第143話


 

 宰相は、僅かの間にめっきり老け込んでいた。

 張りのあった頬は垂れ、目は大きく窪んだ。

 絶望に塗れた姿には、国の政事を背負った男の矜持は皆無だった。


「……私の息子が、国を滅ぼしたと言うのか?」

 

 揺れる視線を、どうにか次男だった上野に合わせる。


「アラーシュ……お前の母さんはどうなった? 私の母上は……」

「……母上もお祖母さまも……御神木に取り込まれたんだろう……」


 上野は、そう答えるしか出来なかった。

 如月きさらぎの母と祖母のことは、はっきり思い出せない。

 それでも、彼が二人を愛していたのは分かる。

 特に祖母に可愛がられて育ったことが、おぼろげに察せられる。

 母と祖母は、兄が弟の命を奪ったことを知っただろうか――。


 

 その突き付けられた事実に、宰相はガタガタと歯を鳴らす。

 食べた物が逆流する苦悶に襲われるが、実体が無いだけに吐くことも儘ならない。

 食べた料理は、所詮は幻だったと云う事だろう。

 


「……ガレシャがお前を殺したのか……ふはは……はは……」

 

 宰相は混濁した笑いを絞り出した。

 全てが崩れ落ちた事実を目の当たりにした瞬間だった。

 自分は死者であり、故郷は闇に堕ちた。

 長男が次男の首を撥ねた。

 妻も母も死んだ――。


 

 やがて、笑いは号泣へと変わった。

 誰もが苦痛に歪むそれを止められず――やがて宰相は四つん這いのままで体の向きを変え、息子に背を向けた。


「私は……我が一族の繁栄を願った……強欲と言われようが……」


 そして大汗を垂らしつつ、立ち昇る霧を見る。

「……国は栄えていたではないか……民に重税を課したこともない……はは……何が悪かったと言うのだ……」


 宰相の意図を全員が察した。

 大椎国守おおじのかみは止めるべく手を伸ばしかけたが――すぐにその手を下止めた。

 霧に触れたら、自分たちは消える。

 霧は既に卓の脚を完全に包んだ。

 この場に及んで、自死を止める意味が見い出せない。

 曲がりなりにも宰相たる男の、最期の決断を尊重すべきとの考えが片隅に浮かぶ。



 しかし、蓬莱さんは声を張り上げた。

 「駄目です、宰相殿!」

 

 それに呼応し、ミゾレも激しく鳴いて前足をバタバタ振る。

 

 が、宰相は振り向きもせずに嘆いた。

「公主さま……愚息の罪と非礼は許されるとは思うておりませぬ。なれど、如月きさらぎの奉公に免じて、罪なき我が妻と母の魂をお救い奉れ……」



「……雨月うげつの大将!」

 

 沈黙していた大兄おおえ兵部卿が朗々たる声を上げる。

「兵部府頭領にして八十四紀大将の雨竜月うりゅうげつが、八十九紀大将に問う! 先のそなたの謝辞には、微塵の偽りも無きか!?」



(えっ!?)

 和樹は驚愕した。

 雨月の父親が近衛府八十四紀大将で在ったとは、全くの初耳だ。

 先ほどまでの会食でも、そんな話は出なかった。

 

 いや、そもそも雨月うげつは、父親について詳しく語ったことがあっただろうか?

 月城も上野も驚いている様子で、問われた一戸自身も唖然としている。

 


「答えよ、雨月うげつの大将!」

 大兄おおえ兵部卿が、再び檄を飛ばす。


 一戸は、ようやく構えていた刀を下ろした。

 太腿付近まで迫る霧を見、そして父だった人を見据える。

 その人は近衛府の先達でもあったのだ。


 敬意を込めて直立し、そして力強く返答した。

「申し上げます! 我ら八十九紀の四将の絆は不変です! 我が友との絆は、稲穂の如き宝です! 微塵の偽りもございません!」


 

