終章(拾参) 光ありし

第177話

 ――本当に、ヤマタノオロチなのか?

 

 弦月は、陰神メガミの足元で蠢く大蛇に声も出ない。

 神話では、ヤマトタメルノミコトが退治した八つ頭の怪物だ。

 

 船縁に張り付いている男たちは、唖然と口を開けている。

 けれど――黄泉千佳ヨミチカは「ヤマタノオロチだ!」と叫んだ。

 久住千佳のコピーである彼女には、神話の知識があるようだが……


(いや、この異界の神話が我々の世界に伝わったのかも知れない)

 弦月は思い直す。


 息子たちが、魔窟化した世界から追放されたのは三千年前と聞いた。

 方丈の翁も、その頃から現世と魔窟を行き来していたのだろう。

 ならば翁の知識が、神話の形成に影響した可能性を否定できない。

 転生した翁が、異界の神話を当時の人々に語ったとしたら、辻褄が合う。


 それにしても、遠目に見える敵は異様すぎる。

 黒き血の衣を纏うミイラ化した体。

 天に広げた烏の羽と魚のひれの羽。

 その巨躯を支えるヤマタノオロチ。

 まさに、神話そのものだ。



(……みんな、負けるな!)


 弦月は、飛翔する子どもたちに声援を贈る。

 父としての――それが最後の役割なのだから。





「ヤマタノオロチ、とはな」

「何とかギドラさんなら、首の数が足りないし」


 水葉月神巫人ミズハヅキノミコト如月神巫人キサラギノミコトは、下でのたうつ大蛇を眺める。


「あの大蛇は、この海の守護神だ。海から上がると、理を失って暴れ回る」

 神名月神巫人カミナヅキノミコトは、太刀に刻まれた追憶を辿る。

 古き神巫人みこびとは、この海神と闘い、海底に返している。

 その情景は、他の神巫人ミコビトにも伝わる。

 

「そういうことならば……」

 雨月神巫人ウゲツノミコトは抜身の『宿曜すくよう』を構え、気配を探る。

 

 陰神メガミの纏う裳の下――下半身と大蛇の背に、貼り付く無数の亡者たちが視える。

 彼らは、黒い蟹の胴体から四肢が生えたような姿で、胴体には単眼があり、唸り声を発している。

 それは、救いを求める声だ。

 生前の自分を忘れ、堕ちてきた陰神メガミに救いを求めて貼り付き、陰神メガミも亡者たちの混沌の意に呑まれた。


陰神メガミの両翼が生み出す風が潮を引かせ、海神を怒らせているのか……」

「……まず、海神を海に返す!」


 神名月神巫人カミナヅキノミコトは右手で『白鳥しろとり』の柄を握る。

 すべきは、陰神メガミの両翼を落とし、海水を呼び戻す。

 そこに没した海神は理を取り戻し、海底に戻ろうとするだろう。

 そのためには、まずは両翼に貼り付く亡者たちを救済せねばならない。

 

 水葉月神巫人ミズハヅキノミコトは呼びかける。

妣妹ヒメ、まず亡者たちの心を取り戻してあげよう!」


「はいっ!」

 美名月妣妹ミナヅキヒメは腰を上げ、天馬は意を汲んで陰神メガミの背後に回り込む。

 

 亡者を浄化するだけなら、水葉月神巫人ミズハヅキノミコトだけで事足りる。

 だが、それは最も正しき道では無い。

 亡者自身は、生前に重い罪を犯した者たちだ。

 だが生前の記憶を失った彼らに、浄化の光を浴びせたら、魂は耐えられない。

 

 ほんの少しでも、自我を――

 自分が何をしているのか、ここはどこなのか、なぜここにいるのか。

 如何なる罪を犯したのか。

 僅かでも記憶を取り戻したなら、彼らの魂を傷付けずに浄化できる。



「お願い、思い出して!」

 

