第176話

 音も凪ぎ、由縁ゆえの沈黙が果てまでを支配する。


 からだの内に、光の粒子が溢れる。

 それは無限に、芯の臓より放たれている。

 温かく、眩しく、喜びだけが貫いている。


 周りには、かけがえのない友たちがいる。

 光と同化した友たちの手を取り、互いを委ねた。


 命の祈りと願いが、背を支えてくれる。

 それは白果しろはての羽と化し、風を捉え、くうに浮かび上がる。


 瞼を上げると、地平の果てまでを濁流が覆っている。

 魚たちは濁流に翻弄され、深き層に逃げ、救いを求めて逃げまどっている。

 うずる空は厚い灰雲に閉ざされ、鳥たちは彼方に去った。


 

 

 ――ここは『凪月ナヅキイソ』。


 ――醜欲をかざし、命を裂いた存在モノが辿り着くついの地。。

 ――なれど、苦痛だけの地にはあらず。


 ――ここは、月夜に焦がれた存在ものたちの安息のねや


 ――安息は乱れてはならぬ。

 ――月の恵みは絶えてはならぬ。


 ――神巫人ミコビトよ。

 ――むくろ陰神メガミを鎮めよ。




 威に溢れる思意が鳴り渡り、神巫人ミコビトは心を巡らす。


 真下に、巨大なむくろが直立している。


 それは、死を許されぬ異形。

 逝き場を見失った憎悪を背負う陰神メガミ



(……そうか……)


 

 全てを理解し、すべきことを知る。



 ――母を求め、地の底を垣間見た娘は、母の心を悟った。

 ――母が、ムクロと化した理由を。


 ――それは、罪業に苦しむ亡者たちへの憐れみ。

 ――その心ゆえ、彼らを引き寄せ、身に纏った。


 ――そして、母は自我を失った。




 全ては、定められた『宿すく』であったのかも知れない。


 栄華に満ちた国の、御神木の底に広がっていた『凪月ナヅキイソ』。

 

 人は、その存在を知らぬままに、

 しかし、生まれた憎悪は暴走し、

 ふたつの国は、闇の底に堕ちた。


 されど、祈りと願いはまず。

 心ある者たちへと、託された。


 生と死を分かつ流れを超え、

 三千世みちよの時を受け継なぎ、

 異世より命は還ってきた。


 生と死を、

 あるべき姿に戻すために。





「箱舟は無事だ!」


 雨月神巫人ウゲツノミコトは、天高く舞い上がる。

 その瞳に、手を振る人々が映る。

 御魂に包まれた箱舟は金色に輝き、

 願いと祈りは、神巫人ミコビトの羽となった。


(彼らは『希望』だ。我らは『希望』の盾となる!)


 誓いを新たに、宿曜すくようの太刀を抜く。

 彼方に去った星の国が残した太刀は、殺めるための刃にはあらず。

 

羽月うづきさま。貴方さまの広き心を、この手に……!)


 自らを差し出し、友の過ちを止めようとした先達を想う。

 その意思は、確かに――柄を通して、心に沁みた。

 




「安心してくれ!」

「一緒に帰ろう!」


 如月神巫人キサラギノミコト水葉月神巫人ミズハヅキノミコトは、箱舟に身体を向ける。


 今までとは全く異なる力が、光の流れとなって血脈に溢れる。

 霊符は必要ない。

 

 生命を守護する力。

 忌みを浄化する力。


 ふたりの掌は、溢れた祈りと願いが星の如く輝く。

 その一粒一粒は、命の無限の輝きだ。

 数珠のように、円環となって連なる、永遠の光だ。


 この奈落の国から、彼らを連れ出す。

 生者も死者も――新しい世界の種となる者たちだ。

 

 そのために、刃を持つ友たちの背を護る。

 それが、八十九紀の術士の最後の使命だ。

 


 


 美名月妣妹ミナヅキヒメは、天馬の背で髪を靡かせる。

 天馬は軽やかに風を蹴り、羽ばたき、空の波を駆ける。

 

 妣妹ヒメ陰神メガミを見下ろし、癒しの力のすべを知る。


 嘆き。

 痛み。

 苦痛。


 癒すべきは、陰神メガミにすがる亡者の哀しみだ。


(……あたしたちがいるよ!)


 ――亡者たちに、芯の底の輝きを思い出して貰う。

 ――それが、あたしたちの役目だ。


 妣妹ヒメは、天馬と子犬に意を伝える。

 自分たちは、愛されている。

 その温もりを、闇で足掻く者たちにも――


「思い出そう! あなたが好きだった人のこと!」


 差し伸べた小さな手の、光は眩い。





 神名月神巫人カミナヅキノミコトは、白鳥しろとりの太刀の柄に触れた。


 いずれの世に鍛えられたかは知らず。

 だが、太刀に命を預けた剣士たちの姿が視える。


 古の女剣士は、この太刀で炎の道を斬り開いた。

 片腕の老師は、この太刀で鬼神の怒りを断った。

 若き巫王子は、この太刀で水蛇を海底に帰した。


陰神メガミよ……)


 己と一体化した『意思』が背を押す。

 それは、天照姫アマテルヒメの祈りであり、大いなる慈悲深き御方の願いだ。


 神名月かみなづきの中将として死を受容し、数え難い転生を超え、辿り着いた地。

 

 すべては、この太刀で、

 腐臭を運ぶこの濁流を、

 鎮めるためだったのだ。


 現世で転生を繰り返した時間。

 水葉月みずはづきが黄泉を放浪した時間。


 それは、神巫人ミコビトの力を宿すに必要な『とき』であったのだ。

 

 


 

 神巫人ミコビトたちは空を滑り、

 陰神メガミは、大きく吠えた。


 その顔を覆っていた人面は、

 焼けて炭化したように黒い。


 囚われていた御魂が解放され、

 炎に晒されて尽きたのだろう。


 陰神メガミの右腕が上がり、

 焦げた人面を叩き落とした。


 腐敗した顔面には、

 黒ずんだ布が巻かれていた。


 眼の光は針の如く鋭く、

 神巫人ミコビトたちを射抜こうと蠢く。


 陰神メガミは背を反らし、

 両翼を広げ、腐瘴が飛散させる。


 足元の濁流は引き潮の如く去り、

 陰神メガミの足元が見えた。




「蛇か!?」


 箱舟からそれを見た男たちは、顔を合わせ、船縁を握る。

 陰神メガミの纏う裳は地に付くほど長く、その下には暗銀の鱗甲を纏う大蛇が見えた。

 

 大蛇の頭は、八つある。

 ひとつひとつが、牛車を丸のみ出来るほどの大きさである。

 渦巻くように身を丸め、絡ませ合い、頭を掲げて二股の青い舌を出して威嚇する。


 「ヤマタノオロチ……」

 

 弦月は呟いた。

 古事記や日本書紀に記された、伝説の怪蛇が目前にいる。

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