席に落ち着いた。

 目の前に積んだのはどれも不気味な表紙の本ばかりで、読みはじめたうちは周囲の人目が気になった。知り合いに見られたらどうしよう。学友との人間関係もまだそれほど深くない以上、変なレッテルを張られることは避けたい。けれど読み進めるうちに、そんな不安は頭から吹き飛んだ。

 末尾まで読み通して本を閉じたとき、ちょうど閉館十五分前のチャイムが響いた。気づけばお腹が空いている。四時間以上も座りっぱなしでありながら、それなりにカロリーを消費した証左だ。

 窓の外では、遣らずの雨と化した五月雨が細く降りそぼっている。

 傘、持ってこなかった。仕方がないけど、家まで走らないといけない。

 結局――数冊抜き取ったものの、一冊しか読み切れなかった。もともと読むのは早くない。これは翻訳物なので、なおさら手こずる。けれど文体以上に、物語の内容を受け入れるのに苦労した。ジャムとケチャップを混ぜたような作者名、表紙に大書された「これはヤバい! 最悪のことが起こります!」という惹句に引き寄せられて読み、四時間後のいま、表紙を見返してため息をつく。宣伝に偽りはない。腹に重たいのしかかりを感じていた。

 あらすじはこうだ。

 ある夏の日、主人公の少年の隣家に、同年代の少女が居候としてやってくる。主人公は彼女に惹かれていくが、日が経つにつれて少女の表情は翳っていく。彼女は居候先の中年女から、苛烈な虐待を受けていたのだ。やがて主人公は虐待現場に遭遇するが、見ているだけで助けようとはしない。そのうち女の息子や周囲の少年たちも虐待に加わり、少年時代の初恋は、酸鼻を極める事態へと発展する。忘れられない過去の傷が、ノスタルジックな情景と共につづられていく。

 分類としてはホラー小説に類するのだろう。だからこそ、手に取った。読みやすくはなく短くもないのに一度も中断することなく読み切れるリーダビリティの高さ、かなり面白い小説には違いない。

 けれど……。

 これは僕の求める恐怖とはいえない。背筋は凍るがただただ冷たい。

 読み終えたその本を棚に戻し、机上の数冊をまとめてカウンターに向かう。一番上は、「新耳袋」の第四巻。小学生のころ、児童館の図書室で借りた記憶がある。それほど分厚くもない一冊の中に百の怪談がぎっしり詰まり、それらを一話一話つまびらかにしていくのは心躍った。夜、降りてくるまぶたをこらえながら、もう一話もう一話と読み進めていたのを覚えている。あのころの僕にとって、怪談は魅惑的な輝きを秘めた宝石箱だった。友達もろくに作らず図書室に入り浸り、夏の夜は冷房の効きすぎた居間で心霊番組を見ながら家族団欒、寝る前に暗い天井を見つめてると、その日見た恐怖映像が呼び起される。楽しい日々だった。怪談と名のつくものを、片端から蒐集した。

 それなのに、ある時からぱったり読まなくなった。カブトムシやクワガタに夢中だった子が、長じるにつれ昆虫嫌いになるのはよくある話だ。けれど僕の場合、それとは少し事情が違う。本当に、あるタイミングから、僕はホラーというジャンルすら忌避するようになったのだ。どういった理由でそうなったのか、このところ心に引っかかっている。こうしてその頃夢中になった本を読み返せば、手掛かりがつかめるのかもしれない。

 貸出作業を終え、リュックサックに本をしまう。借りたのはすべて単行本だ。文庫もそれなりにあったが、サイズの大きいこちらのほうが、二人で読むのには適しているだろう。そう、読むのだったら二人一緒がいい。どうせ花は今夜も来るだろうし、一人で読んだらトイレに行けなくなるだろうし。

 図書館を出ると、湿ったアスファルトの匂いが辺り一帯に沈滞していた。長雨が水たまりにいくつもの波紋を広げている。下宿先まで走って帰ろう――リュックを抱えて駆けだし、止まる。

 花。

 赤い花。

 どんよりと灰色がかった視界に、大輪の花がたたずんでいる。チューリップのようでもあり彼岸花とも思しい鮮やかな花弁が、降りそぼる雨を受けとめていた。

 それはほんの一瞬の見間違いだ。花弁に見えたのは広がった傘で、不自然なほど前方に傾いだそれが、持ち手の目から上を隠している。けれど傘下からのぞく微笑をたたえた口元、紺色の長袖、それらにはすっかり見覚えがあった。毎晩共に過ごしているのだから当然だ。とたん、とくん、胸が高鳴って、僕は彼女のもとへ駆け寄った。降りかかる雨粒の冷たさも忘れて。傘下に隠れていた顔があらわになる。もはや間違えるはずのない、神室花の顔。だがその両頬は異様だった。左右に一つずつ手のひら大のできものがあり、それらは目鼻口を備えていて、同時にこちらをにらんだ。

 金切り声が喉を突き、全身が大きく後方に傾いて、気づけば水たまりに尻餅をついていた。ズボンにしみこむ不快な感触。周囲の学生たちが、何事かとこちらを見る。最悪だ。

「人の顔を見て叫ぶなんて、ずいぶんとご挨拶ね」

 頭上に傘が差しいれられた。雨天下で翳っているものの、覗きこんでいるのはまごうことない神室花の顔だった。「あーあー、びしょ濡れ。傘くらい持っていきなさいよ。風邪引いちゃうでしょ」

