第21章(上) 宵待の月、時映しの月

第122話

 九月の北海道――

 夏の息吹は鎮まり、振り返りつつも秋に場を譲る。

 秋は密やかに、色付いた木々の実を揺らす。


 

 今宵九月二日の月は、六日月である。

 三日月よりも幅広い金色こんじきが、鮮明に夜空を彩る。

 来週の九日は、十三夜月だ。

 かつての『花の国』では、望月みちづきに次ぐ『縁起の良い月』とされ、餅と稲を捧げて豊穣を祈った。



 和樹は夕食のハンバーグと味噌汁を平らげ、後片付けをし、漢文の宿題を終えた。

 そして午後八時五十分。

 浴槽に満ちて行く湯を見つめながら、電話をする。

 相手は、蓬莱天音さんだ。


「じゃあ、九時半になったら潜るね」

「ええ、大丈夫よ」


 蓬莱さんの声は、いつもと変わらず落ち着いている。

 

 今夜は、母の沙々子も蓬莱さんの祖母の七枝さんも不在だ。

 沙々子が「優待券があるから」と、七枝さんを近場の温泉施設に誘ったのである。

 無論、岸松おじさんが手配してくれたのだ。

 

 翌日は七枝さんも公休日であり、和樹と蓬莱さんの『魔窟の偵察』がつつがなく行われるようにとの配慮だった。

 

 偵察と云っても、現世での体感時間は数分だろう。

 危険も少なく、七枝さんが在宅でも問題は無い。

 だが、家を空けるのは自分たちへの思いやりだと分かっている。

 母も、闘いが終われば『蓬莱天音』が消えることは察している。

 だからこそ……

 

 

(もう一度、あの場所に戻る……)

 半分溜まった湯に指先を差し入れ、感慨に思いを馳せる。

 

 降りる場所は、最初に降り立った『村』である。

 『花窟はなのいわ』の王都の外れに位置し、影の如き人々が蹲っていた場所だ。

 彼らは悪霊化しなかったが、意思も気力も失い、同じ場所を彷徨っては寝そべる、を繰り返していた。

 犬の一家だけが、奇しくも感情を失わずに動いていた。



 そこに、正確に着地するための図紋も描いて貰った。

 昏睡状態の月城の見舞いに行った時――

 幾夜氏と舟曳ふなびき先生に事情を話すと、幾夜いくや氏は書道紙に、まじないの図紋を記してくれた。


 それは鳥居に似た図形の周りに、円や半円や直線を組み合わせた不思議な文字を配したものだ。


「君は書写をして、天音くんに渡しなさい。二人とも、それを手にして潜行しするように。確実に、あの場所に行ける」

 

 書き終えた幾夜氏は、疲れたように瞼を閉じた。

 付き添っていた舟曳ふなびき先生は力強く頷き、和樹は畳に指を突いて拝礼した。

 長きに渡り、自分たちを見守って下さった偉人たちに深い感謝を捧げる。

 幾夜氏の生命は、間もなく尽きる。

 舟曳ふなびき先生は、また霊界に戻るのだろうか。


 あの世界から流され、現世に転生した者は二度と戻ることは出来ない。

 蓬莱天音さんは、『玉花ぎょくかの姫君』――『蓬莱の尼姫』の力を貸し与えられた存在であり、魂自体は『魔窟』に在る。


 あの世界で妻だった彼女とは――闘いが終われば、永久に離別する。

 



「……これで良いんだよね……」

 和樹は、心もとなく呟いた。

 二度と戻れないと知りつつ、引き摺る想いは断ち切れない。


 すべきは、久住さんと村崎綾音さんの御両親を連れて帰ることだ。

 それに、あの世界には自分たちのニセ者たちも居る。

 彼らが、新しい世界の担い手になってくれる。

 そのために、『蓬莱の尼姫』は必要だ。

 

 彼女が強大な霊力を有した存在となっていることは、疑いの余地が無い。

 彼女が望めば、魂を捧げても良い。


 けれど――現世を捨てることは出来ない

。母を独りには出来ない。

 久住さんの手を離すことも出来ない。

 


 妖しく乱れる心を必死に抑え、浴槽を巡る湯を見つめる。

 月城は、今週から登校した。

 昼休みに例の水飲み場に集まって話をすると、決着が付くまでは方丈家に世話になる、と彼は言った。

 体の痛みは消えたし、体力も間もなく回復する、とも。


 彼の登校を三人で喜んだが、不安は拭えない。

 闘いに勝ったとして、彼が現世で生きて行けるのか――

 彼は、処刑された自分たちとは異なる方法で現世に辿り着いた。

 肉体も、あの時のままだ。

 

