終章(拾壱) 瑠璃子

第169話

 宙空は、予想以上の災禍だった。

 風の唸り、棘の如き飛沫を撒く竜巻。

 それらと異形の邪念が混ざり合い、異物を彼方に弾き出そうとす。

 

 目も耳も役に立たない。

 鼻だけが腐臭を捉え、嘔吐感が胃をかき混ぜる。

 夜色の風の向こうで閃く銀の光は、陰神メガミの白髪だろうか。

 向かい来る敵を切断すべく、刃の櫛の如く迫って来る。


 だが――如月きさらぎの五枚の原符は、未だ霊気を失っていなかった。

 守護術を収めた原符は、それを持つ者たちに向かう黒刃を粉々に折る。


 けれど、原符の消耗が激しいのは分かっている。

 複写護符も残数も少ない筈だ。

 それでも、恐れは無い。

 五人は、頭上への着地に集中する。

 

 術士二人は正確に、光の糸を伝わる少女の霊気を補足している。

 剣士二人は霊気を捉える力は劣っているが、彼らが持つ古式ゆかしい太刀はそれを補って余りある。

 刃は正しく少女の霊気を読み、主を導く。

 

 神名月かみなづきは瞼をこじ開け、下を見る。

 足元に、脈打つ木の根を敷き詰めたような頭頂部が広がっている。

 しかし、敵の上半身は大きく前傾した。


 虫を振り払う如く、身体を傾けたのだろう。

 神名月かみなづきたちは引っ張られ、弾かれるように宙を滑る。


 だが、投げ出されることは無かった。

 彼らが握る得物の柄は、腕と一体化したように離れない。

 美名月みなづきとチロも、術士たちの一部であるかのように離れない。

 少女の霊気に導かれ、彼らは敵の動きに付いて行く。



「ここだ!」

 雨月うげつは霊気を刃で巻き取り、真下の頭頂部に降り立った。

 他の三人も、同じように着地する。


 しかし、そこは巨大な蚯蚓みみずたちの巣のようだった。

 悪臭を放つ粘液の沼から、蚯蚓みみずが隙間なく頭を出しているようだった。

 たちまち身体が粘液にまみれ、目鼻口を覆う。

 

「ん、ん、ん、ん~っ!」

 美名月みなづきは顔を歪め、粘液を拭う。

 低身長の彼女は脇から下が粘液に埋もれ、動きもままならない。

 

「落ち着け!」

 如月きさらぎは刀を収め、美名月みなづきを抱き上げた。

「チロ、お前は隠れてろ!」

 命じると、チロは光となって如月のシャツの隙間から中に潜り込んだ。

 他の三人も集まり、剣士たちは太刀を松明のように掲げ、状況を見定める。


 着地した場所は、敵の頭髪の隙間だ。

 逆立つ太い蔦の如き頭髪は上に伸び、隙間から僅かばかりの空が見える。

 草地の蟻が空を見たら、このように見えるのかも知れない。

 いや、豪雨下の泥の上の蟻が……と言うべきだろう。

 泥で動けず、水没を待つしかない――


 だが、自分たちは蟻とは違う――

 彼らは頷き合う。

 

 異形のカミから見たら蟻に等しくとも、蟻ほど無力ではない。

 だが、如月きさらぎの原符を持っていなければ、粘液に溶かされていただろう。

 美名月みなづき以外はそれを察していたが、彼女を怖がらせないために黙していた。

 身体に影響が無ければ、不用意な発言は禁物なのだ――。

 


「箱舟は無事か?」

 雨月うげつが訊ね――神名月かみなづきは頷いた。

「無事だ。ここから遠ざかっている」


 気配を読み、自らも胸を撫で下ろす。

 箱舟と同化した蓬莱の尼姫の意志が伝わる。

 箱舟は、安全な空域まで離脱するだろう――。



「……こっちだ」

 密集する髪の隙間を、水葉月もみずはづきは指し示した。

 彼は、人面化させられた仲間たちの『気』を容易く読む。

 

 彼の負傷が重いことは分かる。

 無理をさせるのは、心が痛む。

 それでも、彼を頼るしか無い。

 囚われている仲間たちのために。

 箱舟の中で祈る友のために。


 耐えねばならないのは、皆が同じだ。

 だから、今は水葉月みずはづきには余計な言葉は掛けない。

 彼も、それを望んでいると解るから。


  

「やっすいシャンプーを使ってやがるな。頭皮が油ぎってるぜ」

 如月きさらぎは、いつも通りの軽口を叩く。

 着地してから、十五分は過ぎただろうか。

 髪の隙間の粘膜の沼を進むのは、容易では無い。

 

 が――敵の身体の揺れは、いつしか止まった。

 美名月みなづきも落ち着きを知り戻し、粘液に浸かりながらも自らの足で進んでいる。

 その右手は、水葉月みずはづきの左手を握って離さない。

 癒しの霊気を送り込んでいるらしく、水葉月みずはづきの顔色は良くなった。

 

 けれど、敵の動きが止まったのが気に掛かる。

 こちらの出方を伺っているのだろうか。

 そう、蠅叩きを構えて待つように――。



 

 油断せずに進んでいると――髪の隙間から、空が見えた。

 雨音が大きく響き、風が濡れた身体を打つ。

 けれど、粘液の沼は足首まで浸かる程度まで浅くなった。


「どうやら、敵の額の上に出たようだ」

 雨月うげつは膝を付き、身を乗り出して下を眺める。

 すぐ下に、玉花の姫君を模した人面の上部が見える。


「……僅かに隙間があるな」

 水葉月みずはづきは、敵の干からびた額と人面の隙間を計った。

「上から隙間に潜り込むのは無理だ。嫌な邪気が、額から噴き出している。そこが弱点だな」


 彼の指摘通り――強大な『気』が溢れて結界を張っているのを感じる。

 直に触れると危険だ。


「人面の額の辺りに閉じ込められている仲間たちは大丈夫か?」

「人質が『気』に触れないよう配慮はしているらしい。敵にも分別はあるようだ」

「人質を返すから帰りやがれ、と言ってれないかね?」


 如月きさらぎは舌打ちしたが、水葉月みずはづきは首を振る。

「ここが『無月ナヅキイソ』であるなら、侵入者は我々だ。この陰神メガミがこの地の主なら、陰神メガミを鎮めねば帰り道は見つからないだろう」

「そっか~。土下座して赦してくれるなら、喜んで這いつくばるんだけどね~」

 


「……あれは……」

 神名月かみなづきは、陰神メガミのこめかみの辺りの動きに気付く。

 こめかみから伸びる乾いた皮膚が、人面に付着しようと動いていた。

 それを拒絶するように人面は僅かな光を発し、陰神メガミの皮膚を押し退けている。


「抵抗してるんじゃないか?」

 雨月うげつは拳を握り締める。

 このような状況でも、邪まな意思を感じ取り、必死に抗っている。


「下に降りなければ!」

 神名月かみなづきは決意した。

 敵の罠である可能性も捨て切れない。

 けれど、必死に抗う仲間を一刻も早く救いたい。




「我より、白織しらほりを選ぶか!」


 ――背後で、彼女が叫んだ。

 ――鮮血が跳び、激痛が走る。

 

 ――胸から、血塗れの手が突き出た。

 ――その手が握っているのは、脈打つ心臓だ。


 ゆっくり振り向いた先には、宵の王がいた。

 いや――それは、愛する者を失うまいとする少女の情念だった。


「行かせぬ……行かないで! 私を独りにしないで!」


 少女の真紅の瞳は――熱い涙で歪んだ。

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