 ほんと抜けてるんだから、と可笑しそうに嘲笑し、手を差し伸べてくる。それを取るのも情けなくて、僕は自力で立ち上がって尻をはたく。その手をピシャリと花が除けて、代わりに僕の尻を払う。これではまるで、転んで母親に泣きついてる幼児じゃないか。周りの視線が痛い。尻に付着していた泥と湿り気までもがきれいに取り除かれているのも不可解だけれど、これはもう些末な問題だ。どうしてここにいるのか聞いたものの、あいまいな態度ではぐらかされた。これも、いつものことだ。僕は眼前のつるりとした両頬をなでた。殻をむいたゆで卵の感触に似た柔肌で、当然ながら人面瘡などどこにもない。なんて思っていたら、花が目をつむり、とぼけた様子で「んー」と唇を突き出してきた。一瞬逡巡する僕。

 公衆の面前で応じるわけがないだろう嫁入り前なんだからもっと恥じらいを持ちなさいおバカと説教すると、「いま二秒くらい間があったよね」と返された。図星を突かれて何も言えなくなった僕、なけなしの見栄をはろうと傘の持ち手を引き受ける。

 構内を出て、傘を共有しながら二人、アーケードを歩いた。持ってみてわかったけど、これはどうも子供用の傘だ。どうりで、やけに肩が濡れるわけだ。大人二人を入れるには心もとない。さらによく見ると、骨が一部ひしゃげている。持ち手部分には、小学生が使うようなネームストラップ。

 えいこ、という名前が読み取れた。

 いつぞや花の話に出てきた女の子の名前が、たしか同じだったな。これはその子の傘なのだろうか。けれどそれなら、その傘を、なぜ花はいまだに持っているのだろう。

 僕は傘を少しずらして、かたわらを歩く少女の全身を覆った。さりげなさを装ったけど花にはお見通しだったようで、「わたし、そんなに横幅広くないんですけどー」と唇を尖らせ、肩で小突いてきた。ますます押し出される僕。やっぱり雨の日は不便だ。早くお金を貯めて、車を買おう。もし花がにわか雨で立ち往生しても、僕が車で迎えに行けるし。

 軽い口調でそう笑いかけたものの、彼女は白けた顔をしていた。失望さえしているようだ。憮然とした表情で、「わたしはね。こんな雨の日に車でさっそうと迎えに来てくれるような、そんなダサい男には興味がないの」

 言うなり傘をひょいと奪った。ぬれるこちらには構いもせずにステップを踏む。機嫌を損ねたのかと思ったけれど、そうではないようだ。足元に敷かれたタイルの黒いところだけを器用に渡り歩いて、壊れた傘を高々とかかげた。往年のミュージカル映画のような動きだ。片手で傘を、もう片方の手でスカートのすそをつかんで、くるくるとまわりだす。つかんだすそをふわりと払いあげると、紺色のワンピースは見る見るうちに色づいて、桜色のニットと若草色のキュロットスカートに変わった。もう一度まわると、今度は純白の花嫁衣裳。さらにもう一度、お次は黒の夜会服。

 僕は自分がぬれねずみになることも忘れて立ち止まった。奇矯な態度に呆然としていたのもある。不思議な光景に目を奪われたのもある。けれどそれ以上に、何だか新鮮味を感じたのだ。いつも目にする花の姿は、その多くが、暗闇で照る裸体だ。だから、雨粒を飛ばしながら笑う彼女は、より一層幼く映った。

 雨の中を歩くのも、たまにはいいな。

 花は舞踏を終えて優雅に一礼、ちょっと誇らしそうな笑顔だった。僕はずいぶん腑抜けた表情をしていただろう。不覚にも見とれていたのだ。気取られないよう表情を引き締め、彼女のもとへ行って傘を受け取る。

 そうしてまた、しばらく歩いた。歩きながらおしゃべりをした。なんてことのない会話ばかりを。こんな時間に二人で歩くなんて初めてだと、僕は言った。日は翳っているけど沈んではいない。そんな時間に、野外で花と歩くのは初めてだった。

 添い寝したり、怪談を語ってもらうのもいい。けれど、時々はこうして、恋人らしく一緒に歩いてみたい。雨の日だけじゃなく、晴れた日にも――そう提案すると、花はふと表情を曇らせて、

「そうね」

 消え入りそうな声だった。触れればふっと霧散してしまいそうな……。僕を嘲弄しくすくすと忍び笑う、そんな普段の様子は見当たらなかった。

 それを目の当たりにし、この提案がかなうことはないのだろうなと、僕はぼんやり予測した。傘をさす手に力がこもる。そこに小ぶりな手が重なる。「相変わらず、手汗すごいなぁ」揶揄する彼女の白い手は、雨の中でも乾いていて。

 底冷えしたように、冷たかった。



 二人そろって帰宅し、シャワーで雨水を流す。花は僕よりも先に洗い終えて浴室を出た。カラスの行水とはこのことだ。遅れて風呂から上がると、リビングの床にたくさんの衣類が散らかっていた。これじゃあカラスに荒らされたゴミ捨て場じゃないか。見れば鴉の濡れ羽色した髪の少女が、袖丈の合わないジャージを着て悪童じみた笑みを浮かべている。勝手に僕のクローゼットを漁ったみたいで、勝手知ったる我が家という態で冷蔵庫から缶ビールを出し、ああこれはもうカラスと思いきや泥棒猫だ。すがすがしいほどにふてぶてしい。今夜は日本酒に合う献立を考えていたのに、これでは変更もやむなし。作り置きの肉みそと枝豆をビールで流し、まだだいぶ早いけど床に就く。

 借りてきた「新耳袋」を枕元で開き、シングルベッドに二人で寝ころんだ。邪魔な明かりを消し、サイドテーブルに置いた読書灯のみを頼りにページを繰る。余計な装飾のない、見聞きしたことを淡々と伝える文章は、すんなりと呑みこめた。怖いはずなのに、もう一話、もう一話と読めてしまう。ページをめくるのが早すぎたのか、たびたび花が待ったをかける。時折そっと盗み見ると、間接照明に照らされた横顔は幼げな好奇心をたたえていた。

