第166話

 打ち寄せる荒波――

 御神木の根元の穴から湧き出でる水――

 それらは、完全に大地を呑み込んだ。


 御神木は宙に吊られているかのように、横倒しの状態で浮いている。

 折れた枝や散った葉は、幹の周りを気流に乗って巡回している。


 そこより一町(約110m)ほど離れた洋上に、箱舟は浮いていた。

 激しい風を受けて波は弾け、船体の底を濡らすが、船は微塵たりとも揺れない。

 


「……くそっ、水が止まらねえな」

 船首で御神木を監視していた如月きさらぎは舌打ちした。

 救助されてからの体感時間は三十分程度だろうか。

 

 水位は刻々と上がり、御神木の幹を濡らし始めた。

 浮いている位置は、神名月かみなづきが住むマンションほどの高さだろう。

 十一階建てのマンションが水没するほどの水位とは、凄まじい洪水だ。



如月きさらぎさん、代わります!」

 寝殿から出て来た神名月かみなづき水葉月みずはづきが走り寄って来る。

 如月きさらぎは礼を言い、ありがたく交代して貰った。

 ブーツを脱いで寝殿に入ると、中は立て障子と几帳で仕切られている。


 手前の半分には、男たちが集まっている。

 雨月うげつ如月きさらぎの背後には家来たちが座し、畳二枚を合わせた寝床に水葉月みずはづきが横たえられている。

 その右側に神名月かみなづき雨月うげつ弦月げんげつが並び座り、反対側では美名月みなづきが治癒の術を掛けている。

 

 如月きさらぎは彼女の横に座り、蒼白な友の顔を眺める。

 神名月かみなづきの白いうちきを身体に掛けているが、その左袖は千切られている。

 袖を引き裂いて、裂けた左腕に巻いているようだ。

 が、そこには薄黒い染みが浮き出ては消えている。

 体内に残る邪気に違いない。


 如月きさらぎは或ることに気付き――神名月かみなづきに訊ねた。

「黄色いうちきはどうしたんだ?」


「……神逅椰かぐやの……見送りの装束に使った」

 神名月かみなづきは、哀しみを説くような表情で語る。

 もう一枚の袿があれば、水葉月みずはづきの回復に役立ったかも知れないが――

 

 如月きさらぎは、チッと口元を歪める。

「馬鹿か、お前。治癒効果のあるアイテムを手放す奴があるか」

「……美名月みなづきも居る。何とかなるよ」

「……馬鹿と付き合ってると、馬鹿が移って困るぜ」


 そんな遣り取りを聞く雨月うげつも微笑んでいる。

 

 ――何とかなる。

 ――我々は、そうして『義』を貫いて来た。


 彼らは見つめ合い、意思を確かめ合う。

 狂気と邪気に塗れた相手でも、近衛府の先達だ――。

 許し難い罪人でも、踏み付けることなど出来ない――。

 

 

 そこに、盆を持った小君が現れた。

如月きさらぎさま。御萩おはぎと水をお持ちいたしました」


「……すまんな」

 盆を受け取り、じっと小君とを眺める。

 この少年の顔には覚えがある。

 あの処刑場に連れて来られ、自分たちの髪を削がされた子だ。

 

 ――この子も、生き残っていた。

 あの時のことは忘れているようだが、生きていてくれたことが何より嬉しい。

 


「……怖くないか?」

 訊ねると、小君は大きく頷いた。

「『大いなる慈悲深く御方』が見守ってくださいます。それに、四将の皆さまのお力を信じています」


「うーん、色男はツラいねえ」

 如月きさらぎは、小君の背を叩く。

「安心しろ。男なら、あちらの尼君たちと姉ちゃん黄泉千佳を守れ!」

「はい!」


 小君は引き返し、几帳で囲まれた女性たちの部屋に戻った。

 如月きさらぎは御萩を口にしつつ、状況を説明する。


「地上は大洪水だ。御神木も水没しそうだ。その時が、ラスボス先生のご登場かな。おやつの時間を用意してくれるとは、ラスボス先生も気が利いてるぜ」

「……地下から這い上がるのに時間が掛かってるんだろう」


 雨月うげつは、一同を眺めつつ呟く。

 茶室の少女は、御神木の真下に伊弉冉神古門イザナミノミコトの墓があると言った。

 それが事実か否かはともかく、この大洪水を起こした『存在』を鎮めなければならない。

 



 ――昏睡状態に近かった水葉月みずはづきの胸が膨らんだ。

 咳き込み、口から泥水のような飛沫を吐く。


「いけない……!」

 弦月げんげつは素早く彼を横向けにして、背をさする。

 羽織を脱ぎ、水葉月みずはづきの口元に敷き、吐き出した墨色の水を吸わせる。

 畳の上に吐き出したら、見ている家来たちが怯えると思ったのかも知れない。


「全部、吐き出しなさい。我慢しなくて良いから」

 

 ――激しく咳き込む彼を、実の父親のように労わる。

 雨月うげつは、ふと気付き――美名月みなづきに訊く。


美名月みなづき……例の首飾りを使わせて貰えるか?」

「はい!」


 彼女は、袖の内側に入れていた首飾りを差し出す。

 『黄泉の水』を入れた魚型の醤油さしを繋いだものだ。


 受け取った雨月うげつは、その一つを外し――如月きさらぎが受け取った茶碗に『黄泉の水』垂らした。

 水の色に変化は無いが、花の芳香が漂ってきた。

 雨月うげつは、一同に説明する。


「王后さまが現世を訪れた時……仰った。水葉月みずはづきは、今も半身を『黄泉』に置いているに等しいと。ならば、この水が回復の役に立つかも知れない」



「……全部、入れよう!」

 美名月みなづきは惜しまずに、全ての醤油さしを開封して茶碗に注ぐ。


「……ありがとう」

 雨月うげつは、礼を言う。

 美名月みなづきだけでも現世に返したかったが、それは要らぬお節介だった。

 彼女は、もはや一人前の術士なのだ。


 

「さあ、飲んで」

 弦月げんげつ水葉月みずはづきの上半身を支え起こし、美名月みなづきは色を失った唇に茶碗を当てる。

 彼女の手のひらからは癒しの術が放たれており、茶碗の内の水は緩やかに輝いている。


 彼が水に口を付けた時――異様な衝撃が全員の身を貫いた。

 神名月かみなづき雨月うげつは、太刀を手に立ち上がる。

 女性たちの部屋から、チロと太郎丸も走り出る。

 


「大変だ!!」

 見張りに付いていた二人が、血相を変えて飛び込んで来た。

荒魂あらみたまだ!! 波の下から出て来た!」


「……おやつの時間は終わりか」

 如月きさらぎは、ベルトに挟んでいた複写霊符の束を取り出す。

「さて、ラスボス先生のご尊顔を拝ませて貰おうぜ」

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