第146話
――戻って来るだけの体力はあるまい。
方丈翁の言葉の意味は明白である。
現世にある肉体が、限界を超えると云うことだ。
だが、和樹たちには止める手立ては無い。
今生での別れは宿命なのだ。
だが、この御方にも来世はあるのだろう。
だが、それは数百年は先の話になる。
方丈日那女が、再び人に転生する頃。
それと時同じ頃、この御方も現世に戻って来るのだろう。
「方丈さま……お世話になりました」
一戸は跪き、刀を右に置く。
上野も、月城も、それに倣う。
和樹も跪いて瞼を閉じ、この御方と初めて会った頃を想う。
『魔窟』に降り、戸惑う自分に声を掛けてくれた白装束を纏った影の如き老人。
何かと助力してくれ、しかし蕎麦を食べて腹が痛いと転げていた老人。
それら全ての思い出が、熱く巡り行く。
ミゾレも寂しそうに鳴き、蓬莱さんも腰を落として方丈翁と抱擁する。
久住さんも両手を結んで祈るように瞼を伏せた。
詳細を知らない村崎夫妻も、静かに首を傾ける。
目の前の老人が、命の灯と引き替えに自分たちを元の世界に戻そうとしていることだけは分かるから。
「ご夫妻、そして……そこの娘さんたち」
方丈翁は、杖の先端で床を叩いた。
すると、杖から半径一メートルほどの空間に水が現れた。
正確には、水を映したような――まさに水鏡が現れたのである。
水鏡は揺らぎ、方丈翁が水面の中央に立っているように見える。
「さあ、こちらに。そなたたちを現世に送り届けねばならぬ」
「でも……あなた様は?」
村崎綾音の父親は訊ね、しかし方丈翁は微笑を持って答える。
「ここは、生きている人間には相応しからぬ場所じゃ。現世に帰り、元の生活を取り戻すが良かろう」
「はい……」
夫妻は頷き、娘と久住千佳に手を伸ばす。
現世に帰れる喜びよりも半信半疑の方が大きいが、従うより無い。
老人の言葉が真実ならば、この奇妙な世界から帰れる。
「でも、あの男の子たちは?」
村崎綾音の母親は、立ち尽くす和樹たちを案じる。
娘と同い年ぐらいの少年たちだ。
置いて行くことは出来ない。
「ご心配なく。我々も後から行きます。とにかく、ご無事で何よりです」
一戸は、夫妻に会釈した。
「皆さんは、先に行って下さい」
「はい……」
村崎綾音の母親は、気圧されて頷いた。
着衣から同時代から来た少年たちだと判るが、年齢に不相応な威厳がある。
そして真っ直ぐな瞳をしていて――どこか哀しそうだ。
「ニャシロくん……」
久住さんは、伸ばしかけた手を引っ込める。
彼らの使命は分かっている。
幼なじみの父親の魂は、まだ此処に居るに違いない。
何より、彼らは永き時を闘って来た。
彼らを止めたとしても、無駄だろう。
何より、敵は現世にも現れる。
また、誰かが人質に取られかねない。
だから――見送る事しか出来ない。
「……待ってるね」
「うん。ほんの数秒だよ。現世とは、時間の流れが違うから。終わったら、直ぐに家に帰るよ。母さんと岸松おじさんが待ってるんだ」
涙ぐむ久住さんに、和樹は笑って手を振った。
村崎夫妻は、娘を離すまいと抱き締める。
「黄泉の
方丈翁の祈祷が響く。
「我は、上代よりの
短い祈祷が終わるや否や、方丈翁の足元が飛沫となって弾けた。
飛沫は渦となり、水陣内の人々の魂を包み、濁流の内に巻き込む。
五人の姿は濁流の底に沈み、飛沫が濡らした床や壁は、たちまちに乾いた。
「ニャン!」
ミゾレは――大きく鳴き、主の腕に向かって飛んだ。
ミゾレの主――『
水陣の在った床に、彼女は佇んでいた。
濃い鼠色の小袿に黒の袿を重ね、銀鼠色の長袴を履いている。
直毛の黒髪は肩より下の長さで切り揃えられ、漆黒の数珠を手にしている。
袈裟こそ付けていないが、尼装束には違いない。
「今しばし、同行いたします」
月窮の君は、抑揚の少ない声で言った。
何が起きたか――和樹たちは理解している。
蓬莱天音は、『村崎綾音』の体と人格に『蓬莱の尼姫』の力が付与された存在である。
両親や久住さんと共に『村崎綾音』の人格は現世に戻り、『蓬莱の尼姫』の力の片鱗――『月窮の君』だけが残ったのだ。
「お供させて頂きます。月窮さま」
一戸は丁重に挨拶した。
それを和樹は、複雑な眼差しで見つめる。
「だって、素敵なドレスだったから」
――恥ずかし気にそう言った少女は、もう居ない。
先に進むに連れ、大切な何かが失われる。
村崎綾音は、現世で元通りの生活を始める。
それは喜ぶべきことなのに、寂しさをーが胸に迫る。
(……久住さんも、村崎さんの家族も現世に戻れた。あちらで、僕の母さんたちも待ってるじゃないか!)
和樹は自分を奮い立たせる。
この闘いは、過去の因縁を振り払う闘いでもあるのだ。
黄泉の川を越えた世界の平和を取り戻し、そして友と現世に戻る。
それが目的だった筈だ。
和樹は目尻に力を込め、惜別の念を振り払う。
それに、まだ父の裕樹を助け出さねばならない。
そこには、四人の尼君や自分たちの偽りたちも居る。
彼らなら、この世界の未来を築いてくれる――。
揃った摺り足の音が鳴り、水干姿の女たちが現れる。
黄泉姫が作り上げた、心なき偽りたちだ。
先頭に立つ
月窮の君は、女たちの前に進み出て――労いの言葉を掛ける。
「この寝殿を守り抜きし忠義、見事でした。ゆっくり、お休みなさい」
そして、数珠を持つ手を
見れば、庭に積み上げられた
しかし、それは『無』には
「行くか……ニャシロくん」
上野が、和樹の丸まった肩をポンと叩く。
「変な気分だ。あのタヌキ宰相を見てて、泣きそうになっちまった。
「当然だろう……」
一戸は微笑み、だが直ぐに月窮の君に身を向ける。
月窮の君は表情を動かさず、猫を抱いてしずしずと歩み始める。
闇を彩るのは、上空の月影だけだ。
一行は、深層の麓に静かに歩み寄る。
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