 最後まで読み切ったとき、読み手の周囲でも怪異が起こる――百物語や九十九怪談のお約束ごとだ。けれど僕らはそれを無視して、夜が深まるころには読破した。さすがにその手の警句を鵜呑みにするには年を取りすぎてしまったし、それに何かが起こるというのならそれはそれで遭遇してみたい気もする。怖がりの癖に変だけれど、僕は少しわくわくしながら、読書灯を切った。

 室内は本格的な闇に覆われる。天井に亡霊の顔が浮かんだりしないかな。当然そんなことは無かった。当たり前だ。花の体を手繰り寄せ、どこかも分からない部位にキスをして、軽く息を吸う。まぶたが少しずつ下がっていく。

 窓の外では、雨音がその勢いを増していた。雨粒というより雨礫と化した風雨が、ガラス戸に間断なくぶつかり滴る。寸隙を突くように空が白んで、どろどろと陰気な雷鳴を響かせた。

 それとともに、金属をこするような音。

「なにか聞こえない?」

 花も気づいたようで、怪訝そうに言った。

 たしかに、玄関から聞こえる。老朽化したドアが、風雨に打たれて鳴っているのだ。

 けれどそれだけじゃなった。その音にまぎれて、

 かちゃ……。

 かちゃ……。

 誰かが、ドアノブをひねっている。

 息を殺すこちらにはまるでかまわず、風雨にまぎれて何者がたしかに、控えめな力で、二度三度とドアノブに手をかけている。この部屋への侵入を、試みている。

 酔っ払いが部屋を間違えたのか?

 それとも、本当に、何かを呼び寄せてしまったというのだろうか。

 僕はベッドから抜け出した。いざとなったらすぐ通報できるよう、携帯電話を握りしめて。

「ヨナシロくん――」

 背後で引きとめる花を制し、土間に降り立つ。ドアに埋めこまれた魚眼レンズを覗いた。

 誰も映っていない。

 雨に打たれるコンクリートの塀、その外に黒々と広がる、灯りの消えた街並み。それしかない。ドアが暴風に煽られただけだったのかなと、安堵したのもつかの間、

 インターホンが鳴った。

 ドアの向こうには、やはり誰もいない。

 僕はレンズから目を離して、あとずさった。上がり框に踵をつっかえ、尻餅をつきそうになる。追い打ちをかけるように再度インターホンが鳴り、

 かちゃ……。

 かちゃ……。

 今度ははっきりと、目の前で、ドアノブがひねられた。明らかに、自然現象によって生じた動きじゃない。

「隠れて」

 花が僕の手を引いて、猛然とベッドに引き返した。

「ベッドの中に」言うが否や、頭の上にシーツをかぶせる。

 むせ返りそうな密閉空間でお互いの体を密着させ、何が何だかわからないまま闇雲に花を抱きしめ、覆いかぶさった。早鐘を打つ僕の心臓に対し、重ね合わせた彼女の胸からは鼓動一つ伝わってこない。もともと冷たい彼女の体から、さらに急速に体温が奪われていくような気がして――抱きしめる力が強まる。

 きい、と軽くドアが鳴って、重々しく閉まる。

 足音は無い。

 けど、誰かが近づいてくる気配。

「お迎えね」胸の中で花がささやく。「わたしを連れ戻しにきたんだわ」

 そのとき、また、強烈な既視感に見舞われた。

 脳裏に焼きついた凶相。テレビ画面に映し出されたあどけない顔。死顔。灯りの消えた部屋。忍び寄る影。固く目をつむればつむるほど、多くの景色がまぶたの裏に蘇る。

 思い出した。

 七年前。

 目の前で連れ去られた、あの子のことを。



 目が合うと、彼女は染みとおるような笑みを浮かべた。

 いまだからこそわかる。あれは当惑の笑みだったんだ。どうすればいいかわからず、適当な愛想笑いを浮かべたにすぎなかったというのが真相だろう。なぜわかるかって? だって、そのときの僕も、きっと似たり寄ったりの顔をしていただろうから。

 なにせ、夜、いつものように自分の部屋で眠っていて、ふと目を覚ますと知らない部屋に寝かされている。隣で布団を並べているのは、同世代らしい知らない女子。女子に話しかけることはおろか、視線すらもろくに合わせられないシャイなナードだった当時の僕には、この状況は正直いたたまれなかった。相手も切り出すのをためらってるのだろう、寝室に沈黙が降り立つ。

 女の子から視線を逸らした。見ることから、逃げた。視線を合わせたのは、ほんの数秒で、だというのに、彼女の笑顔はまぶたの裏にすっかり焼きついてしまった。明かりのない部屋でわずかに照る色白の肌。細めた両目にふっさりとかぶさるまつ毛。

 さまよった視線を、天井から下がった電灯の紐に定める。四角い枠の中に円形の電灯が収められた和造り。普段、寝床から見上げる花蕾をかたどった洋風電灯とは明らかに別物だ。さして面白くもない光景を眺め、なんとなく思う。この状況は夢なんだと。普段はどんなに支離滅裂な内容であっても、目覚めるまではそれが夢だということに気づかないのだけれど、このときはわりと早い段階で察知していた。僕の隣で同年代の女の子が寝ているなんて、それくらいあり得ないことだったのだ。

 けれど、夢にしては妙に五感を刺激される――覆いかぶさっている掛布団の重み、隣に添う女子のたしかな存在感、古びた畳の匂い。極めつけは、部屋中に沈殿する異臭だった。嗅いでいてほんのりと不快感を覚える、すえた臭い。その時の僕にとって、それは全く覚えのない臭いだった。けれど、七年経った現在なら、心当たりがある。これに近い臭いを、僕はこの先の人生で嗅いでいる。