 美名月妣妹ミナヅキヒメは、陰神メガミの項の下に飛び降りた。

 チロがその肩に乗っている。


 翼とひれの集合体に見えた両翼は、近くから見ると変形した亡者たちだった。

 烏の羽の一本一本が亡者たちの四肢を縫い合わせたもので、ひれも亡者たちの胴体が連なったものだ。

 彼らは苦痛に呻き、耐え難い腐臭を撒いている。

 だが、妣妹ヒメは怖じない。


 

 ――皮膚がただれているわ。

 ――でも、治してあげますからね。



 遠い昔、母や兄姉とはぐれて泣いていた。

 そんな自分を助けてくれた優しい人の声が響く。

 その人の手の感触、声、暖かい寝床、おいしいご飯。


 それらを思い出し、陰神メガミの背骨に両手を付き、身を伏せる。

 そこを――陰神メガミの白髪が狙う。

 立ち上がった数十本の髪の先は、剣先のように鋭い。


 チロはそれを見上げ、妣妹ヒメを守るように横に座る。



 剣先が一斉に、異物を貫くべく落下した。

 だが、それは弾き返された。


 如月神巫人キサラギノミコトの守護の力の片鱗を、彼の愛犬は与えられていた。

 その力は殺気を跳ね返し、砕く。

 

 陰神メガミは左腕を上げ、異物を潰そうと試みた。

 しかし、叶わない。

 顔付近まで上がった腕は、そこで止まる。

 

 止まった理由を、神巫人ミコビトたちは知っていた。

 陰神メガミは、『宵の王』の力を吞み込んだ。

 その力の中に潜む意思が、妣妹ヒメを害することを拒んでいた。


 妣妹ヒメも、亡者たちを縫い合わせた糸の中の、細い流れを見い出した。

 それは、敬愛する主人の慈悲の心だ。

 闇の力に染まっても、真白を保ち続けた一粒の砂。

 だが、その砂の輝きは闇よりも深い。



(……みんな、目覚めて!)


 一粒の輝きを糧に、妣妹ヒメは祈る。

 まるで、暗い洞窟を走っているようだ。

 怯え、恐れ、痛み――。

 それらが絡み、肌を焼くように貫く。


(思い出して! あなたを愛したものが居たこと。愛するものが居たこと!)


 その心は、少しずつ――洞窟の壁を削る。

 背後に光が差したのを、妣妹ヒメは感じた。

 でも、振り返らない。

 後ろから吹き始めた風が、花の香りを運ぶ。




「みんな、朝だよ……!」



 妣妹ヒメは右手を伸ばした。

 指先に光が触れ、夜が割れた。


 



 陰神メガミは苦痛に喘ぎ、大きく仰け反った。

 両翼は乾いた泥のように崩れ始める。


 亡者たちは自らの意思で、身を縫い合わせていた糸を断った。

 差し込んだ細い光は、長き苦悶の時を断つのに充分だった。

 いつか感じた暖かさ、誰かの手の温かさ。

 その記憶に涙した時、闇の空は晴れた。



「良かった!」


 陰神メガミの背から投げ出されつつも、妣妹ヒメは微笑む。

 宙を落ちる妣妹ヒメを抱き止めたのは、水葉月神巫人ミズハヅキノミコトだ。


「あとは任せてくれ!」

 風を蹴って近づいて来た天馬の背に彼女を預け、彼は念じる。

 

 ――彼らは償いを終えたのです。

 ――新たな世界で、新たな命となることをお許しください。




『その心、受け取ろう』


 

 慈に満ちた声が、芯の臓に届いた。

 宙を舞う泥と化した亡者たちは、白い光に変わる。

 それらは箱舟へと吸い寄せられ、箱舟を守るように浮かんだ。



 それを見た神名月神巫人カミナヅキノミコトは、為すべきを知る。


(これが神巫人ミコビトの闘いだ。不殺にて、憎を解き放つ!)



 眼下の、陰神メガミの足元から引いていた波が戻り始めた。

 海神は裂けた口を開き、威嚇とも悲鳴とも付かぬ雄叫びを上げた。

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