第194話

「ミゾレ、吹き飛ばされるぞ!」


 上野は四つん這いになり、ミゾレの首根を掴む。

 一戸は顔を歪めて立ち尽くし、和樹は黒い渦を注視する。


 あの黒猫が、邸のどこかに潜んでいるとは思わなかった。

 いや、自分たちが『魔窟』に潜行した後に現れた可能性が高い。



「三毛猫ちゃんをこっちへ!」

「それが、友達の黒猫が渦の中に居るらしいんです!」


 いぶかしむ笙慶さんに、和樹は声を張り上げた。

 予期せぬ事態に、真央まひろさんも唇を結ぶ。

 どうやら、二人は黒猫を目撃していないらしい。


 ミゾレは、「彼が渦の中に居る」と言った。

 この状況では、生存は絶望的だろう。

 あの渦は、どう考えても現世の現象では無い。

 黄泉の川の底に満ちていた気泡と、何らかの関係がある。

 もし、黄泉と現世の隙間で生じた力が具現化したのなら――

 


(……レオくんの声が聞こえる……あたしを探してる……)


 ミゾレは――鳴いた。

 渦に向かい、あらん限りの声で呼び返す。


 上野は――黙って、ミゾレから手を放した。

 仲間を置いて行く悲しみと後悔。

 それを存分に味わった。

 けれど――

 


「……行けよ、お嬢さん」

 上野は――鼻をすすった。

「……好きな男のところに行け」



「うん……!」

 ミゾレは振り向いた。

 

 それは幻なのか、彼女の力の残り香なのか――

 明るい茶色の巻き髪の、真紅のドレスの少女が現れた。

 少女の瞳は濡れているが、輝くばかりの微笑みを浮かべている。


「ありがとう……あたしは、おにいちゃんたちとは同じサイクルで転生できない。だから……レオくんと一緒に居るよ。フランチェスカは、愛に生きる淑女なんだよ!」


 フランチェスカはスカートを摘まみ、膝を折って優雅に会釈をした。

 中世イタリアの、貴族の令嬢のように――。

 フランチェスカ・ダ・リミニのように――。


「千佳ちゃんたちによろしくね……いつか、火星で逢おうね!」


 フランチェスカは踵を返し、猛る渦に向かって走る。

 赤茶色の髪と真紅のスカートが、炎のように揺らぐ。

 

 けれど――その姿は、五つ数える間もなく消え去った。


 唐突な別れは、悲しく寂しく――

 けれど、フランチェスカが選んだ道だ。

 

 

「レディの恋路を邪魔するのは、野暮じゃねえか……」

 上野は目頭を覆い、振り向いた。

 

 彼のペットだったチロは、ミゾレと過ごす時も多かった。

 あの『茶室』の縁側では、制服姿の美名月ミゾレはチロを相手に遊んでいた。

 上野は、チロの相手をしてくれた彼女の幸福を願い、送り出したに違いない。


 「俺も、フランチェスカとレオが結ばれるように祈ろう……」

 一戸は黙礼した。

 和樹もそれに倣う。

 それは、共に転生を繰り返した仲間への別れの挨拶だった。


 小さな恋の行方は見届けられないが――いつか、二匹は火星を訪れるだろう。

 そこでは、全員が笑顔で再会するのだろう――。



 

 突風は、少しずつ収まってきた。

 黄泉の川とを繋ぐ霊道が閉じつつあるのだろう。

 

「視えました……猫ちゃんが少女に変身して、走り去る姿が……」

 笙慶さんは手のひらを合わせ、真央まひろさんも倣う。

 二人にも、走り去る少女が視えたのだ。

 

「ええ……友達のところに行きました……」

 和樹は頭を下げて応え、門に手を掛けた。


 その瞬間に突風は止み、周囲が激変した。

 目の前には、空き地だけが広がっていた。


 周囲の、近くのマンションの灯りも忽然と現れた。

 少し冷たい初秋の風が、髪をかき上げる。

 

 何度も瞬きをしても、方丈邸は影も形も無い。

 空き地の真ん中に、焼け焦げた木材が十数本積み上げられているだけだ。

 焦げた臭いが、微かに鼻をくすぐる。

 

 池が在った所には黒い穴が口を開け、松の木の切り株も在る。

 木の皮は灰色に変色し、薪のようにひび割れている。

 揺れていた草花も無い。

 焼失してから、数日が過ぎたように見える。


 

「……これは……?」

「……このようなことが……」

 

 笙慶さんも真央まひろさんも、言葉を失う。

 突風が去った後に、みんなで過ごした邸が、焼け跡に変化したのだから当然だ。

 和樹たちの闘いの事情を知っていたとしても、受け入れ難い異変だ。

 

 和樹も、苦い唾液を呑み込む。

 黄泉の向こうの月の国同様に、方丈邸も焼け落ちた。

 住人の日那女と幾夜氏が全てを見通し、決断した結果だ。


 だが――終点には、青い空も、仲間たちとの歓喜も無い。

 濁った星空と焦土が、長い旅の終わりの風景だった。



 

 ――掠れた足音が聞こえた。


 夜の中から、人影が現れた。

 岸松おじさんと、母の沙々子と――久住さんだった。

 久住さんは、母の辛子色のカーディガンを羽織っている。

 母は泣きそうな顔で、久住さんの肩を抱いている。



「……久住さんは、家の浴槽に現れたの」

 

 母が告げ、久住さんは……目を拭う。

 いつから居たのだろう。

 岸松おじさんが、車で送って来たのだろうか。

 おじさんは皆を見回し……労うように頭を下げた。


 三人とも、何があったのかは聞かない。

 居ない者のことも。



「……みんな……ありがとう……ごめんなさい……」

 久住さんは呟き、顔を覆った。

 それが精いっぱいの気持ちだったのだろう。

 それ以外の言葉が見つからなかったのだろう。

 

 失ったものは、余りにも大きい。

 失われた日常は、決して帰らない。

 けれど……



「……僕たちは……前に進める……」

 

 命運を共にした仲間に、

 支えてくれた人々に、

 幼なじみの少女に、

 彼は語った。


 懸命に生きる命がある。

 今はその世界は混じ罠くても、

 いつか、源に辿り着くだろう。


 生も死も、

 神も人も超えた場所で。













 ・


 ・


 ・













 波のささやきが、

 風のざわめきが、

 木々の香りが、目覚めを促す。


 瞼を上げると、灰白色の砂が映った。

 頬に砂粒の刺激を感じ、ゆっくりと身を起こす。


 神逅椰かぐやと名乗っていた男は、ゆるりと――鈍色にびいろの空を見上げた。

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