 彼の魂の在り方は判らないが、彼が不幸になるのは望まない。

 彼の着地点が『現世』であろうとなかろうと――生きていて欲しい。




 ――浴槽の湯が溜まり、給湯器のブザーが鳴った。

 蛇口を閉め、シャワーの温度を四十度に設定する。

 腕時計の針は、午後九時を差している。


 シャツとハーフパンツを脱ぎ、シャワーで身を清める。

 頭髪も洗い、時計を見ると九時二十五分を回った。

 脱衣所に置いていた書道紙を握り、浴槽に浸かる。

 厚めの画仙紙で、幾夜氏が記した文字は不思議と滲まない。


 書写用に同じ紙と墨汁、筆と硯を借りたが、書写は奇跡的に上手くいった。

 いや、恐らく自分の中の『神名月かみなづき』は、この文字を知っていたのだろう。

 読めはしないが、一文字も間違えずに書ききった。

 その出来に満足し、蓬莱さんに渡したのだが――



(蓬莱さんも、僕の書いた字を見てるのかな……)

 和樹はフッと微笑み、書道紙を膝の上に沈める。


 浴室に香りが立ち昇ってきた。

 蓬莱さんが引き入れた『黄泉の水』が、こちらの浴槽にも流れっただ。

 

 

 和樹は、瞼を閉じて深呼吸する。

 あの世界に降りて、二人で過ごす。

 一時の夢でも良い。

 二人の時間を取り戻したい。

 あの御手に触れ、瞳を見つめたい。


 永遠の中に、それを封じ込めよう。

 愛し合ったこと。

 その美しい記憶を。



 神名月かみなづきは、黄泉の流れに真心を委ねる。

 心地良い流れはいつもより優しく緩やかで、母の腕に抱かれているよう。



 瞼を開けると、無数の白い光が視えた。

 それは一つの大きな光となり、降りていく神名月かみなづきを受け止める。

 幾つのかの腕が伸び、彼に衣を差し出した。


 白き小袖、濃き紫色の単衣、藍色の指貫、そして桜色の艶やかな狩衣。

 烏帽子に、皮のくつ

 長い髪は、項の下で紐で括られる。

 

 伸びた腕は、神名月かみなづきの中将を美しく着飾らせた。

 姫君の若き背(夫)に相応しい、綾織で仕立てた装束を。



 そして、彼はゆるりと地に降りる。

 真っ先に、人の喧騒が耳に入った。

 見回すと、そこは寂れた闇夜の路地では無かった。


 赤味がった巨大な月は、空には在らず。

 淡い紫たなびく青い空が、頭上を覆う。


 それは記憶の底に眠っていた、懐かしい故郷である。

 家が立ち並び、通りは人の活気で溢れ返る。

 

 いちが立ち、身分高き者の使いや、市井の民が茣蓙ござに並ぶ品を見繕っている。

 茣蓙ござに並ぶは、反物、皮、器、塩、干した魚、米、炭、焚き木など。

 それを持ち寄ったきぬと交換するのだ。

 魚に釣られた烏が頭上を飛び、犬が人の足の隙間を抜ける。


 民の装束は質素ながらも、貧しき風情では無い。

 こざっぱりと、染めた麻布で仕立てた水干や小袖を着る。

 

 彼らは、神名月かみなづきを避けて歩く。

 紋様織の絹装束の者が徒歩かちにて行くのは、極めて珍しい。

 輿に穿いた太刀からも、上流士族であることが分かる。

 人々は敬意を払いつつも、触らぬように気を使っているのだ。


 だが神名月かみなづきは、ただ立ち尽くす。

 降りた場所は、闇に染まった『花窟はなのいわ』の王都の筈だ。

 

 だが、ここは平和だった頃の『月窟つきのいわ』の帝都だ。

 遠くに建つ、帝都僧院の七重塔が見えるのだから間違いない。

 

 この景色は、幻なのか――

 人の息遣いは、本物なのか――

 

 思わず踏み出そうとしたその足を――何かが軽く突いた。

 見ると、四頭の犬がた。

 

 茶色の父犬、白の母犬、黒い仔犬と茶色の仔犬。

 四頭とも、嬉しそうに尻尾を振っている。


「お前たち……」

 彼は呟き、母犬の頭を撫でた。

 仔犬たちも、嬉しそうに足に擦り寄って来る。

 間違いなく、あの犬の家族だ。

 初めて『魔窟』に降りた時に出会った、犬の一家だ。

 あの時は影のような姿だったが、今は違う。

 なぜ見た目が変わり、此処に居るのだろう?



「……中将さま」

 澄んだ柔らかな声が、髪を撫でた。

 振り向くと――玉花ぎょくかの姫君が其処に居た。

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