 凛とした太い声が響く。

 迷いなき、力に満ちた声である。

 四つん這いで霧を見降ろしていた宰相も、思わず腰を下げる厚情が籠もっていた。




「……では行け」

 大兄おおえ兵部卿は肩の力を抜き、厳しく結んでいた口元を緩める。

「そなたらは、国と民を救うために闘っているのであろう。ならば、あの黒衣のわらわを追え」


「……雨竜月うりゅうげつ様……」

「そなたらが何処に生まれ変わったかは知らぬが……平穏に暮らしているのか?」


「……家族が、我らの帰りを待っています。水葉月みずはづきには、心を寄せる乙女がいます。だから、全員が生きて帰らねばならないのです!」



 一戸の言葉を聞いた周賀しゅうが殿の肩の震えは止まった。

 息子に愛する人がいることを悟り、苦悩の表情は僅かに緩む。



「……申し上げます。周賀しゅうが様」

 和樹は会釈し、思いを込めて説く。

水葉月みずはづきは、我ら三人の助命を乞うために、神逅椰かぐやに投降したのです。しかし、神逅椰かぐやは彼を脅しました。お前の故郷の村を焼き討ちすると言われ、言いなりになるしか無かったのです」


 それは、記憶の底から浮かび上がった神名月かみなづきの意識が語ったのかも知れない。

 とにかく、これは事実だ。

 水葉月みずはづきの父親には、真実を伝えたかった。

 伝えねばならなかった。



「そうか……」

 周賀しゅうが殿は節くれだった手で目を拭い、頷く。

「……だが……その村も、もう無いのだな……」



「二年先には、稲穂が実ってますよ」

 上野は腰に手を当て、フッと微笑む。

「オレらが神逅椰かぐやを倒せば、空に浮いてる月の国も元の姿を取り戻せる。御神木に囚われた人々の魂も解放される。すぐに動けるのは二千人程度らしいけど、百年も経たずに立派な村が幾つか出来る。人々も続々と転生するでしょう。オレらは、もうこの世界には戻れないけど……」



 その言葉に、大椎国守おおじのかみの口元は引き攣った。

 最愛の息子が、故郷には戻れない。

 国が元の姿を取り戻しても、その立役者の息子たちはそれを見ることは無いのだ。

 

 その父の言いたいことを察した神名月かみなづきは、ゆっくりと頷く。


「異界に流された我らは、再び此処で暮らすことは不可能です。闘いが終われば、道は塞がれるでしょう。けれど、我らの住む異界には大切な人々が居ます。母が、私を待っています」


「そうか……」

 大椎国守おおじのかみは、涙腺を緩ませた。

 アトルシオと同じ表情を見せる若者は、紛れない我が子だと確信する。

 どこか遠い世界で、彼は母に愛されているのだと知る。

 母を愛していると知る――。



「……我らの子らを信じようではないか」

 大兄おおえ兵部卿は、相槌を打った。

 士族として、覚悟は固まっているようだ。

 宰相は息子に背を向けたまま動かず――周賀しゅうが殿は袖で目を拭う。

 

 最悪の状況は変わらない。

 だが、確かな希望は芽吹いた。

 繋がねばならないもの。

 継ぐべきもの、託すべきものを誰もが見出した。


 絶望を乗り越えられたなら、囚われている妻たちの魂は放たれる。

 父親たちは、一縷いちるの光を胸に抱く。



「では……我らは敵陣に向かいます!」

 一戸は力強く宣言した。

 自分たちの父親を見捨てて行かねばならない。

 最期に触れることも叶わない。


 だが、この先には希望がある。


「アラーシュ……ガレシャを止めてくれ……」

 宰相は背を向けたまま呟いた。

 上野は、ただ頷く。

 その瞳は薄く濡れている。

 お面の顔も同じく濡れている。

 

 

 方丈翁と蓬莱さん、ミゾレもテーブルから降りた。

 二人は何も言わず、父親たちに深く会釈する。

 二人にも、この離別を止められない。




「待って……!」

 ――蓬莱さんは、ふと左耳に手を当てた。

 

 神逅椰が走り去った逆方向から、足音が聞こえた。

 それは、やがて全員に届いた。

 耳を澄まし、誰もが空耳で無いことを無言のうちに確かめる。


 そして、優し気な声が響いた。



「……こんばんは」

 和服の肩に白衣を掛けた男性が現れる。


「先生!!」

 和樹は頬を緩めて叫んだ。


「遅くなって申し訳ない。『無名月むみょうづき』、参上いたしました」

 舟曳ふなびき先生は、電気ポットを掲げて微笑んだ。

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