第170話


 誰が知ろう?

 この『無月なづきいそ』で死を迎えし時。

 魂は何処へと向かうのか――

 安息の地に導かれるであろうか――



 

 目前の惨劇に、美名月みなづきは三度の悲鳴を上げ――言った。

「姫さま、何てことを!!」


 だが――女は悲鳴を無視し、血塗れの手を引き抜いた。

 心臓は主の身体から屠り出され、その身は地に伏す。

 空洞は血が噴き出し、見開いたまなこの光は消えた。


 美名月みなづきは四度目の悲鳴を放ち、彼から借りたうちきを脱ぎ、その身に被せ、癒しの光を纏った掌をかざしたが――

 


「無駄なことはするな!」

 雨月うげつの怒声が、癒しの光を打ち消した。

 血漿を浴びた美名月みなづきの傍らには、血の主となった女が立つ。

 

 玉花の姫君。

 蓬莱の尼姫。

 茶室の少女。

 蓬莱天音。

 黄泉姫。

 宵の王。


 そのいずれの顔も持たぬ女だ。

 女は地に腰を落とし、男の名を呼んだ。。

 手の内にしたものを眺め、涙を絞り、のたうつ声を響かせる。

 

 ――愛する男に生きていて欲しい。

 ――けれど、他の女には渡さない。


 歓喜と後悔。

 願望と欲望。

 織り成す狂気の笑いが、風の音をも掻き消す。


 チロが飛び降り、亡骸に鼻を摺り寄せて鳴いた――。




如月きさらぎの中将……この女が其方そなたの守護結界を破った理由をけるか?」


 雨月うげつの大将は、厳格なる表情で問う。

 五人とも、如月きさらぎの中将の原板とも云える霊符を所持していた。

 邪悪な力を弾く護符だが、ここまでの闘いで霊力は摩耗している。

 それでも、一瞬で身体を貫かれるとは考え難い。

 霊符が効かない相手であるとしか思えない。


 如月きさらぎの中将は、横たわる現実から目を逸らし――答えを導く。


「その女は、『宵の王』から分離した存在と思われます。邪気とは異なる『念』を発しています。水葉月みずはづきの中将の『浄化』の霊符で、鎮静できましょうが……」


 如月きさらぎの中将は女を睨み、無念さに唇を噛む。

 友の一人が斃れ、戦力が大きく削がれた。

 ましてや、ここは罪人の魂が流される『獄』であり、古きカミの支配地だ。


 『魔窟』での死は数えるのも難儀なほどに経験したが、その都度に魂は現世に帰還し、転生している。

 だが――今回は事情が大きく異なる。

 魂が現世に行きつけるかは不明だ。

 

 

「私の判断が悪しき事態を招いた……」

 雨月うげつの大将は、腰に挟んだ太刀の鞘に触れた。

「ここが奈落の底と知りつつ、情を先んじた。箱舟の脱出に専念すべきだった。人面化させられた者たちを救うことを考えるべきでは無かった……」


「……陰神メガミが動かなくなりました」

 水葉月みずはづきの中将は、不気味な異変を察する。

 陰神メガミが、頭上の蠅を無視するとは思えない。

 すると、女が哄笑した。


「はははははは! 陰神メガミは待っているのだ! 夫の伊弉諾イザナギを裂こうとした伊弉冉イザナミは、其方そなたらが我を殺すのを待っている! 我を贄として捧げよ! 伊弉冉イザナミは、クソ汚らしい船を此処から出してくれるやも知れぬぞ!」


 女は、血塗れの心の臓を神名月かみなづきの背に置き、雨月うげつの足元に這い寄った。


「我が名を教えよう……天之伊弉冉乃あまのいざなみの 蓬莱乃ほうらいの 瑠璃子るりこだ。さあ、お前の持つ『宿曜すくよう』で我が首を刎ねよ! その太刀は、真の名を知る相手を確実に斬ることが出来るのだろう? 我をると念じよ!」





