第120話
ブッフェを堪能した二人は、タクシーでモールに戻った。
お土産のエクレア入りジョッパ―二つを手に下げ、モール三階の帽子屋を訊ねる。
ベレー帽を落として沈んでいた
リードから放たれた仔犬のように、陳列棚の帽子を見て回る。
彼女が選んだのは白いキャスケットで、三千三百円。
そして、スミレのコサージュが六百円。
「帽子との同時購入で二百円引きになります」との店員の言葉と、
しかし、予想を超えた出費に肝が冷えた。
デート代二万円を、ほぼ使い切った。
貯金から一万円を持ち出して来たが、岸松おじさんの心付けが無ければ、大変なことになっていた。
しかし、元気を取り戻した
キャスケットがとても似合っており、一緒に歩くのは悪い気分ではない。
「ナシロっち、風が気持ちいいね♪」
モールから出た
縫いぐるみ入りのジョッパ―を大事そうに腕に抱えている。
「ね、歩いて帰ろ。歩いて帰りたいよ~♪」
「うん、いいよ」
和樹は、快く頷く。
マンションまでは、二十分余り掛かる。
けれど、晩夏近くの午後の風は、確かに心地良い。
和樹は思い切り息を吸い、自然の息吹を存分に味わう。
途中に、久住さんが通った予備校のビルが在った。
ここで久住さんは拉致され、代わりに
和樹は、ふと疑問を抱く。
(僕らのニセ者たちは、『魔窟』と『現世』を自由に出入りできるんだっけ。でも、僕は現世の物を持ち込めない。持ち込みが出来るのは、月城だけっぽいな)
自分も一戸も上野も、『魔窟』に着いた時には衣装チェンジしている。
月城だけは現代服を着たままで、方丈日那女から借りた刀も持ち込んでいる。
(だから先輩は、あの池から最終決戦に向かうと言ったのかな……)
月城が流れ着いた方丈家の庭の池――
あそこに飛び込むのだろうか?
「ね、ナシロっち。知ってる?」
「ここから近い着物学院で、十二単の着付け体験できるんだよ。袴は履かない簡易版だけど」
「へ?」
「費用は二万円だって。
「……二万円……」
「やだぁ♪ 着せてくれって言うと思ったんでしょ?」
彼女は、いつになく生真面目な顔付きだ。
「安心して。ちょっと着たいなって思っただけだよ。お姫様みたいにピンクの着物を重ねて、裾を引き摺って歩くの。……うまく歩けるかな?」
「
和樹は足を止める。
何を言ってるんだ、と思った。
まさか――『魔窟』に行くと言ってるのだろうか?
行っても良いと?
同意してくれるなら。それに越したことはないが――
「そうだぁ! ミゾレのお土産を買ってないよ~。そこで買おう♪」
和樹は頷き、残金でキャットフードを買うことにした。
岸松おじさんに深く感謝しながら。
自宅の玄関前で
エクレアの箱を仏壇前に備え、
もうじき、父に再会できるだろう。
それも束の間――別れることになるだろう。
けれど、父の魂は自分と母を見守ってくれるだろう。
(……そうだよな。こんなことになったからこそ、父さんと会えた。それも、
和樹は、かつてお仕えした主を思う。
あの御方は、ずっと自分たちを見守っていて下さったのだ。
現世では忘れているが、霊界ではお見受けしたことがあるかも知れない――。
和樹はもう一度仏壇に合掌し、リビングに戻った。
トートバッグに入れたままのスマホを取り出そうとした時――ビニールポーチが目に入った。
例の醤油さしを入れたポーチである。
五個ほど入れていたのだが……
「え……?」
ポーチをかざして見て、驚愕する。
ジッパーを開き、取り出してみると――魚型の醤油さしは、全て潰れていた。
中に詰めていた筈の『黄泉の水』は、一滴残らず消失していたのである。
「何で!? いつの間に……」
潰れた醤油さしを、まじまじと見つめる。
蓋は閉まったままだが、ペチャンコに潰れている。
いつの間にか、敵と遭遇していたのだ。
それも、かなりの強敵と。
「
彼女の態度の急変を思い出した。
スイーツガーデンのトイレから出て来た後から、彼女はしおらしくなった。
あの時、彼女に何かが起きたのでは――
リビングの芳香剤ボトルを手に取り、網戸を開け、靴下のままでバルコニーに飛び出した。
緊急時の避難経路でもあるバルコニーは、隣家と繋がっている。
久住家とを隔てる仕切り版の前で四つん這いになり、ボトルを置いた。
方丈日那女から貰った『黄泉の水』を詰めたボトルだ。
近くに強敵が居れば、醤油さしの中身同様に反応がある。
が――ボトルの中身に変化は起きない。
『悪霊』も視えない。
耳を澄ますと、久住さんの母親と
安堵して立ち上がり、しかし緊張を解かずに向かいのマンションを観察する。
蓬莱さんとお祖母さんが住むマンションだ。
やはり敵は視えないが、油断は出来ない。
リビングに戻り、蓬莱さんに電話をしようとスマホを手にすると――電話の着信が鳴った。
確認すると、相手は方丈日那女である。
急いで画面を操作し、応答する。
「先輩! 実は」
『分かってる』
日那女の低めの声が
『いいか、落ち着け。このことは、まだ他言無用だ』
「え?」
『落ち着いて聞け。私の目の前に、黄泉姫がいる』
「えっ!?」
『心配は要らん。座って、ジャムパンを食ってる』
「……月城は無事ですか!?」
「ああ、眠ったままだが。後で連絡する。お姫様を帰らせてからな」
――ここで通話は切れた。
和樹は困惑したまま、スマホ画面を見つめるのみだ。
(……なぜ、彼女が?)
和樹は顔をしかめ、ソファーに腰を降ろす。
他言無用と言われた以上は、一戸たちにも相談出来ない。
自分たちを助けてくれた黄泉姫が、今になって
縋るように見つめた父の遺影は――穏やかに微笑んでいた。
「さて……用は済んだだろう? 直ぐに帰れ」
日那女はタオルを絞り、月城の額に当てる。
そして、縁側でジャムパンを頬張る女を睨む。
女は、白拍子風の装束を身に付けている。
烏帽子に紫色の水干、それに濃紫色の切袴を履いている。
あぐら座りで、二個目のジャムパンに手を伸ばした所だ。
庭先には太刀が投げ置かれ、傍に濃い灰色の衣で包まれた丸い物体がある。
衣の一部には、黒っぽい染みが滲んでいる。
風が、血の臭いを運んで来る。
それを感じ取ったのか――月城が僅かに唇を開く。
日那女は彼を庇うように、その胸に手を当てた。
「……月帝さまが御不在のうちに帰れ。その浅ましい姿を見せるな」
低い声で吐き捨てる。
部屋の隅に居る黒猫が、ミャアと鳴く。
黄泉姫は唇に付いたジャムを舌先で舐め上げ、
「嫌われたものだな。
黄泉姫は、庭に転がるそれを眺めて妖しく笑った。
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