新章(四) 三千宵(みちよい)の里

第195話

「…………」


 男は無言で、景色を確かめる。

 左には、鉛色の海が広がっている。

 水平線は見えず、果ては霧に包まれている。


 空は、やや青みかがった鈍色にびいろ

 千切ったような灰色の雲が、空の半分を覆い隠している。


 足元の灰白色の砂は――砕いた御骨おこつのようだった。

 すくうと、手のひらに細かい粒が残る。

 においは無い。


 右側には、松の木の林がある。

 この海辺から、一町(役100m余)ほど先だ。

 その林も、左右に果て無く連なっている。

 その奥には、碧い稜線も伺える。


 海、砂浜、松林、山。

 それ以外は何も見えない。



 男は、我が身を探った。

 

 細い袖の付いた生成りの上衣。

 藁で編んだ腰紐。

 細身の袴は、膝下までの長さだ。


 髪は、短く刈られている。


 故郷では、死罪を言い渡された者の装束だ。

 無二の友、最愛の弟、弟の友たちに死罪を宣告し、この装束で牢に放り込んだ。

 

 彼らは決して抗わず。曇らぬ瞳は輝いていた。


 堂々と、『近衛府の四将』に相応しい最期を受容した。

 

 

 

 ――誰も居ないのか?



 男は立ち上がり、海辺を歩く。

 寄せる波が足首までを濡らし、砂はギィギィと呻き声を立てる。


 風は松林から吹き付け、松の清んだ香りを運ぶ。

 


 ――奈落にしては、贅沢な匂いだな



 男は苦笑し、天を仰ぎ、景色を確かめる。


 松の枝は、風に揺れている。

 波は、規則正しく打ち寄せる。


 だが――やはり、動く生き物は他に無い。


 

 ――期待外れだ



 男は向きを変え、沖に向かって歩き出す。

 波が、脛を濡らす。


 だが、全くの徒労だった。

 歩いても歩いても、先に進まない。

 海面が、高くならない。


 

 反対側を向き、松の木を眺めた。

 太い枝が散見される。

 腰紐に手を伸ばし、解こうとした。

 

 が、どうやっても解けない。

 きつい結び目は、ビクともしない。



 男は諦め、また海辺を歩き出す。


 罪人に責め苦を与える鬼どもの気配は無い。

 ここは、無人の『世捨よすの獄』らしい。


 古き書に記された、無人の地獄だ。

 堕とされた罪人は、永遠にそこを彷徨い続ける。


 松の木が在っても、そこには辿り着けない。

 ただ波に足を浸し、一人黙々と歩き続ける。


 

 ――焼きこてを押し付けられる方が、退屈しなかった



 男の唇が、哀しく歪む。

 鬼の相手をさせられる方が良い、と思う。


 

 ――立ち止まったら、どうなるのだろう



 男は、足を止めてみた。

 鬼が出て来て、棘の鞭で打ってくれるのを望んだ。


 だが、男の望みは叶わない。

 低い波の音と風の音が、耳と背を弄ぶだけだ。



 ――誰でもいい

 ――咎めてくれ

 ――我が罪を罵り、切り刻んでくれ



 男は、心より祈った。

 

 祈ったのは、三千年ぶりだろうか。

 祈りなど必要なかったから。

 己が『神』だと信じたから。

 






「……ここは、退屈であるな……」


 後ろから、懐かしい声が響いた。


 男は振り向き、正面に立つ女を見る。

 若い頃の祖母に、良く似ている。


 くすんだ朱の小袖の裾をたくし上げ、薄緑の腰巻を付けている。

 生成りの布を頭に巻き、平たい編み籠を持っている。



「……大いなる慈悲深き御方……」


 男は呟き、驚きに背を震わせる。

 初めてお目にかかる御方だが、

 すぐに正体が分かった。


 膝を付いて拝礼しようとしたが、

 すぐに制された。

 


「……そのままで良い。そなたの心は視えている」


 『大いなる慈悲深き御方』は、沖合を目で差す。


 その先には、小舟が在った。

 小舟には、美しい衣装を纏った若い男が立っていた。


 群青色の御引直衣。

 真紅の御袿。

 白の小袖。

 

 胸元の珊瑚の勾玉飾り。

 五色の玉で飾られた冠。

 長き黒き垂髪。


 その御顔は、無二の友に似ている。


 異なるは、頭上の七つの光魂ひだまである。

 浮かぶ七つの光魂ひだまは、炎の如く揺らいでいる。



「かくなりし御方は、海神である。八つの御心のうちの一つである」


 『大いなる慈悲深き御方』は、穏やかに告げた。

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