第178話

 両翼を失った陰神メガミは、潮を操る力を失った。

 海神は苦痛に我を失い、必死に潮を呼びつつ悶える。

 鱗を地に擦り付け、僅かばかり流れ込む潮に浸ろうとする。

 その金色の瞳に、翔ぶ神巫人ミコビトたちが映った。


 海神の古き記憶が浮かび上がる。

 古き神巫人ミコビトと対峙した記憶だ。

 

 が、思い出せるのは其処まで。

 ゆえに剣を持つ神巫人ミコビトは、敵であると思い込む。

 


「我らを、敵と認めたようだ」

 雨月神巫人ウゲツノミコトは、八つ首に宿る十六のまなこから滲む敵意を読む。

 金色の瞳が深紅の血流に濁り、八つ口から長い黒い舌が吐き出される。

 

「やはり、陰神メガミの下半身に貼り付く亡者たちも浄化しないと駄目だ!」

「もう一度、あたしが説き伏せる!」

美名月ミナヅキ、もう充分だ。白炎!」


 雨月神巫人ウゲツノミコトは、愛馬に下がるよう命じる。

 主に忠実な愛馬は、妣妹ヒメと小犬を乗せたまま後退した。


「俺と神名月カミナヅキが引き付ける!」 

 雨月神巫人ウゲツノミコトは『宿曜』を構える。

 神名月神巫人カミナヅキノミコトも『白鳥』を右手で持ち、陰神メガミの足元に滑り降りた。


 巨大な海神が、神名月神巫人カミナヅキノミコト視界を塞ぐ。

 見上げても、海神の八つ首は視界に入らず。

 見えるのは、黒銀に輝く鱗を纏う胴体のみだ。

 

 それは濁音を発して地を這い、寄せる潮に浸ろうと足掻く。

 口から吐き出される臭気は、旋風と化して激しく吹き付けてくる。


 神名月神巫人カミナヅキノミコトは、膝下で渦巻く奔流に耐えて前を見る。

 両の羽を大きく広げ、人々や御霊の祈りを受け、闘気を絞る。


(一瞬だけ闘志を放つ!)


 遥か上で、陰神メガミと対峙する雨月神巫人ウゲツノミコトの『気』を探る。

 彼は陰神メガミの眼前で滞空し、闘志をぶつける機会を待っている。


 一瞬で良い。

 『敵を倒す』と云う闘志を絞り出し、剣技を放つ。

 陰神メガミと海神がそれに呼応するだろう。

 その隙に――

 


(月の石より鍛えられし刃よ……)

(海神を、あるべき海に導き給え)


 神巫人ミコビトたちは、古き刃に込められた力に祈る。

 あるべき姿に返すために、心ならずも闘志を操るより術は無い。



「古きカミよ、わが闘志を受けよ!」


 神巫人ミコビトたちは叫び、刃に絡ませた闘志を放つ。

 それは無数の銀青の光刃となり、陰神メガミの喉元と海神の鱗を叩く。


 海神の八つ首の一つが鎌のように立ち上がり、神名月神巫人カミナヅキノミコトを睨んだ。

 天高くに在る陰神メガミの白髪が、円状に広がったのも見える。

 それは数百本の鋭い牙と化し、雨月神巫人ウゲツノミコトを刻むために狙いを定めたが――




カミさま、スカートを裂いて御免ね~!」

 如月神巫人キサラギノミコトの朗々たる声が響いた。

 神名月神巫人カミナヅキノミコトの右斜め上。

 

 そこに、如月神巫人キサラギノミコト水葉月神巫人ミズハヅキノミコトが居た。

 如月神巫人キサラギノミコトの右手が発する刃状の光は、陰神メガミの裳の左側を縦に切り裂いた。

 その裂け目から、水葉月神巫人ミズハヅキノミコトの浄化の術が潜り込む。


 陰神メガミの下半身に、まるでフジツボの如く貼り付いていた亡者の群れが見えた。

 亡者たちは、流れ込む浄化の光に誘われ、遠い過去の我を思い出す。


 長きに渡って陰神メガミに救いを求め――しかし、叶わなかった。

 そこに、ようやく一条の光が延ばされたのだ。。

 翼に貼りついてた仲間たちが、その光の中に還ったのを感じていた。

 ならば、我も――


 亡者たちは、自らの意思で絡ませ合っていた手足を解く。

 固い殻が砕け、個々の自由が蘇る。

 亡者たちは、多くの御霊が集まる『箱舟』に向かう。

 あそこに行けば、この奈落から出られると知って。



 かくして亡者たちは去り、陰神メガミは支えを失った。

 僕として踏み付けていた海海神も、銀青の光刃を浴びた衝撃で己を取り戻す。

 海神は八つ首を天に伸ばし、上に立つ陰神メガミを振り落とそうとする。


 煽られ、陰神メガミの巨体は仰け反った。

 広がっていた御髪の刃は的を見失い、四方八方の宙を闇雲に裂く。

 

 それらを巧みに避けた雨月神巫人ウゲツノミコトは羽を操り、降下して手を伸ばす。


神名月カミナヅキ!」

「大丈夫だ!」


 友の手を掴むより早く、神名月神巫人カミナヅキノミコトは海神に意を伝えた。


(黄泉の大海を司る偉大なる海神よ……我が無礼をお許し願いたい。止む無きとは云え、御柱に刃を向けし罪は成敗されても致しかた無し。なれど、この黄泉の騒乱を鎮めるための罪……それだけは御心に留め給え)



 一瞬の中に流るる無間の意志が、両者の心を繋げる。

 

 海神は、神巫人ミコビトまことを読んだ。

 天照姫アマテルヒメの御使いたる神巫人ミコビトの心正しきを。


 十六のまなこから怒りの血の色が引き、金茶色へと変わる。

 海神は八つ首を降ろしつつ、潮を呼ぶ。


 波は一気に高くなり――

 神名月神巫人カミナヅキノミコトの腕を、雨月神巫人ウゲツノミコトが掴んだ。


 神名月神巫人カミナヅキノミコトを引き上げ、倒れ行く陰神メガミを振り切るように翔び上がる。

 

 海神は荒れた潮の中に半身を浸し、陰神メガミも大地を揺らしながら倒れた。

 高い飛沫が立ち、神巫人ミコビトの髪や衣を濡らす。


 それを尻目に、海神は悠々と波間を泳ぐ。

 八つ首をしならせ、大きく吠え、海の果てを目指して巨体を深く沈め行く。

 



「ヤマタノオロチが海に帰った!」

 黄泉千佳ヨミチカは両手を振って飛び上がる。

 避難していた人々全員が歓声を上げる。

 集まった多くの魂の輝きで、濡れていた衣服は、いつの間にか乾いていた。


 だが、仰向けに倒れた陰神メガミは、ビクビクと震えている。

 広がった白髪はもがくように、大波を打ち続ける。


(あの陰神メガミの力は、まだ衰えていない……!)

 弦月は気配を察し、息を呑む。


(むしろ、あの大蛇や亡者たちは……陰神メガミの足枷になっていたのでは?)


 そんな考えが浮かんだ。

 あの大蛇は、荒れる陰神メガミを鎮めるために深海から上がってきて、陰神メガミに捕らえられたのでは――と。



 神巫人ミコビトたちもまた――それを察した。

 

(来る……!)

(これが我らの最後の『祈り』となる……!)


 海神と陰神メガミを引き離すために、一度だけ『闘志』を発した。

 だが、それはもう不要だ。


 あとは、『祈り』と『願い』を解き放つだけだ。

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