第179話

 引いていた潮は、堰から溢れたように満ち始める。

 天を見つめて倒れていた陰神メガミの――胸が上下に動き始めた。


 まるで呼吸している如くに――薄く開いた唇の隙間から薄紫色の舌が伸び、乾いた唇を舐めた。

 顔を覆う古びた包帯の、口元が赤茶色の体液て濡れる。


 陰神メガミは瞼の皮膚を突っ張らせ、まなこを大きく開いた。

 黒曜の瞳に、光の色が流れ込む。

 

 引き裂く音が、風を震わせる。

 陰神メガミの肋骨が渇いた皮膚を突き破り、次々と立ち上がる。

 裂け目から黒い液体が噴き出し、四方に滴り落ちた。



「何だ、あれは!?」

 箱舟から見下ろす人々は、騒然となる。


 黄泉千佳ヨミチカは顔を逸らせ、小君は弦月に抱き付く。

 尼君たちは、また経を唱え始める。

 

 やがて――人々は、清らな芳香が漂うことに気付いた。

 花の香だが、これほどの香りを放つほどの多量の花など無い。

 美名月妣妹ミナヅキヒメの髪を飾る白い花では、とうてい無理だ。


 だが、神巫人ミコビトたちも、その香りに只ならぬ事態を察する。


「うそ……!」

 美名月ミナヅキ妣妹ヒメは、不安混じりに呟いた。

 この香りは、彼女の主人が愛した香りだ。


あにさま!」

 妣妹ヒメ神名月神巫人カミナヅキノミコトに近付いた。


「分かってる……」

 神名月神巫人カミナヅキノミコトは『白鳥しろとり』の切っ先を下に向け、陰神メガミの異様な様を睨む。


 胸の大穴から溢れる黒い流れに、やがて小さな白い物が混じり始めた。

 それは――白い小花だった。

 

 黒の濁流に混じる白い小花。

 それは、美名月ミナヅキ妣妹ヒメの髪を飾る小花と同じ花だ。


 流れる黒に混じる白い花。

 神巫人ミコビトたちは、並を染める黒を見下ろす。

 黒に混じる白に花。

 彼らは、同じ情景を見たことがある。


 

 あの日――

 四将たちが命を断たれた日。

 御神木に咲いた白い小花が、世を悼むように舞い散っていた。

 

 墨染めの袿姿の玉花の姫君の、長い垂髪を色どっていたのはその花だ。

 その御姿は美しく、なれど余りにお労しいと――四将たちは思った。

 この身に代えて御守りせねばならぬ御方に、喪を纏わせてしまったと。

 それは、大いなる悔いだった――。

 

 

「……瑠璃子さま……」

 神名月神巫人カミナヅキノミコトは思い起こし――初めて、その御名を口にする。


 それが聞こえたのであろうか。

 黒い濁流は一瞬だけ止まり、震え、また溢れ出す。

 それは高さを増し、白い背が――肋骨の下から現れた。


 黒い流れは無数の糸となり、白い背を覆い、それは起き上がる。


 陰神メガミの裂けた胸から、少女の上半身がでた。

 陰神メガミの内に両手を付き、背を反らせ、顔を天に向け、苦悶に唇を震わせる。

 閉じた両眼の睫毛は長く、それをゆっくりと開き、紅を帯びた黒眼を閃かせる。

 

 黒き糸――豊かに流れる黒髪の裾からは、無数の白き花が溢れ、波に漂い、芳香を撒く。



 それに誘われたのか――横たわっていた陰神メガミの、顔を覆う包帯が千切れ飛んだ。

 現れたのは、三十路ほどの女の顔である。


 それは干からびてはいない。

 肌は瑞々しく、目鼻立ちは整い、瞼と額に真紅の顔料を塗っている。


 神名月神巫人カミナヅキノミコトは、その御顔に覚えがある。

 『並びの世』にて謁見した『大いなる慈悲深き御方』に酷似している。


 その記憶は、ただちに他の神巫人ミコビトたちに伝わった。


 彼らは知る。

 『大いなる慈悲深き御方』こそが、『天照姫神古門アマテルヒメノミコト』であったことを。

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