第123話

 彼女を見た神名月かみなづきは、後頭部を貫かれた如き衝撃を受け、目をみはった。


 淑やかに立つ少女は、この上なく愛らしかった。

 纏う装束は、いつもと同様の『かづぎ姿』。

 だが、配色と生地が全く異なっていた。


 頭から被るうちきは、澄んだ空のような華やかな御空みそら色である。

 白の糸で雲、銀の糸で鶴を描いた雲鶴うんかく紋様が織り出され、高貴な身分であることが示されている。

 胸元には真紅の懸帯を巻き、背で結んで垂らしている。


 その下に着る二枚のうちきは、紅梅色と若葉色。

 その下の単衣ひとえは、鮮やかな黄支子きくちなし色。

 初夏のタンポポのような、明るく濃い黄の色だ。


 手には、燈芯草で編まれた真新しい市女笠を持っている。


 かづいた袿の隙間から覗く容貌かおは、眠気が千里先まで吹き飛びそうな風情である。

 はらりと頬に垂れた黒髪は、極細の絹糸よりも軽やかに揺れる。

 

 蓬莱さんの面影はあるが、醸し出す雰囲気が桁違いに優美で華やかだ。

 思わず近寄ると、桜の花に似た芳香に包まれる。



 この御方が、かつて愛した『玉花ぎょくかの姫君』なのだ――。

 記憶の底で視た姫君よりも、遥かに秀美で高雅だ。

 周囲に人が居なければ、迷わず地に伏して拝していただろう。



「中将さま……これは……」

 姫君も心惑った気配で、薄紅を引いた小さな唇を開く。


「……奇異です」

 神名月かみなづきは、動揺を脇に追いやって答える。

 腰に下げた太刀の柄に触れると、怒涛する心の臓が鎮まった。

 

 

 ――大丈夫だ。

 ――白鳥しろとりの太刀は在る。


 

 深呼吸を繰り返し、姫君の背に左手を当てて囁いた。

「姫さま、方丈様から頂いた図紋はお持ちですか?」


 言いつつも、狩衣の胸元の合わせを探る。

 教わった訳では無いが、そこに在ることが自然と頭に浮かんだのだ。

 単衣ひとえの合わせに挟んでいた蝙蝠かわほり扇を引き出し、開くと……白紙の扇面には、隙間なく図文字が描かれていた。


 間違いなく、書写したものと同じ図と文字である。

 筆で描くのは達人業、と思しき大きさの文字もある。

 

「私も……同じ扇を持っているようです」

 姫君も、懐から出した扇を広げた。

 よく見ると、二つの扇面の文字は微妙に異なっている。

 文字の間隔、などの些細な違いが見て取れる。


「姫さまの扇に書かれているのは、私が記した文字です」

 神名月かみなづきは確信し、周囲を見渡した。

 心を研ぎ澄ませ、思考を巡らせる。

 図紋を描いた書は、手の中にあるが――

 


「ここは、間違いなく月の帝都です。七重の塔の位置から察するに、西南のいちと思われますが……」

 

 彼は、首を傾ける。

「売り手の『座』が多すぎます。いちは、誰でも売買が出来る訳ではありません。寺社への寄進が必要で、赦しを得た職農工が参加できます。ただし、祭りの時は別です」


 それを聞き、姫君は茣蓙ござに座る民を眺めた。

 三十代と思しき男二人が、麻袋に詰めた米を売っている。

 彼らはどこかの村の頭領で、昨年の収穫を荷車に積んで来たのだろう。

 米は塩などと交換し、村に持ち帰るに違いない。



「では、今はお祭りの真っ最中なのでしょうか?」

「そのようです。旅装の者も多い。見物に訪れたのでしょう」


 神名月かみなづきは、自然と言葉を綴り出す。

 自分が『神無代かみむしろ和樹』だと云う自覚はあるが、意識は『神名月かみなづきの中将』に大きく傾いている。

 今までの闘いでも、これほど意識が変化したことは無い。

 『神名月かみなづきの中将』の人格に、『神無代かみむしろ和樹』の知識が付加されたに等しいが、特に違和感なく過ごしている。

 

 

 彼は人の流れに乗りつつも、姫君を庇うように歩いた。

 歩くうちに人は増えていくが、多くは二人を避けるように自然と左右に分かれる。

 若い貴族がお忍びで、徒歩かちで進んでいると考えているのだろうか。



「……まさか、『時映ときうつしの術』と云うことは考えられませんの?」

「姫さまも、それを疑われていらっしゃいましたか」

 

 問われて、警戒するように左右を睨む。

 敵を『幸福な夢』に引き込み、永遠に封印すると云う『時映ときうつしの術』。

 非常に危険な技だが、それに引っ掛かったとは考え辛い。


「あの術の使い手の亜夜月あやづき様の魂は浄化されました。それに術に掛かった者は、それを自覚できません。我らが疑いを持てると云うことは、『時映ときうつしの術』とは異なる現象だと思われます」


