第163話

「……アトルシオか……」

 

 『神逅椰かぐや』と名乗っていた男の『残骸』は、喉の奥より掠れた音を発した。

 乾ききって崩れる寸前の泥人形の如く、顔面にも細かい亀裂が入っている。

 

「ようやく……命運が尽きたか……」

 『残骸』の喉から出る音には。深い安寧が籠もっている。

 邪気と狂気に侵された奥底には、神名月かみなづきが知る凛々しい剣士の心が隠れていたのだろうか――。



「……私は、地の底の『脳髄なづきの磯』に流され、永劫に責め苦を受けるであろう。焼かれ、斬られ、沈められ……退屈はせぬ……」


「……ガレシャさま……」

 神名月かみなづきは、かつて抱いた憧憬を込めて語り掛ける。

「申し訳ございません。力及ばず……あなたさまを倒すのに、時を労しました」

 

 足場は悪いが、どうにか姿勢を保って頭を下げた。

 

 数え切れぬ転生を繰り返した。

 その度に倒され、現世の家族や友を悲しませた。

 御神木に封じられた人々の苦しみを長引かせた。

 先達の四将たちも、倒さざるを得なかった。


 無念と苦悶の果てに、災禍の下地となった男の最期に立ち会っている。

 しかし高揚感は無く、湧き出る悔恨が涙腺を推す。

 そしてもう一つ――謝るべきこともある。

  

「あなたの弟のアラーシュを……此処に連れて来ること、叶いませんでした……」


 ――目の前の『残骸』が人であった時に寵愛した弟だ。

 正気を取り戻した兄の言葉を聞かせたかった。

 だが『残骸』は、あえかに瞼を伏せる。


「……父上とアラーシュは和解したのだな……」

「はい……お聴き及びでしたか……」


 神名月かみなづきは頷く。

 『残骸』の心残りは、僅かでも軽くなっただろうか。

 が、その喉元に亀裂が入った。

 卵の殻をナイフで叩き割った時のように、破片が肌の内側に落ちる。


 時間は無い。

 けれど、ここに至って察したことがある。

 おそらく、それは当たっている筈だ。

 そうでなければ、説明が付かない。

 彼が術士たちの力を奪い、悪意を膨張させるに至った理由が。


 神名月かみなづきは、真実を求めて問う。

 

「……あなたさまは、術士だったのですね?」

「……分かるか?」

「はい……内に残る気配を感じます」


 そう答えると『残骸』は目を細め、小さな息を吐く。

「気付いたのは、其方そなたで三人目だ。他は、サリアとエオリオ……」


 だが――顎の辺りにも小さな亀裂が入る。

 神名月かみなづきは、うちきの袖を傷に当てたが、亀裂は治らない。

 『残骸』は瞬きを以って、神名月かみなづきを制する。


「何もせずとも良い。そう……亜夜月あやづき羽月うづきは、私の真の才を見抜いた……」

「なぜ……御自身の力を隠していたのです?」


「物心ついた時には、我が才に気付いていた。喧嘩をする牡犬どもに近付くと、動けなくなるまで噛み合う。馬どもに近付くと、頭をぶつけて蹴り合う。他者の憎悪を煽る力だと、自然と理解した……」


「そんな力を……?」


「自分を制しようと木刀を握り、心を鍛えようとした。近衛府での修練中は、導師に悟られぬようにと『大いなる慈悲深き御方』に祈り続けた……」



 この瞬間――神名月かみなづきの脳裏に、二人の少年の後ろ姿が映った。

 二人は紺碧の夜空を見上げ、語り合っている。


『ガレシャ。僕と二人の時は、力を抜いて良いんだよ』

『……エオリオは、僕が怖くないの?』


『ぜんぜん。ガレシャが優しいってこと、知ってるから』

『……そう見える?』

『うん。みんなを傷付けたくないから、本当の力を隠してるんだよ』


 後に『羽月うづき』と呼ばれる少年は、手を差し出す。

 自分の才を恐れる心を、無二の友は見抜いていた――。



 

