第196話




「……海神……」


 男は、美々しく着飾った海神を見据えた。

 

 神巫人ミコビトと化した弟たちは、『ヤマタノオロチ』と呼んでいた。

 海神と『ヤマタノオロチ』は似ているらしいが、この『脳骸ナヅキイソ』は、神話では罪人が死後に堕とされる獄だ。

 海神は八つの神格を持ち、その一つが『死の獄』を司どる男神なのだろう。



「察しが良いな、宰相殿……」

 『大いなる慈悲深き御方』は、感心したように微笑む。

 

 心を読まれている――

 

 男は、微塵も慌てずに項垂れる。

 もはや、慌てても無意味だ。

 

 泣き叫んで、平伏したくはない。

 逃れられぬのなら、毅然と受け入れたい。

 無二の友や、弟たちのように。

 死を覚悟して、友を救いに来た後進たちのように。

 なけなしの誇りだけは、抱えていよう。

 愚行と嘲笑されようとも。

 

 

 

 だが……


 「そう堅苦しい顔をするでない。そなたには、幾許かの感謝をしている。……あの海神もな」


 『大いなる慈悲深き御方』の意外な言葉に、男は眉をひそめた。

 目の前の『御方』は、無垢な笑顔を浮かべる。

 

「そなたの暴虐の結果……奇しくも、我が母イザナミは救われた。海

神に至っては、永きに渡って、我が母のくつ代わりにされたからな。さぞ、肩と腰がこったであろう」


 口元を押さえ、舟上の海神を横目で見た。

 すると、無表情だった海神は――はにかむように顔を背けた。

 

 男は、神々の意外な顔を垣間見て、つい肩の力を緩めてしまう。。

 しかし――罪は、贖わなければならない。

 どんな罰も受け入れる。




「…………!」


 決意を固めた途端に、左足首に激痛が走った。

 見ると、二筋の血が糸のように、波間に揺らいでいた。


 傍には、鋭いウロコに覆われたはものような魚が泳いでいる。

 それは銀色に輝き、足の肉をついばもうと、突進して来る。

 それも、二十匹ほどが。



「海から上がりなされ」


 『御方』は平籠を置き、手を差し出す。

 男は、自分が受けるべき真の罰を、少しばかり理解した。


「そう。あの魚は、海神の鱗の化身である。夜のうちに二千枚が剥がれ落ち、朝には新たな鱗が生え揃う」


 『御方』は海に入り、魚を両手ですくうように、易々と捕えた。

 魚は動かなくなり、それを平籠に置くと、鋭い鱗は消えて銀の皮に変化した。

 はもよりは短いが、その歯は本物以上に鋭い。


「そなたは、朝から夕までの間にはもを一匹だけ捕えよ。それを三千年続けよ」


「三千年……」


「そなたが故郷を滅ぼし、そなたの弟らが故郷を解放するまで掛かった年月である。だが、我のようには捕らえられぬ。肉を食われ、骨を砕かれるであろう。捕らえられぬ日もあろう。さすれば、罰を受ける日が、一日延びるのみ」




「……それで……我が罪が赦されると……?」


 男は、軽すぎる罰だと思った。

 

 大勢の命を奪った。

 三千年の間、仲間たちを御神木に閉じ込め、転生してきた弟たちを倒し続けた。

 死した御魂を弄び、弟たちと戦わせた。

 

 孤独の中を無限に彷徨うでも無く。

 焼かれて切られ続けるのでも無い。

 多くの者たちに与えた苦しみに比べれば、羽の如くに軽い罰だ。



「言うたであろう。我と海神は、そなたに感謝していると。我らも甘いな……」


 『御方』は、はもの乗った平籠を取り、男に持たせた。

 

「もう、日が暮れる。魚を捕える刻限は、日が沈むまでだ。月が天頂に昇る前に、魚をおやしろに捧げよ。それを、三千年繰り返せ。松の林の、ひときわ高い二本の松の間を進めば、おやしろに辿り着ける。その魚は、今宵の分だ。我からの……贈り物だ」


 『御方』の優しい笑顔は、祖母にそっくりと男は思い、涙を浮かべる。

 

 

 ――なぜ、愛する人々の命を奪ったのだろう

 ――なぜ、愛してくれた人を悲しませたのか




 「三千世みちよの時が終わるまで、己に問い続けよ……己と向き合え」


 『御方』の瞳は深い闇を見通すように、いっそう黒く染まる。


「されど……我らは、そなたが最後に為した功徳をも知っている」



「それは……!」


 男は、激しく動揺した。

 『御方』は、ただ頷く。


「解っている。そなたが、無為無心して行ったことだと。神鞍月かぐらづきの大将……そなたの真心に、我らは報いる」



 その言葉と共に、『大いなる慈悲深き御方』は消えた。

 沖合の海神も、海風に揺れ……小さな飛沫と共に波間に沈んだ。


 

 男は、足の傷を確かめた。

 左足に三本、右足に一本の切り傷がある。

 そのうちの二本からの出血が激しい。


 だが、男は笑った。

 無二の友に負わせた傷の比では無い。

 流させた血の量に比べたら、盃一杯にも満たないほどだ。



 

 陽は、海の彼方の霧の中に沈んだ。

 反対側の空から、金色の満月が浮かんで来る。


 男は平籠を捧げ持ち、高い二本の松を目指して進んだ。


 すると――松林の隙間に、微かな煙が視えた。

 

 

 ――おやしろの篝火だろうか



 男は、二本の高い松と煙を目指して、痛む足を動かす。


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