 たとえば、元カノの寝室に置かれていた衣装ケース――下着やら制服やら毛の絡まったブラシなんかも放り込まれ、梅雨の時期にはじんわりと不衛生な臭いを発していた――

 たとえば、酔った勢いでシャワーも歯磨きもせずに女子と同衾した晩――べったりと張り付く汗の感触、相手の唾液に残るカルーアミルクの味、髪から臭う皮脂と香水の混じった臭いがとにかく不快だった――

 その部屋には、それらと同じような一種の生臭さが漂っていた。どうして、年端もいかない女の子の寝室からそんな臭いが放たれていたのか。大人の女性が掃いていそうな丈のきわどいミニスカートや、使い古した化粧ポーチなんかが無造作に床に放られていたのか。わからなかった。わかろうともしなかった。当時の僕は、ただただそれを変わった臭い程度にしかとらえていなかった。それよりも第一に考えなければならないのは、横にいる少女にどう反応すべきかということだ。

 君は誰?

 ここはどこ?

 どうして、僕の隣で寝ころんでるの?

 当然ながら、頭に浮かんだのはこれらの疑問だった。けれど、いざ口にしようとしてバカバカしくなった。どうせこれは夢なんだ。夢に合理的解釈を求めてもしかたがない。どうせなら、普段話したくても話す機会のない話題を振ってみるのはどうだろう。

 再び女の子の顔を見て、何でもいい、とにかく自分の好きな話題を振ろうとした。けれどどうしたことだろう、目を合わせると、いったい何を話せばいいのか全然思いつかない。下手なことを話したら嫌われてしまうのではと、どういうわけか夢中の住人に変な気遣いをしてしまう。そうしているうちに、女の子の唇が開きかけた。まずい! ここは進んで口火を切らないと、男として格好がつかない。真っ白になった頭をとっさに回転させ、しどろもどろの口を突いて出したのは、怖い話は好きか、という、自分の趣味をこれ以上ないほどに押し出した言葉だった。

 やってしまった……。

 とたんに後悔する。初対面の人に対して、いくらなんでも唐突すぎる質問だ。しょせんは夢なのだから、気を遣うだけでも損ってものだけれど。

「うん。大好き」

 女の子の顔がほころんだ。都合のいい反応だと冷めた気持ちになる一方、悪い気はしなかった。少々無理やりだけれども、会話はなんとか軌道に乗った。流れで、僕は怪談話を披露した。「こんな話を聞いたんだ――」と、まるで自分が蒐集した話であるかのように語り出したものの、そうでなかったのは確かだ。コミュニケーションの苦手な小学生に、怪談の聞き覚えなんてできっこない。大方、そのころ読んだ怪談集の中から、記憶に残った話を適当に見繕っただけだろう。

 もちろん怪談語りなんて初めての経験だった。内容は忘れたけれど、話の出来に対して語り手の腕が貧弱だったのは間違いない。話の組み立てがうまくできずしどろもどろになりながら、十秒に一回は「あー」とか「ええと」なんて無駄な接続詞を挟み、盛り上げるべき箇所をさらりと流して、おまけに滑舌も不明瞭。プロの怪談師と比較するまでもないし、素人目に見ても拙劣だったのをおぼろげながら記憶している。

 けれど話している間、一心にそそがれる視線を感じた。女の子は興味津々といった様子で目をぱっちりと見開いていた。掛布団の裾をぎゅっと両手でつかんで、一言も聞き漏らすまいと。話しおえたあとも、視線はなかなか外れなかった。お互い目を合わせたまま、何も言わない。何を発せばいいのかもわからない。僕は逃げた。どうにもむずがゆくなって。掛布団の端で顔を覆い、視線をさえぎったのだ。

 しばらく経って、かぶさった布団の向こうに何やら光を感じ、除けてみると朝日が高く昇っていた。部屋も見慣れたいつもの寝室に戻っている。

 やっぱり、夢だったんだ。

 変な夢。

 けれども気分は昂揚していた。同年代の子に怪談話を語る機会なんて、現実にはまずなかったから。

 その日はもう、起床してから寝床に就くまで、何をするにもその女の子のことばかりが脳裏によぎった。いつもならどれだけ強烈な夢を見ようと、日に日に印象が薄れ霧散していくのに。一日の終わりにまぶたを閉じると、そこには昨晩の少女の、あの好奇心を湛えた面立ちがありありと浮びあがった。意識が眠りの底へ沈むにつれ、まぶたの裏のその顔は徐々に徐々に鮮明になる。輪郭が濃くなって全体的に色味を帯び、顔だけでなく横たわった全身、さらには散らかった四畳半の背景までもがくっきりと表れた。

 目の前に、昨夜の少女の横顔があった。彼女も、そして僕も、昨日と同じ部屋で、昨日と同じように横臥している。あおむけになって目をつむっている彼女に、僕はなけなしの勇気を振り絞って、やあと投げかけた。それを予期していたように、まつ毛の長い両目が開いて、

「また会ったね」

 昨日よりも、ほんの少しだけ砕けた笑顔。口角をあげ、大粒の目をわずかに細める。

 その表情を見て、僕はとっさに目線を外した。内心の昂ぶりをおさえながら、努めて軽く応じる。

 なんとか会話を続けようと話の切り口を模索していたところ、その夜は彼女のほうから話題を持ちかけてきた。同年代の女子らしい、男の子よりもほんの少し大人びた声色で、それでもちょっぴり興奮を抑えきれない調子で、「ねえ、こんな話を知ってるかな――」

