第175話

「とまれ、とまれ、引き返せ!」


 黄泉千佳ヨミチカは、寝殿の出入口で叫んでいる。

 甲板に出ようとする彼女を押し止めているのは、小君だ。

 たち四人は、首をすくめるだけで手は出さない。

 触れれば、後々に災いとなりそうだから。


 それより――甲板で陰神メガミを凝視している弦月が心配だった。

 荒ぶ風雨の中、髪や羽織が濡れるのも意に介さずに佇んでいる。


 見かねた雨月うげつが、黄泉千佳ヨミチカの腕をくぐって甲板に出た。

 甲板は雨水が流れているが、それと同じ高さの寝殿の床には水は侵入しない。

 強力な結界に護られているのだろうが、安心は出来ない。


「弦月さま、中に入りましょう!」 

 嘆願したが、相手は落ち着き払って首を振る。


「僕は死者だからね。濡れても、たいして身体は冷えないようだ。さあ、君は戻りなさい。君たちは、新しい世界の担い手だ。身体を労わらなければ」


「……お父さまぁ……」

 黄泉千佳ヨミチカは、鼻をぐずらせる。

 弦月は頷き、強風に怖じずに微笑む。


「僕の大切な子どもたちが、危険な場所に降りた。だから、一瞬たりとも目を逸らすことは出来ないんだ。黄泉千佳ヨミチカちゃん、今は耐えてくれないかな? 皆と中で待っていて欲しい。ここに居る誰しもが、かけがえのない存在だから。一人も欠けずに、新たな大地に降りなければ。そう、黒炎と太郎丸もね」

 

 ――風雨にも濁らぬ彼の言葉を聞き、誰しもが理解した。

 強い霊性とは無縁なこの男性が、現世と魔窟を繋ぐ使者に選ばれたのかを。

 隔てなき心の強さゆえに、若くして現世を去り、二つの異界を繋ぐ運命を与えられたのだと。

 

 

 

 ここで――巨大な陰神メガミは、ピタリと動きを止めた。

 やや前屈みの体勢で、両腕をだらりと下げ、膝を少し曲げたまま微動だにしない。


「……どうしたんでしょう」

 小君は、上目づかいに訊ねる。

 四将と少女は、陰神メガミの頭上の着地には成功した。

 その後、陰神メガミは身を揺すったりしたが、手で頭を叩くような仕草はしなかった。

 むしろ、それをしなかったのが奇妙で不気味だったが――

 

 

「兄貴たちは無事なのか?」

 神名月いつわりは、四つん這いになって甲板に這い出した。

 甲板を流れる水は減っている。

 

 家来たちも神殿の出入口に近付き、枯れ木の如く静止している陰神メガミを眺める。

 いつしか、箱舟は静止していた。

 誰もがそれに気付かぬまま、固唾を呑んで一点を見つめる。



 すると、陰神メガミの全身が炎に包まれた。

 家来やたちの半分は尻餅を付き、悲鳴を上げる。


「おい、燃えてるぞ!?」

「まさか、兄貴たち……」

「ナシロっちぃ……」


 殆どの者たちは、絶望に打ちひしがれた。

 真紅の炎は、陰神メガミを完全に包み――松明のように燃え盛る。

 炎から飛び出す人影も見えず――陰神メガミが、邪魔者を道連れにしたようにしか見えなかった。



「いや……落ち着いて!」

 

 弦月は、景色の変化を察する。

 風雨は弱まっている。

 濡れていた着物や髪が渇き始めている。

 焚火にでも当たっているように、寒さも遠のいている。


(あの炎は……燃やすための炎とは違う!)


 死者である弦月は、炎の意志を敏感に感じ取る。

 

「君たちの仲間に、火を使う術士は居たか!?」

「は、はい。八十八紀の大将さまが」

「その御方だ……」


 弦月は察し、燃え盛る炎を見つめ続ける。

 これは決して悪しき事態では無い、と確信しながら。




「光……光です!」

 

 小君も船縁まで飛び出し、指差した。

 炎の像を囲み、光の玉がぽつぽつと浮かんだ。。

 それは、蛍のように美しく――切ない。


 経を唱えていた尼君たちも移動し、壁の格子越しに光を眺めている。


「あの光は……御魂でございます」

 尼君たちは、四人揃って合掌した。

 

(もしや……御神木に囚われていた方々の?)

 弦月も手を合わせつつ、光に心を寄せる。

 尼君の御言葉が真ならば、三千年もの間、囚われていたことになる。

 どんなに辛かったことか――



 全員が手を合わせ、無心で祈りを捧げていると、無数の光は突如消え――

 不審に思った瞬間には、箱舟は光に包まれた。


 箱船の表面は――まるで金箔を貼られたように、光り輝いていく。

 木を敷き詰めた床も壁も天井も、まるで宝船の如く輝き、一同は圧倒された。


「これは……」

「うええ……眩しくて、チビりそう……」

「御魂の皆さまが、私たちを護ってくださっているのでは……」


 

 畏敬に浸る一同の頭上から、澄んだ声が降りて来た。

 それは光の如く身を通り抜け、内から鳴り渡る。


 

 ――その眼で確かめよ。

 ――神巫人ミコビトたちの姿を。

 

 ――祈りと願いを届けよ。

 ――そなたらの言霊を届けよ。


 ――神巫人ミコビトたちの闘いを後の世に語れ。



 

 それは、男の声であり、女の声でもあった。

 幼子の声にも、老いた声にも聴こえた。



「やるよ……やります!」

 黄泉千佳ヨミチカは両手を振り、遠くの篝火に向けて叫んだ。

「ナシロっち、頑張れー! みんな、頑張れー!」


 その声に誘われ、男たちは船縁に駆け寄った。

 雨月うげつの後ろには黒炎が出現し、その背に太郎丸が飛び乗る。

 尼君たちも出入口に座り、ひたすら祈る。

 

「声援しか送れないけど、頑張ってくれ~!」

「生きて帰って来ないと承知しねーぞ!」

「皆のために立つ方々に幸運を!」

「わんわん!」


 

 声は、一気に膨らんだ。

 箱舟から溢れんばかりの声援が飛ぶ。

 生者、死者、御魂……

 全てを超え、真摯な祈りと願いは陽の光と化し、月の光のように射す。


「……負けるな!」

 弦月は、子どもたちに手を伸ばす。

 それがしるしであったかの如く、陰神メガミを包む炎が消えた。

 

 そして、人々は見た。

 白き羽人はねびとたちと、白馬が天に翔け上がるのを。


 

「ナシロっちたちだ!」

「兄貴たち、無事だったー!」

「ずごい、白鳥みたいだ!」


 箱舟は、歓喜と深い輝きに包まれた――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る