 ――沈黙が過ぎる。

 ――人は動かず、チロだけが亡骸の頬を舐めている。


 耐えかねた女は立ち上がり、雨月うげつの得物の鞘に触れた。

「なぜ殺さぬ! ああ、首では不満か? 手足を斬り刻んでも良いぞ?」



「……公主さま、箱舟を呼び寄せられますか?」

 雨月うげつも膝を付き、女と目線を重ねる。

「この雨月うげつ……友の魂を見捨てて逃れることは出来ませぬ。箱舟を呼び寄せ、ここに居る者たちと共に立ち去られよ」


「阿呆か、おのれは!?」

 女は長袴を蹴って立ち上がった。

 血にまみれた袖が、雨月うげつの頬を打つ。

 だが、雨月うげつはさっぱりと微笑んでいる。


「我ら二人の魂など飛沫の如きでしょうが……陰神メガミの戯れにはなりましょう」


 雨月うげつは、神名月かみなづきの項に手を当てた。


「この者の光を感じます。魂は、未だその身から離れておりません。この雨月うげつ、自ら心の臓を『宿曜すくよう』で斬ります」



「ああ、救いようの無い阿呆だな!」

 如月きさらぎは、雨月うげつの襟首を掴む。

陰神メガミは、お前らで着せ替え人形遊びをするだろうな! 着替えのたびに、手足を抜き取ってな!」


「……判断を誤った責は取る」

 彼は陣羽織を脱ぎ――神名月かみなづきの肩に掛けた。


「古きカミとの遭遇は予想外だった。我ら如きで鎮めようなどと考えたのは、思い上がりだった。ならば……自らを捧げ、箱舟の仲間たちを助けたい。可能ならば、人面化した者たちも……公主さまもだ。如何なる者であれ、奈落に残すことは出来ない」


「ああ、お前は真のクソ阿呆だ! お前に付いて来た俺もな!」


「……弦月さまには、お前たちが頭を下げて欲しい。現世の母君にも……御子息を連れ帰ることが叶いませんでした、と」



「我は公主であるぞ!」

 女はまなじりを吊り上げる。

「勝手に命令するな! 我を殺せ!」


「忠臣を殺める公主に従う道理は在りませぬ!」

 雨月うげつは怯まずに叩き返したが――


「待って、様子がおかしい!」

 美名月みなづきが割り込んだ。

 ようやく異変に気付いた一同は、頭上を見る。

 立ち上がった陰神メガミの白髪は壁となり、一部は針天井の如く頭上を塞いでいた。


 瞬きする間に――針天上は容赦なく落ちて来た。


 轟音が鳴り、水葉月みずはづきが胸元を押さえた。

 シャツのボタンの間に手を突っ込み――千切れた霊府を引き出す。


「はは……もう限界みたいだ」

 如月きさらぎもシャツの中の霊府を確かめ、破片を足元に撒く。

 針天井は、彼らの頭上三メートル程度の位置で静止している。

「チロ、お前だけでも逃げろ! そこらへんの隙間から出ろ!」


 だが――チロは美名月みなづきの膝に乗った。

 美名月みなづきは頷き、チロを抱いてうずくまる。



「……猫の姿に戻れぬのかっ?」

 女の気色も変わった。

 愛猫の最期を前に、幾許かの情が戻ったのだろうか。

 笑いは消え、焦りの色が浮かんでいる。



「……陰神めがみさまはせっかちだねえ。俺の魂に免じて、箱舟を脱出させてくれることを祈るか」

 如月きさらぎはベレー帽を脱いで寝転がり、足を組む。

 水葉月みずはづきは瞼を閉じ、来るべき時に備える。

 死を恐れはしないが、箱舟の仲間たちの無事を見届けられないのは無念だった。


 

 ――頭上の邪気が大きくなる。

 雨月うげつ神名月かみなづきの肩に手を当て、仲間たちを見つめる。


 針天井は重々しい音と共に落下した。


 


 ――周囲がくれないに染まる。


 くれないは壁を包み、針天井を吹き飛ばした。

 

 そのくれないの――燃えさかる炎の霊気を彼らは知っている。



「……火名月ひなづきさま!?」


 雨月うげつは叫び、懐かしい声が炎の壁の内に満ちた。



(もう大丈夫だ!)


(君たちを死なせない!)


(諦めないで!)


(さあ、立って!)


 

 巻き上がる炎の中に、四つの幻像が浮き出た。


 墨染めの小袖に純白の水干を重ねた――八十八紀の四将たちがそこに居た。

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