 不思議な少女との親交は連夜続いた。僕はすっかり、夜眠ることが楽しみになっていた。

 三日ほど過ぎたころ、僕らはようやく互いに名乗った。彼女は、僕の珍しい苗字に興味を持ったらしい。

「いいなあ、強そうな苗字。でもあなた頼りなさそうだし、カタカナで書いたほうがしっくりきそう。あらためてよろしく、ヨナシロくん」

 珍苗字の僕に対し、彼女はというと下の名前が他に類を見ないものだった。画数の多い漢字ばかりを強引にあてがった、ルビを振らなければ判読できない名前。ずいぶん奇抜なネーミングだと内心思ったが、口には出さず、障りない程度に褒めた。「もっとシンプルでかわいい名前がよかったわ」と、半ばあきらめつつも望みを捨てきれない様子で彼女は嘆いた。

 それ以上、お互いのプロフィールを聞き出すことは無かった。相手の詳細を知ってしまうと、かえってつまらなくなる気がしたからだ。夢の中の住人には、夢の中の住人であり続けてほしい。

 ただ、少女が僕と同い年ということ、散らかってほんのり生臭いこの部屋が彼女自身の寝室であることは、言葉の節々から把握できた。母親と共同で使っていて、しかしそういうわりに、部屋にはいつも彼女しかいなかった。夜が深まる時刻であっても、寝ている母親を見た記憶はない。

 そもそもこの家に、この女の子以外の人がいるのだろうか。部屋の外からは、足音ひとつ聞こえてこない。外がどうなっているのか気になったけれど、残念ながら部屋からは出られなかった。身体がぴったりと布団に張り付いて、起き上がることさえできなかったのだ。

 ある時、家族の所在を尋ねると、彼女は何も答えずに微笑んだ。

 さびしそうな顔だった。

 気のせいかな。出会った当初よりもやつれているように見えた。頬から顎にかけての傾斜が増し、目も何だか落ちくぼんでいる。背中まで伸びた髪は初対面の時から一度も切っていないようで、艶を失い枕元に広がっていた。煎餅布団からのぞく手足も、もともと細くて蝋燭じみていたけれど、いまや骨に薄皮を張っただけにしか見えない。まっすぐにこちらを見据える瞳は健在だったけれど、声の張りは徐々に失せていった。しゃべるときもぼそぼそと息をひそめ、末尾を聞き取れないほど語調が弱まり、やがて彼女は、怪談を語らなくなった。もっぱら聞き役に徹したのだ。それでもこちらが語る話には、興味深そうに耳をかたむける。相槌を打ちながら聞き入ってくれる。だから、彼女と会うのは相変わらず楽しかった。

 いまにして思えば、逃げていたのだ。何かがおかしいと気づいていながら、しょせんは夢だからと無理やり割り切って、それ以上考えないようにしてきた。

 いつからだろう。

 横たわる少女の体の向こう側に、黒い靄がただよいはじめた。夜闇よりもいちだんと濃いそれは、寝転ぶ彼女の背後に沈滞し、小柄な体躯がやせ細るのに比例して幅を広げていった。それにつれて部屋の臭気も酷くなる。放置した生ごみのような腐臭が混じり、いまやはっきり悪臭と呼べるものになっていた。空気はよどんでいて、ろくに換気もしていないのがうかがえた。もはや「気のせい」で片づけられるものではない。違和感は日毎に増していって――

 まもなく、あの夜がおとずれた。

 

 

 ――ねえ、聞こえない?

 何が。

 ――足音。

 その夜、消え入りそうな声でそう言われるまで、僕はとっておきの恐怖体験を披露していた。本で読んだ話ではない、自身の体験に基づく怪談だ。初めての試みということもあり、いつも以上に気分も昂ぶっていた。

 こんな話だ。

 両親が仕事で外泊し、一人で留守番をしていたある晩。

 居間で深夜番組を見ていたら、玄関のドアノブがけたたましくひねられた。

 親が帰ってきたのかと思ったけれど、それなら鍵を使うはずだ。表を確認する勇気もない。怖くなって母親に電話で事情を話すと、

「絶対に出ちゃダメ!」

 いつになく緊迫した返事。

 その間も、ドアの外の誰かはしきりにノブをひねり、家に入ろうとしていた――

 語りを中断し、反応を待つ。

 普段の彼女なら、話の結末を聞きたがるはずだ。

 けれど、いつまでたっても反応がない。

 少女は薄開きの胡乱な目で、あおむけのまま襖を見ていた。部屋の外に気がいっているようだった。どうしたのか尋ねようとしたところで、先のセリフ。

 僕ははてなと首をひねった。足音なんてまったく聞こえない。耳をすましても、部屋の外は静まっている。

「お母さんだ」

 だしぬけに少女が言った。か細かった声に、ほんの少し張りが戻る。

「お母さんが帰ってきた」

 母親。

 いったい、この子は何を言っているのだろう。

 部屋の外に気を配しても、足音なんて聞こえない。いぶかる僕にはお構いなしに、少女は息を呑んで布団の中に身を固めていた。どす黒い靄が、骨と皮ばかりの体を包んでいる。

 みしぃっ……。

 布団につけた片耳に、わずかな振動を感じた。これは……? リノリウムの床板が軋んでいる。振動は部屋の外から伝わっていた。一定の間隔を空けて、徐々に大きくなる。僕はしんと息をひそめた。足音というのはこれだろうか。何者かが近づいていることに、遅まきながら気づく。