 彼は言葉を切り、右手に持った蝙蝠かわほり扇を見下ろす。

「我らはたがいなく、花の国の王都近くの村に降り立ったのです。私が今生に転生し、最初に降りた地です。村に居た四頭の犬たちと再会しました」


「そう云えば、亜夜月あやづき様との闘いの後で、重なっていた帝都と王都は分離したのでしたね。ここが何処かは分かりませんが、王都の犬が帝都に居るのでしたら、まだ重なっていると云う事でしょうか?」


「それが奇妙なのです。街並みは、私が記憶している帝都のものですが……」


 見上げた神名月かみなづきの瞳が捉えるのは、向こうに見える桜並木だ。

 帝都要所に植えられ、咲き始める季節に――



鶯時祭おうじさい……」

 彼は、呆然と囁く。


 なぜ、周囲の喧騒を見た時に気付かなかったのか。

 春に行われる祭は、『鶯時祭おうじさい』以外に在り得ない。

 特に五年ごとの『鶯時祭おうじさい』を人々は待ち侘びる。


 帝都の護りの要となる『近衛府の四将』叙任の儀が開かれ、新たな四将が騎馬にて大路を練り歩き、その姿を披露する。

 若き将たちの美々しい姿を見ようと、人々は遠方からも訪れる。

 泊まる場所が無い民は郊外で野宿し、検非違使けびいしは警護に忙しい。

 民の刃傷沙汰が起きては、帝都検非違使けびいしの名誉にも関わるのだ。


 一方、僧たちも野宿の場に現れて説法に励む。

 炊き出しの粥を配り、『大いなる慈悲深き御方』への帰依を諭し、経文を配る。

 紙など手に入らない民には、宝物に等しい。

 大切に持ち帰り、家の中柱なかばしらに飾るのだろう。



 ――彼は確信し、遠方の七重の塔を見やる。

 あの手前に月帝さまの住まう『月照殿』があり、傍らの『武徳殿』より『近衛府の四将』たちが出立する。


 だが――

 出立する四将たちは誰なのだろう?

 自分たちは『八十九紀』だ。


 ここが過去だとしたら……まさか、自分たちの行列を観ることになるのか?

 自分たちが最後の『近衛府の四将』なのだから。

 自分たちを最後に、二つの国は闇に呑まれたのだから。



「姫さま、大路に向かいます。遠いけれど、歩けますか?」

「はい。ご心配なく」


 淑やかな声とは裏腹に、姫君は力強く頷く。

 幼女の頃より、国を背負う覚悟を決めた姫君だ。

 鋼の刃のような芯の強さを、彼は良く知っている。


 彼は姫君の手を取り、歩調を合わせて歩き出す。

 



 体感時間にして、一時間半は経っただろうか。

 二人は、帝都大路付近に辿り着いた。

 路は混んでいたが、避けてくれる人々のお陰で難儀はしなかった。

 それに喉も乾かず、疲労感も無い。

 やはり、自分たちは実体とは異なる存在なのかも知れない。

 草履に足袋の姫君の足を心配したが、これならば大丈夫そうだ。

 

 熱気で、真夏の如き風が頬を刺す中――二人は、無言で『近衛府の四将』の到来を待つ。




「おい、四将のお出ましだぞ!」


 ――男の声が上がった。

 大路の左右に詰めた懸けた群衆が、わーっと呼応する。

 神名月かみなづきと姫君の前には三列ほどの人波があり、検非違使けびいしたちが並び立って、群衆を抑えている。

 白い狩衣に藍色袴と云う、『鶯時祭おうじさい』用の警備装束だ。

 

 小太鼓の音も近付いて来る。

 行列が近付いた証である。


 小太鼓を打つのは、橙色の水干を纏った二人のわらわ

 その後ろに、濃紺のほう姿の検非違使たちが続き、緋色の袍の武官、瑠璃色の袍の文官たちの騎馬が続く。


 更に三十人ばかりの、狩衣・汗衫かざみ姿の若き随身ずいじんの男女が続く。

 彼らは近衛府の出身で、行列の主役たる『近衛府の四将』の同期だ。


 神名月かみなづきは、自分の同期が居ないか必死に探したが――見当たらない。

 この行列の主役の『四将』は、『八十九紀』では無いようだ。


 では、何紀の四将なのか――

 目を凝らしいると、近衛督このえのかみの騎馬が間近に来た。

 近衛督このえのかみは、近衛府を統べる重責を担う。

 樹皮に似た濃い檜皮ひはだ色のほうを纏った男性を見て――神名月かみなづきの身は強張った。


 それは間違いなく、『第八十八紀』の大将を勤めた『火名月ひなづき』だった。

 

 見間違える筈が無い。

 勇猛で、実直で――けれど、闘わざるを得なかった相手だ。


 しかし――目の前の彼は違う。

 彼が知る火名月ひなづきよりも、年齢としを経ているように思える。

 雄々しさは少し影をひそめ、腰を据えた落ち着きか感じ取れる。



「……九十紀……」

 隣で見守っていた姫君は嘆いた。

「これは『第九十紀の四将』のお披露目です……中将さまの後輩の……」

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