 ここで残像は消え――我に返ると、下に横たわる『残骸』の亀裂は顔全体に広がっていた。

 胸から下も崩れ落ち、袿の下に割れた殻の如き皮膚が散らばる。


 『残骸』には、もう言葉を絞り出す力は無さそうだった。

 後に起きた悲劇への過程は、想像するしか無い。

 

 術士の才を隠し、剣士として修練を積み、努力の甲斐あって、八十七紀の大将に任ぜられた。

 だが亜夜月あやづきとの婚姻を父の宰相に拒まれ、積み重なった怒りが暴走した時、全てが破綻した。

 愛する者を傷付け、無辜の人々を恐怖に陥れ、最後は自らが生み出した憎悪――玉花ぎょくかの姫君の憎悪との間に『宵の王』が生まれたのだろう。


 

 ――二つの国を滅ぼしたことを許すことは出来ない。

 それでも、『残骸』を悼まずにいられない。

 罪を認め、罰を受容しようする者を責められない。

 


 その時、白い光が下から飛んで来た。

 光は、『残骸』の胸の上に静かに降りた。

 それは、上野の愛犬のチロだった。

 

 チロが『残骸』の口元を舐めると、僅かに深い亀裂が少しだけ治った。

 美名月みなづきが授かった『力』の影響かも知れない。


 神逅椰かぐやが造り出した如月きさらぎも、黒い犬を飼っていたから、説明せずとも解るだろうが――それでも一言を添えた。


「……現世のアラーシュが飼っていた犬です……」

「……そうだったな……いい子だ……」


 

 『残骸』は囁き、静かに瞼を閉じた。

 

 目尻が崩れ始め、それは顔全体に広がる。

 チロは悲しそうに吠えた。

 神名月かみなづきは瞼を閉じ、『残骸』の顔もうちきで覆う。

 

 沈黙が鳴り、うちきは棘の表面に滑り落ちた。

 『残骸』は形を失い、行くべき場所へと去ったのだ――。



 だが、下での喧騒は届いている。

 祈っている隙は無い。

 

 葉のような棘の上で靡いているうちきを眺め――チロの首筋を掴んで、単衣の中に押し込んだ。。

「チロ、下に降りるぞ!」

 

 ――うちきには治癒の術が織り込まれており、ここで手放すのは得策では無い。

 けれど、下には美名月みなづきが居る。

 彼女の治癒術があれば、うちきの一枚が失われても差し支え無いと思いたい。

 何より、死者に捧げた装束を持ち帰るなど不敬だ。

 死装束は、死者の原罪の軽減を祈願したものだから。



 棘の山を降り、下の枝に移ろうと構えた。

 が――真紅の雷が閃いた。


 

 見上げようとすると――御神木が傾いた。

 落下したが、すぐに下の枝に掴り、事なきを得た。

 下を見ると、地面が斜めに傾いているように感じる。


 いや、自メカでは無く、この御神木が傾いているのだ。

 枝の間から、激突する黒っぽい炎と白い光が見える。

 宵の王と雨月うげつの闘いは続いているようだが――


 白い光は、動きを止めて遠ざかった。

 押されて飛ばされたのでは無く、御神木の異変を見て後退したらしい。

 光の動きで分かる。


 伸びた枝が邪魔で地上の様子が分からないが、斬って視界を開くことは出来ない。

 枝にも、人々の魂が封じられている。


 頂に昇るしか無さそうだが――再び、雷が閃いた。

 激しい光が空を裂き、轟音が耳を突き抜ける。

 月と夜空は真っ二つに割れ、灰色の空が一面を覆った。

 

「これは!?」


 突風に煽られ、両手で枝にしがみ付く。

 腰の結緒むすびおに下げた太刀も激しく揺れる。


 そして――ついに、枝が折れ始めた。


「そんな!?」


 人々の魂が封じられた枝が砕かれ、竜巻に巻き込まれたように空に舞い上がる。

 御神木も大きく傾き、捻じられるように回転し、神名月かみなづきは宙に投げ出された。

 

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