 廊下の奥で、少女を呼ぶ声がした。中年女の甲高い猫なで声だ。

 ――遅くなってごめんね。お腹空いたでしょ。

 ――焼きそば買ってきたから、一緒に食べよう。

 明かりのない屋内には不釣り合いなほど、軽やかな口調。布団にくるまっているのに、なぜだか僕は、体の芯に冷えた棒をピタリと当てられたような悪寒を感じた。

 そうしている間にも、足音はどんどん廊下を進み、そして唐突に、止んだ。

 ふすまの向こうに、人の立つ気配。

 ――とんとぉん。

 おどけた声とともに、ふすまが二度小突かれる。

「お母さん」少女がわずかに首をもたげて襖を見た。「やっと戻ってきたんだ」

 ダメだ――

 とっさに、体が動いた。少女を引き寄せ、無我夢中で掛布団をかぶせる。そして自分ももぐりこんだ。視界の端で、ふすまがゆっくりと開かれていくのをとらえた。

 汗ばむほど暑く息苦しい閉鎖空間で、僕たちは密着する。わずかな力で僕の胸板を押し、布団から出ようとする少女を、固く抱きとめる。いくら子供といえど、一枚の掛布団に二人が身を隠すのはかなりギリギリだ。ちょっとでも身じろぎすれば、すぐに体のどこかがはみ出してしまう。華奢な体は両腕にすっぽりと収まり、小作りな顎が僕の首筋にそっと乗る。こんなときでも照れてしまう自分が、少し悔しい。

 無音の時間が続いた。

 けれど誰かの気配はたしかに伝わる。布団のふち、僕らの足元らへんに立って、おそらくこちらを見下ろしている。額に幾筋もの汗が浮かんだ。掛布団の外をちらりとどけて、外を確認したい衝動に何度も駆られた。身体の芯から瘧のような震えが起こる。心を無にしようと必死に努め、震えをおさえた。すると、両腕に小刻みな振動。少女の全身が規則的に微震している。汗ばむ僕とは裏腹に、重ねた手の甲はかさかさに乾き、全身、風に揺れる枯葉のようだ。この状況下で寒がるはずもない。恐怖による震えだろうか。というより、これは――痙攣?

 時間だけが流れた。一時間、二時間――いやひょっとすると、ほんの数分だったかもしれない。僕らは息を殺して、身じろぎ一つせずじっとしていた。冷や汗とも脂汗ともつかない不快な体液が、パジャマの下にじっとりと染む。

 僕は気づいた。首元を湿らしていた少女の息遣いが、いつからか絶えている。抱きしめた体からは脈動も伝わらず、静かに冷えていた。少女の顔を見る。目は開いていた。まどろんでいるような半開き。どこを見ているのかもさだかじゃない。ほほを叩いてもまぶたひとつ動かさず、僕の腰にまわったか細い腕は――蝋人形のように固化していた。僕の思考も固まった。その瞬間、尾てい骨と背骨を、百足の這うような不快感が駆け抜け、とっさに少女の体を突き飛ばした。

 生ぬるい空気が額を撫で、背中に冷たい畳の感触が伝わる。反動で布団から飛び出たのだ。

 明かりがさしていた。廊下にともった豆電球だ。開いたふすまの先から、漏れている。そこに混じる、細長い影。誰かがふすまに手をかけていた。逆光で顔はよく見えない。大人の女らしい、ということはかろうじてわかる。ふすまを開けた状態で固まっている。僕たちを見下ろしているのだろうか。

 両手で立ち上がろうとしたが無理だった。腰が完全に抜けていた。口から漏れ出たのは、助けて、という、情けない命乞いだった。そんな、誰に向けたかもわからない懇願をひたすらつぶやきながら、僕は後ろ手で後ずさった。

 かたわらに転がる少女を無我夢中で揺する。起き上がる見込みがないことはわかっていながら。一縷の望みにかけていたのかもしれない。あるいは気が動転していただけなのか。

パサパサに乾いた彼女の髪が指先に絡み、根元から一房、ごっそりと抜けた。掌で力なく垂れた異様な数の毛束。ずっしりと重いその感触に総毛だつ。喰いしばった歯の隙間から、ひきつった悲鳴が漏れる。これは夢だ。だったらいますぐ覚めてほしい。

 人影が動いて、部屋の中に入ってきた。音もなく正体も定かでない何者かは、凍りつく僕には目もくれずに素通りし、緩慢な歩調で、少女のもとへ歩み寄った。

 掛布団から無造作にはみ出し、ぐったりと横たわった少女。その姿はさながら、打ち捨てられたビスクドールだ。瞳にキラキラと好奇を湛えたあの横顔は、もうどこにも存在しない。

 影は少女のそばにしゃがみ込み、青筋の浮かんだ両手でその死顔を持ち上げた。桜色のマニキュアを塗った爪が、少女の血の気のない頬を挟み込む。声を発した。何とも形容しがたい声だった。盛りのついた猫のようにも、重たい物を引きずる擦過音のようにも聞こえる声で、

 ――ただいま。待たせてごめんね。

「一緒にいきましょうね」

 助けて。助けて。

 助けて。



 体を激しく揺さぶられた。ぼやけた視界に、薄く白んだ天井と、心配そうにのぞく父さんの顔が現れる。僕がなかなか起きてこないので、様子を見に来たのだという。僕は寝床で縮こまって、泣きながらつぶやいていたらしい。助けて、と。その様子が尋常じゃなかったので、声をかけたとのことだった。

 父さんはなおも気遣わしげに何か尋ねていたが、僕の頭には入らなかった。

 あの子は。

 あの女の子は、どうなってしまったんだろう。

 いまのは本当に、夢の中での出来事だったのか……?

