第198話
「……なぜ……」
男は、ただ立ち尽くす。
理解できない。
女は、頭を生成りの布で包んでいる。
薄山吹色の小袖に、桜色の腰巻と云う庶民の装束だ。
「お魚は焼いていただきましょう。麦粥と汁物は出来ております。お上がりになる前に、足を洗ってくださいまし」
女は立ち上がり、男の手から平籠を受け取った。
男は板間に腰を降ろし、土間に置いてあった木桶を引き寄せる。
木桶は澄んだ水で満たされ、畳んだ白布が浸されていた。
白布を絞り、傷口を洗い、足を洗って拭く。
女は二組の盆に器と箸を並べ、魚を焙っている。
串打ちされた魚は、囲炉裏の端に立て置かれ、香ばしい匂いを放っていた。
男が円座に腰を降ろすと、女は袖の中から貝殻を出す。
「塗り薬です。傷は塞がりかけていますが、まだ痛むでしょう」
「……自分で塗る」
男は貝殻を受け取り、内側に盛られた灰色の膏薬を脛に薄く塗った。
傷の痛みが、膏薬の冷たさに溶けて引いていく。
貝殻の蓋を閉じ、男は板間の奥を眺めた。
細長い板間の奥は暗く、だが二組の寝具が敷かれているのが見える。
男は途惑い、女を見返す。
そして気付く。
女の被り物から、短い数本の髪の毛が頬に垂れているのを。
女の長かった髪は、無造作に断たれているらしい。
それは、あってはならぬことだった。
貴族や士族にとっては、大変な屈辱的な罰だ。
なぜ――罪なき女が、そのような恥辱を受けたのか。
男は、震え声で訊ねた。
「……
「……みずから……断ちました」
「……馬鹿な……!」
「いいえ、私の罪を贖わねばなりません」
女は火から目を離さず――毅然と言う。
「あなたが怒りに駆られ、私に刃を向けた時……私は刀を抜けませんでした。あなたを止められなかったこと、情ゆえに斬れなかったことは……罪です」
女の声は、自責に揺れる。
男は、瞼を閉じた。
怒りをぶつけて欲しかった。
女の妹も、その異母弟をも殺した。
女の魂を操り、弟たちと闘わせた。
国を滅ぼし……
…………
……
「……すまぬ……」
男は、顔を伏せた。
お
家には、愛する女が待っている。
愛する女を、巻き添えにした。
女は、三千年をここで過ごす覚悟だ。
かように愚かな男に連れ添う覚悟だ。
肉を喰いちぎられるよりも、女への罪悪感に心が引き裂かれる。
「お魚が焼けました……」
女は分厚い平皿に魚を置き、串を抜く。
中骨を押さえ、真ん中から開き、塩を振ってから、半身を男の皿に移す。
麦粥を椀に移して干し梅を乗せる。
鍋の汁物も汁椀によそい、それらを載せた盆を、隣席の男の前に置く。
「汁は、
「……それをどこで知った?」
男は汁の匂いを嗅いで訊ねる。
「蓬莱天音の記憶です。彼女の『心』は、私の術で封じました。その少女は、引っ越した先で神無代和樹と出会います。そこでは彼女の恋を遮る者は無く、彼女は初恋の彼と結ばれ、幸福な生涯を終えた瞬間に、『時』は閉じます」
「『時映し』か……」
男は汁をすすり、その甘みと温もりが全員に染みて行く。
不覚にも。涙腺が決壊する。
汁椀を置き、背を丸めて――泣いた。
なぜ、あんなに怒りに駈られたのか分からない。
真に求めていたものは、この温もりだったのに。
愛する人と寄り添い、ささやかな温もりがあれば良かった。
世俗の権力も他者からの尊敬も、邸宅も華美な装束も要らなかった。
なのに、それらを手に入れた時に、内なる力は暴走した――。
「私は、砂浜には入れません。松林と裏山しか歩くことを許されません。ですから、この家で、あなたがお魚を獲って来るのを待ちます。畑を耕し、味噌を作り、薬草を煮て軟膏を作ります」
女は、麦粥の椀を取る。
「この干し梅は、そこの壺に漬けてありましたの。乳母が差し入れてくれた物と同じ味です。とても懐かしい……私にも真似が出来ると良いのですけど」
「……サリア……」
「……私は、嬉しいのです。あなたが、最後に為したことを知っています。あなたが『真心』を取り戻したことを……」
「三千年……俺が罪を贖っても……その先は分からぬ……どうして、他の御魂たちと共に故郷に帰らなかった……?」
「蓬莱天音の『心』を見て……大好きだった人と過ごしたくなったのです。海神さまも『大いなる慈悲深き御方』も、私の願いを聞き入れてくださいました」
女は微笑んだ。
「ゆっくり罪を償いましょう。その果てに待つのが、消滅だったとしても……」
「……すまぬ……」
男は、女の美しい横顔を見つめた。
風が、出入口を塞ぐ幕を叩く。
だが、その音は気にならない。
あるのは、温もりだけ――
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