第117話
「私が知っていることだけを話そう。月帝さまは……そなたたちが処刑された後に、自決された。恩自ら
「……そうでしたか」
日那女の言葉に、一戸と和樹は肩を落とす。
過去の想いが沸き上がり、目の奥が熱くなる。
処刑を受け入れたのは、故国に災禍が及ぶのを恐れたからだ。
自分たちの逃走が長引き、罪なき者に危害が加えられるのを避けるためだ。
それ故に『
けれど、それは救済とはならなかった。
その事実は――惨い。
お仕えした月帝さまの御心痛は、如何ほどであっただろうか。
国は闇に包まれ、実妹の王后とその夫の王君は自決され、近衛府の四将たちは散華した。
最後に縋られたのは、『蓬莱の泉』の流れる果てにある『異界の世』――。
そこに流れ着くであろう『第八十九紀の四将』に全てを託し、自らも救いの手を差し伸べるべく、身を捧げたのだ。
日那女はストローで紅茶を啜り、瞼を伏せる。
「言っておくが、茶道部顧問を務めている人物は、実在する。本名は違うがな。蓬莱天音同様に、月帝さまの霊体が憑依している。全てが終われば、顧問本人は夢から覚めた気分に陥るだろうが、変わらず登校して茶道部の指導をするだろう」
「……その時に名前が変わっていても、生徒たちも気にしない訳ですね?」
「そのために、街を結界で包んでいる。名前の変更などは、泡が弾けて穴が開いたに等しい。その穴を埋めるのが、父と……後を継ぐ私の役割だ」
「……分かりました。
一戸は指の先を畳に付け、お辞儀をする。
和樹も倣い、聡明なる先達に深い敬意を表する。
彼女が覚悟を決めている以上、これ以上押し止めるのは無礼であろう。
自分たちが同じ立場ならば、やはり同じ行動を躊躇わない。
為すべきは、
そのために、自分たちは此処にいる。
二振りの霊刀が揃い、全ての仲間が集い、現世の家族や親族も後押ししてくれる。
これ以上の条件は望めない。
ここで決着を付けねばならないが――
「あの……先輩。ひとつ、お願いがあります」
和樹は顔を上げて乞う。
「その……たぶん、幾夜様に頼むべきかと思うのですが」
和樹は、隣の一戸を気にしてか――言葉を濁した。
◇
◇
◇
――同じ頃。
――黄泉の川を越えた場所。
御神木の麓の『
御簾の外を吹く風音は穏やかで、鈴虫の声がそれを彩る。
薄い月明かりが御簾を染めるが、それは御簾の内には入って来ない。
御簾は人の魂を削る月明かりを断ち、庇護してくれる。
「……そして夕霧は、親友の柏木のお見舞いに行きました。柏木の昇進を祝う人々が大勢集まっていましたが、柏木はひどく衰弱し、起き上がることもままなりません。それでも友に一目会いたいと、烏帽子を被って身なりを整えます。呼ばれた夕霧が部屋に入ると、柏木は枕から顔を上げました。その面差しはやつれていましたが、前よりも清らかさを増して見えました」
「なんと……哀れなことよ。最愛の友との今生の別れ……ううっ」
黄泉姫は、袖で目頭を押さえた。
久住千佳は、必死で『源氏物語』のストーリーを語る。
中学生の頃、参考になると思って漫画版を読んだことがあるのが役に立った。
ある日、いつものように黄泉姫に物語を語っていた時。
ひょんなことで『源氏物語』の一巻『桐壺』を語ってしまった。
不覚にも、これが長い物語だと言ったのが良くなかった。
黄泉姫は続きをせがみ、部屋に戻ってからは、村崎香織さんと共に『源氏物語』の筋書きを語り合った。
和紙に筋書きをメモし、ヒロインの『紫の上』が登場する部分は欠かさず語るように努めた。
『玉鬘の君』が登場する部分は、物語進行に大きく関わらないので割愛しよう。
若い頃の恋人『空蝉』と再会する話は入れよう、などと検討し合った。
かくして、今日も黄泉姫は感涙に
その様子を見るたびに、不思議な人だと――久住千佳は思う。
高飛車だが、涙もろい。
会うたびに「所望があれば、遠慮なく申せ」と言ってくれる。
確かに、どこか――蓬莱天音を彷彿させる部分がある。
どこか近寄りがたくて、でも親身になってくれて――。
「……尼となった女三の宮さまは、柏木が亡くなったことを侍従から聞きました。愛していたのかは、今でも分かりません。けれど、我が子の薫の父親です。心静かに、冥福を祈りました。一方、夕霧は柏木の正妻だった女二の宮さまが気に掛かります。女三の宮さまの姉君ですが、ご実家は権勢ふるわず、今は母君と寂しく暮らしていると聞いたからです。……では、御方さま。続きは、明日に致しましょう」
久住千佳は語り終え、頭を下げた。
女房装束の立ち居振る舞いにも、すっかり慣れた。
少し伸びた髪を項で纏め、その下に長い付け毛を垂らしている。
母親同様に接してくれる村崎香織さんのおかげで、どうにか心落ち着いて過ごしている。
自分を攫ったニセ者の
何が起きたかは分からないが、当面は安心して良いだろう。
けれど、やはり帰りたい。
両親に会いたい。
友達に会いたい。
学校に行って、部活に出て……
そして……
すると、御簾の外から荒々しい足音が聞こえた。
女ではない。
明らかに、男のものだ。
「……ふざけやがってえええええ!」
御簾が捲られ、憤怒を浮かべた男が立ち入って来た。
黄泉姫は扇で女房の
「動くな、クソども!!」
男は叫ぶ。
その
二十代半ばと思われる男で、紫紺色の直衣に烏帽子姿である。
髪を振り乱した険悪な表情が、その高雅な衣装を台無しにしている。
「殿、落ち着いて下さいまし……ぺったんこ~♪」
黄泉姫はケラケラと笑った。
「思うたより、早いお出ましでございますな。首が戻ったようで何より」
「女の分際で
「あれ、生首で現れたのは殿ではございませんか。ぺったんこ~♪」
黄泉姫は高笑いし、他の女房達も呼応するように笑い出した。
だが、久住千佳だけは、凍り付いて失神寸前である。
何が起きているか全く分からず、恐怖で視界がぼやける。
そして――ここが敵地であることを思い起こす。
目の前にいる悪鬼の如き男が、和樹たちの命を狙っているのは間違いない。
息も出来ずに目前の惨禍を見ていると――男がこちらを睨んだ。
心臓が貫かれるような痛みを感じ、過呼吸を起こして前のめりに倒れる。
「
黄泉姫は立ち上がった。
赤い唇から放たれるは、怒声である。
「
「ぐあああああああ!」
――男は絶叫し、御簾の外に吹き飛んだ。
捲れた御簾は、たちまち元に戻って月光を遮断する。
庭から、裏返った声が四方に響いた。
「くびくびくびくびくびいっ!」
「ふん、騒々しい奴よ」
黄泉姫は吐き捨て、久住千佳に寄って来る。
「すまぬ、我が
黄泉姫の手が頬を撫でた。
それは意外にも温かく――呼吸が楽になっていく。
久住千佳は涙を拭い、頷いた。
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