 涙をぬぐおうと頬に手をやると、繊維質な感触がした。手の平を見た僕は、自分がまだ悪夢にとらわれていることを悟った。指先から付け根まで、明らかに僕のものではない長さの毛髪が、びっしりと絡みついていたのだ。

 それから数日後。隣市の団地の一室で、女児の衰弱死体が見つかった、というニュースを見た。

 遺体は死後数日が経過し、腐敗が進んでいた。同年代の女子児童と比べて著しく痩せ、虐待と見られる痕跡もあった。同居中の母親は、行方不明だという。

 テレビ画面には覚えのある氏名と、女児の年齢を示す十二という数字、そして生前の女児の顔写真が映し出された。画面の中から物も言わずこちらを見据えるその顔は、夢で何度も語らったあの少女のものだった。

 僕は怪談蒐集をやめた。



 ぎぃぃ……。

 部屋のドアが軋む。風雨が窓を叩く。それ以外に音は無い。けど、伝わる。異物が侵入してくる、気配。

 かなうのなら、いますぐシーツをはねのけて、その正体を目視したい。七年前の悪夢に現れたあの異形と、同じモノだろうか。七年前と同じように、また花を連れて行くというのだろうか。

「そんなに強く抱かないでよ」

 両腕の中で花がぶうたれた。思いのほか固く抱きしめていたようだ。

 死んじゃいそう――と彼女はひとりごちて、熱っぽい息を吐く。僕の胸元に吐き出されたそれは、毛穴の奥に浸潤し、産毛の一本一本をぴいんとみなぎらせた。シーツにくるまれ、身動きもろくに取れない密閉空間に、甘い香りがほのかに立つ。大人二人が収まるにはいっぱいいっぱいだ。せめて、この体がもう少し小さければいいのに。

 そう思っていたところ、湿った窮屈な感触が局部を包み、わずかな擦過音と共に上下した。すぐに体の芯がぶるりと震え、衝動がせり上がり、アッと思う間もなく放たれ、下腹部にわずかな温みをもたらす。

 違う、そこだけ小さくしても意味がない……!

 こんな状況でも、相変わらずマイペースな奴だ。

 けど……。

 緊張が解かれ、ぐったりとした脳に疑問がよぎる。

 花がこうも頻繁に性交を求めるのはなぜだろう。もちろんセックスというのは愛情表現でもあるから、性欲ばかりを発端にして行うわけじゃない。ただこの場で始めるのはいくらなんでも違和感がある。そもそも彼女に、性欲や食欲といった生存本能は備わっているのだろうか。

 花は密着したまま上体をせり上げ、僕の耳元に顔を近づけた。かすかに開いた唇が、耳たぶに触れた。

「これは呪いなのよ」

 ささやきが脳に染み入る。

「きみはあの世の肉体を食み、わたしは生きた人間の精を吸った。だからいま、ヨナシロくんの魂の半分はわたしの中にある」

 言っている意味はよく分からないけれど――よもつへぐい、というやつだろうか。生きている人があの世の食べ物を口にすると、魂があちらの世界にいざなわれてしまうという。人の体液だって、口にすれば同じことかもしれない。

「きみはこれから、わたしと過ごした夜を片時も忘れずに生きていくのよ。どんな女を抱いてるときでも、珠のような子宝に恵まれても、きみの頭には、常にわたしとの日々がよみがえる。わたし以外の誰かと結婚して、子供をもうけて老いていく――そんな大人になんて、させるもんですか」

 脅迫めいた口調から一転、叱られた子供のように語調を弱める。「ごめんなさい。わがまま言った」

 普段の振る舞いに輪をかけて、突拍子もない話だ。

 僕はかぶりを振った。

 彼女のことを片時も忘れずに生きていくというのなら、それでいい。

 くふふ、と花は背を丸めた。

「いっちょまえなこと言って。死人と毎日ヤってた絶倫シカン野郎のくせに」

 何とでも罵ればいい。目の前で連れ去られた彼女を見殺しにし、そのことから目を背けてきた。七年間も自分の記憶に蓋をした。怪談蒐集をやめてガムシャラに交友関係を広げ、異性とも積極的に遊んだ。十五で童貞を捨てた時には、大人の仲間入りをした気さえした。本質は何も変わっていないのに。目先の快楽に溺れることで過去のトラウマを遠ざけていただけだ。身体は成熟しても、心は十二歳のまま、蓋の下で凝り固まっている。そんなみっともない状態のまま、これ以上年を重ねたくない。

 僕はもう一度彼女を強く抱いた。そうしなければ彼女の体から温もりが永遠に奪われてしまうような気がした。いつもの弾き返すような肌感は無く、細く軋む骨の感触があった。

 ベッドのそばに何かが立つ気配を感じた。風雨の音にまぎれてたしかに有った。手を伸ばせば触れるだろう。シーツ越しに視線を感じる。何をするでもなく、凝然と見下ろしている。

「お別れね」

 花は言った。

 さっきは、「お迎えだ」とも。

 いま、部屋の中にいる何者かが、この世ならざる者が、彼女をしかるべき場所へ連れ戻そうとしているのだろうか。

 嫌だ――

 行かせない。

 無理よ、と花は無慈悲に告げた。

「わたしの体はあの世の体。わたしの声はあの世からの声。真っ白な乳房の正体は真っ白な肋骨、大きな両目の正体はくぼんだ眼窩。このまま現世に居続けたら、いずれ正体がばれてしまうわ。そんな姿、見ないで。ヨナシロくんだけには見られたくない。そしたらわたし、ショックでもう一回死んじゃうから」

 僕は唇をゆがめて、なるべく笑おうとした。鼻先に広がる、黒檀のような髪を梳いた。小柄な矮躯から熱が奪われ、骸に近づいているのがわかった。

「ありがとう」

 花は言った。

「今度会ったときは、ヨナシロくんの怪談を聞かせてね。きみ自身の言葉と、きみ自身の声で――」

 それからは互いに何も言わなかった。時折風雨が窓を叩く以外は無音だった。やがて嵐は弱まり、コンクリートに雨のそぼ降る陰鬱な音がかすかに聞こえた。全身じっとりと汗ばむ僕に対し、腕中の恋人は枯れたように乾いて冷たかった。

 ――その間も、シーツの外に得も知れない視線を感じた。

 気づけば、

 視界が、うっすら白んでいた。

 恐る恐るシーツを除けると、ガラス戸からの朝日を受けて、室内が仄明るかった。

 十二畳のワンルーム。

 僕以外に、誰もいない。

 得体のしれない影も、そして花も、まるで最初からいなかったかのように、こつ然と姿を消している。

 左手に繊維質の感触。いつのまにか、僕、何かを握りしめている。広げてみると、それは黒い毛髪だった。指先から付け根まで、明らかに僕のものではない長さの髪の毛が、びっしりと絡みついていたのだ。

 僕はそれを両手にそっと閉じ込めた。常闇を閉じ込めたような黒髪は、日の光にさらせば消えてしまいそうな気がした。

 くちびるが引きつり、嗚咽が漏れる。

 花が見ていたら笑われるだろう、子供のような慟哭だった。



 その年の盆下がり、炎天下の路上で、猫の轢死体を見つけた。

 なだらかに体表を覆う黒い毛。いつぞやの黒猫によく似ている。破かれた腹から飛び出した腑臓が初夏の炎天を浴びてギラギラと照っていた。両の目は驚きにカッと見開いたまま白く濁っている。

 夜の闇を我が物顔で闊歩していたこいつも、こと太陽の下ではとたんにその正体を暴かれて、腹に含んだ物をすべて晒して死んでいったのだろう――なんて、柄にもなく空想に浸りながら、僕はその死骸をしばらく見下ろしていた。

 体毛の先がかすかに揺れたかと思うと、にわかに死骸の全身が灰となり、風にさらわれ消えていった。

 アスファルトには、横たわった猫の影が薄くこびりついていた。


 あくる年の四月、僕は二回生に進んだ。

 それと同時に、珍しく大胆な行動に出た。

 所属していたサークルを抜け、新たにサークルを立ち上げたのだ。

 名付けて、「ちゅうりっぷの会」。園芸サークルかと思われるかもしれないが、その実態は各々が持ち寄った怪談を語り聞かせるための怪談サークルだ。外部の人に偏見を持たれないよう、あえておどろおどろしい名前を避けたのだ。メンバーは、いまのところ、僕含めて五人。週に一回集まるだけのマイペースな活動だけれど、今年の夏には、怪談文芸誌を立ち上げる予定だ。

 いつかまた、夢の中で、あの子に会ったとき――今度は僕のほうから、僕自身の声で、彼女に怪談を聞かせてやりたい。だからいま、彼女に聞かせるための話を集めている。

 そのためにもう一度認識しておきたいのは――花が――あいつが、怪談のどこに、魅力を感じていたのかということだ。

 怪談がなぜ楽しいかと言えば、怖いからだ。その根源にあるのは、自分の死やこの世ならざる者への畏怖。そう僕は思っている。だったら、死を克服しあの世の存在となった花は、怪談話のどこに魅力を見出していたのだろう。

 そしてもう一つ――花に謝りそびれたことがあった。初めて会った時に、すぐに彼女を抱いてしまったことだ。子供だった、僕は。一人で迎える晩が怖くて、誰かと添い寝ばかり繰り返していた。

 今年、僕は成人する。

 もちろん、もう、一人で寝ることは怖くない。

 そういえば年始に、あの磯部マキから年賀状が届いた。彼女は父親の介護をしつつ、実家の餅屋を手伝っているらしい。新年のあいさつと共に添えられた文には、忙しさで五キロ痩せたという愚痴、年末という餅屋最大の書き入れ時に対する愛憎、多忙な中でも家族同士のやり取りが増えた喜びがつづられ、バックには現在の彼女の写真がプリントされていた。昔ながらのこじんまりとした商店の店先で、彼女の両親と思しき車椅子の男性と中年の女性、そして鏡餅を手にした磯部が並んでいる。ふくふくと丸かった頬は、多忙のためか削げていた。笑顔も、以前のはじけるような子供っぽさはなりを潜めて、控えめで落ち着いた印象だ。文末では婚約者の存在に触れ、今年中に挙式する旨が記されていた。ドレスを着たまま新婦席に陣取ってケーキをバクバクと頬張る彼女を想像し、僕は必死に笑いをこらえた。いまの磯部にそういう茶目っ気があるのかはわからないけれど、個人的には変わらないでいてほしいところだ。

 変わらないところもある。大人になったとしても。

 僕らがいまだに、怪談話に目を輝かせているように。



 ある初夏の晩、僕はベッドに寝転んで怪談集を読んでいた。

 市販の本ではない。自分で見聞きしたり創作したものをプリントアウトした、手製の冊子だ。ゲラチェックも兼ねて楽しんでいた。

 天井の電灯は消している。蛍光灯の白い光は無粋だ。枕元の読書灯を頼りに、ページを繰る。すでにチェックを重ねた箇所は、適当に読み飛ばす。

 けれどそのとき、めくったはずのページが繰り戻された。扇風機の風が当たったのかと思い、もう一度繰る。それでもまた、緩慢な動作で戻される。扇風機はあさっての方向を向いている。それにこれは、まるで、人の手によって戻されているように見えた。

 ハッと息を止め、かたわらを見る。

 薄暗がりに照るベッドの端に、僕のものではない影が一つ、寝そべっている。どこか懐かしい輪郭だった。

 自然、顔がほころぶ。

 ……待ちくたびれたよ。

 すでに午前二時を回っている。草木も眠る時間帯。

 けれど、僕らにとっては宵の口だ。

 僕は、口を開く。

「これは知り合いに聞いた話なんだけれど――」

 するとシーツの中から真っ白い両手がにゅっと突き出して、ほほをつかんだ。


                                      (終)
























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宵の口 @ramutto

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